2021年11月23日
「農の歴史」シリーズまとめ~歴史に学ぶ農の可能性と危険性
(最初に立てたテーマの構成)
1.農業の起源
2.林業・漁業の起源
3.日本への農業の輸入
4.村落共同体の起源
5.江戸時代、農民は百姓と呼ばれた。
※6.戦後大きく変わった農業生産と共同体。その変遷と現在を見ていく。併せて林業、漁業の現状にも触れて、次の世代の可能性を考えていく。(このテーマは次回)
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この間、11の記事で「農の歴史」を追求してきました。様々な疑問にチャレンジしてきました。
・そもそもなぜ農業は始まったのか?なぜ縄文時代には農が普及しなかったのか?
・それがなぜ、どうやって日本に定着したのか?
・農の中でも中心的な稲、麦とは何か?
・農によって日本人はどのように移り変わったのか?
・稲作を中心とした日本人の気質はいつどのように作られたのか。
・江戸時代に拡大した農業の実態とは何か?
以上から見えてくるのは急速な寒冷化と人口圧といった気候変動と集団の関係の中で農業は登場し、常に戦争や搾取の圧力と集団をどう作るかという課題の中で存続していきました。日本の農業が成功したのかどうかは歴史を見るだけでは結論は出ませんが、一時(とき)江戸時代の農業と自然、集団のありようは農の一つの成功事例であり、今後の農を考える可能性の緒かもしれません。たった11の記事で農の歴史が紐解けたとはとてもいえませんが、農を考えるきっかけをいくつか提供できたかと思います。農に限らず、いかなる追求もまず歴史構造からという意味でこの最初のシリーズを終了させていただきます。
※下記に全記事をダイジェストで紹介します。詳しく読みたい方はぜひタイトルをクリックして読んでみてください。
人類が農耕を始めたのは、1万5000年程前(人類史でいう、「後期旧石器時代」)から始まる「ヤンガー・ドリアス寒冷期」がきっかけとされています。しかし、寒冷期と人口圧の増加は、周囲の環境を一変させ、深刻な食糧不足に人類を追い込んでいきました。そこでやむを得ず始めたのが「農耕」というわけです。
土地を読み、天候を読み、時間を管理する「農耕」は凄まじい追求力と観念体系を人類にもたらしたでしょう。しかし人類にとって農耕はいいことばかりではなかったようです。
農耕は、「備蓄」や「保存」を可能にしました。そして年代が進むと、人類はついに牧畜を行うようになります。そこで初めて生まれた意識が「私有意識」だったのではないでしょうか。「私有意識」はやがて集団同士に亀裂を生んでいきます。もし農耕が戦争を引き起こすと知っていたら…「労働」制度が生まれ、余暇が失わ農耕は人類にとって進んでやりたいことではなかったのかもしれません。
農業、林業と比べて漁労の歴史は格段に古い。その意味では漁労とは農業や林業とは全く異なる歴史を辿って来たと言える。
漁労とは狩猟、採取、漁労という3つの枠に入る人類で最も古い生産様式の一つを引き継いでいる。ところが漁業となると農業が1万年前に比べるとかなり歴史は浅く、せいぜい1000年前、つまり市場の歴史が漁業の歴史でもある。しかし、一方で漁業やそれに従事する漁師がその後に発生した工業や商業と比べて本源性を維持し、漁業という集団を自治し、海や川という境界のない世界で互いにルールを決めて自制していた事は特筆に値する。市場に巻き込まれながらも近年においてさえその制限を守り、海に入るときには古くから入会という独占を制限する習慣を有していた。
地球上のあらゆる産業が際限なく発展し、自然を破壊し、自らの生きる場を改悪したのに対し、海で生きる漁師はそれに抗い、自然の摂理の中で生きることを知っていた。
一般的に小麦は乾燥地帯にも適応できる強い作物。稲は十分な水を要する作物とされています。それが民族ごとの労働観に繋がっているという指摘があります。小麦は水が少なく、傾斜した地でも育てることが可能です。そのため、どれだけ耕地面積を増やせるかが生産性に直結します。一方稲は、多量の水が必要で、平らな場所でないと育ちません。日本の原風景である美しい棚田も、傾斜な土地を平らにして水を張っていますね。
簡単に言ってしまえば、稲の方が手間が掛かるのです。個人で土地を平らにして、水を引くのは至難の業で、周りの人との協力が欠かせません。また、定期的な水の入れ替えや苗代づくりや雑草刈りなど…生産意欲がなければ、とてもやっていけません。
これらのことから、小麦作の地域では「個人主義」や「奴隷制度、機械化」が定着していくのに対して、稲作の地域は「相互依存性、集団意識」や「勤勉」が重要な規範となったという分析があります。
江戸時代の始まりは日本中の山々は殆ど禿山でした。樹木を得るために既に本州には木がなく北海道まで遠征した。結果北海道の山まで殆ど禿山になった、現在の日本の風景とは全く異なる日本があったそうです。
禿山と林業、大いに関係があるようです。つまり林業とは木を切って売る業ではなく木を植える植林がはじまりでありその本質のようです。
植林の始まりは室町からと言われていますが、実はもっと昔、奈良、平安時代から植林は進められており、676年森林伐採を制限した法制ができた辺りからかと思われます。自然の資源は限界があり、取りすぎない、循環の中で恵みを得るという発想は元々縄文時代から我々日本人のDNAに組み込まれており、江戸時代になぜ国家事業として成し得たのかは、徳川の力というより、縄文体質を持った徳川が日本人の本来持っていた価値観に訴える事ができたからではないかと私は思います。
【農の歴史】第5回 縄文人は農耕をなかなか受け入れなかった?
狩猟採集民は自然に対して常に「何が起こるか分からない、未知の存在」として認識しています。時には恵みを与えてくれる感謝の対象であり、時には災害をもたらす畏れの対象です。人々はそうして常に変わり続ける外圧に「今」「どうする?」をひたすら考えているのです。あくなき自然への同化追求=一体化追求が意識の根底にあるとも言えます。
それに対して、農耕民族にとっての自然は、(未知は未知なのですが)ある意味「こうあるべき(こうあってほしい)」という「正解」を探る対象です。ここで言う未知とは、「あるべき理想との差」のことであり、追求とは「あるべき正解に正す」行為と言えるかもしれません。
余談ですが、農耕牧畜は私権意識⇒略奪戦争の起源という説がありますが、この、「自然を人間のために“正す”」という意識は、自然を支配し、破壊する近代科学につながっている可能性もありますね。
【農の歴史】第6回 日本農業の歴史~、農業は渡来人支配の歴史でもあり、共同体温存の歴史でもある。
農業の始まりから拡大まで~
稲作を中心とする農業とは渡来人の縄文人支配の為の道具であり、それを受け入れた縄文人もまた舶来思考、受入体質故に、そのやりかたに巻き込まれていった。そこに巧みに神社を使い稲を神格化していったという歴史がある。つまり稲作の歴史とは支配から始まっている。しかし、一方で大衆側(縄文人)は決して搾取という意識では捉えておらず、ありがたい恵みとして稲を迎え入れていく。その後 縄文人集落は農業によって惣村という形で共同体として温存されていき、農業は支配の歴史の裏返しとして日本人の共同体温存の歴史でもある。
【農の歴史】第7回 惣村の歴史は農村の歴史~日本独自の村落共同体の原型
鎌倉後期から自生した惣村は後に江戸時代まで続き、さらに明治以降も農村自治はこの惣村の延長によって続いていきます。
惣村の原理とは・・・
・「一致団結」
・自衛集団から自治集団へ
・リーダーによって構成される宮座という祭祀集団に依る運営
・寄合が最終決定で全員参加が原則
・全てのルールを自ら決めていった
・目的は戦乱や犯罪から村人の命や財産を守る
・団結を守るために村内の掟である惣掟を定め掟を破ったものは厳しく処罰された。
惣村そのものが、政治の三権を全て担って自らの生きる場を自ら作っていった、まさに縄文時代の共同体が農と中世の危機によって復活していったのです。このような事例は世界でもおそらく日本だけです。農業にその力があったのか日本人の本来持つ縄文体質(協働性)にその力があったのか、議論が分かれるところですが、水田稲作というのは麦作文化と違って奴隷根性や労働管理された中では生産性は向上しないということの現れだと思います。後に江戸時代に惣村の最小単位が家族単位まで分割された小規模農業は最大の効率と品質を上げていきます。
【農の歴史】第8回 江戸の農~”いつから・なぜ”農民は百姓になったのか
百姓は百の業なだけでなく、百の作物であり、そのためには徹底した自然への同化、追求、知恵に長けて、ゼロから有を作り出していく存在といったところでろうか。いずれにしても専門分化した現在の職業人とは全く別のベクトルを求められた万能人だったのだと思う。それが江戸時代、小農制の中で生み出された新しい農のありようだったのではないか。
総じて江戸の農業化は小農化⇒勤勉化⇒多職能化⇒高度化。
それを支えたのは農業全書や地域の農業を中心とした人の繋がりであったと思われる。これは市場化に刺激を受け日本人の勤勉、惣村を中心とした地域連携等様々な集大成が江戸で完成したと見られる。
その中でおそらく農が日本で初めて、そして最後に商売になった。江戸の農業がどうやって市場経済に載せたか、現在とはまったく異なる視点がありそうな気がする。江戸の農とは大衆の能力革命を起こしたのではないか?=それが最初に提起した「百姓」という言葉に象徴されているように思う。
【農の歴史】第9回 江戸の生産革命を支えた組織体制「五人組」とは
江戸の農は小農化→勤勉化により、生産性を大幅に伸ばしたことが分かってきました。これを「勤勉革命」と言いますが、この言葉は西洋の「産業革命」と比較して、経済学者の速水融氏によって提唱された言葉です。
江戸の農家は小農化に進みました。その中で生まれた「五人組」という制度について、最近の研究で明らかになりつつある内容を紹介します。
・「五人組」は教科書に書かれているような「お上から”相互見張り”のため強制的に組まされたが、ほとんど機能しなかった」組織ではなく、百姓自らが自主的に組み立てていった制度である。
また、その中身は、〝見張り”というより、“共済”の色合いが強かった。“共済関係”から外れるような行為や態度に対しては厳しい処罰(村八分など)が設けられ、そうなれば農業を営むことができなくなる
これらのことから、五人組とは一言で、「助合」の精神を基礎とした、自我を許さない強固な自治組織だったと言えるのではないでしょうか。
【農の歴史】コラム 古代から受け継がれる焼畑農業~農業を森の生態系に組込む仕組み~
【農の歴史】コラム 共同体持続の鍵となった水田稲作~自然と人に“開かれた”自給システム~
農ブログは近日中にまた新しいシリーズを3つ立ち上げます。ご期待ください。
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2021年11月18日
【農の歴史】第9回 江戸の生産革命を支えた組織体制「五人組」とは
前回の記事「江戸の農」より、江戸の農は小農化→勤勉化により、生産性を大幅に伸ばしたことが分かってきました。
これを「勤勉革命」と言いますが、この言葉は西洋の「産業革命」と比較して、経済学者の速水融氏によって提唱された言葉です。
こちらの記事に言葉の意味が紹介されています。
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・産業革命のお膝元イギリスなどの場合、技術発展の方向は、資本を絶対的にも相対的にも増加させ、逆に労働の占める比率を低下させるという方向ですすんだ、つまり、一単位当り投入される資本/労働の比率を高める性格のものであったが、日本は逆に、資本ではなく、より多くの労働力を投入して長時間激しく働く方向に進んだという。速水は、この日本式の「より多くの労力を投入して生産量を増大させた」方式を、道具による改革である産業革命になぞらえて、「勤勉革命」と名付けた。
・「勤勉革命」の特徴は、なによりも、その労働が強制されたものではなく、農民たちの自発的な意志によって進められたところにあるとしています。つまり、年貢などの負担が大きいためではなく、農民がより多くの収穫を目指して自発的に勤勉になっていったというわけです。
この結果として、農民は隷属的な身分から解放され、農業経営に対して自身が責任をもつシステムになり、農業経営はもっぱら勤労によって維持・発展されてきた。「このような経験は工業化に際して大きな利益として作用した」と述べ、「一国の国民が勤労的であるか否かということは歴史の所産であり、日本について言うなら、それは17世紀以降、現在に至る僅々数百年の特徴なのである」(同)とまとめています。
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では、江戸の農民はどのように勤勉革命の要となる「自発性」を高めていったのでしょうか。それを支えた要因の1つとして「組織体制」があります。
江戸の農家は小農化に進みました。その中で生まれた「五人組」という制度について、最近の研究で明らかになりつつある内容を紹介します。
画像はこちらよりお借りしました。
五人組の実態についてこちらのページで詳しくまとめてあります。
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・深谷自身は、「しかし近世では、卓越した富裕 者の富の社会還元のほかにもう一つ、「民間」の世界が持つ自己救済力としての居村の内の 相互「助合」をあげなくてはならない」とし、近世日本の「百姓成立」は被支配者相互の共済によって支えられていたことも重要視している。
要するに、村や家は「共済組織」であると 深谷は言いきっているのである。こうした村の共済を支えていた制度の一つが、4~8軒の家から構成される五人組である。五人組は 日々の生活扶助や労働交換や村に対して年貢の納入責任を負い、また組の構成員の寄合の 出欠にも責任を負った。教科書では幕府によって相互監視のため農民に押し付けられたとされる五人組であるが、実は農家にとって生活を営む上で必要不可欠な存在であった。五人組は公権力によって強制された形式的なものにすぎないという従来の通説に対し、最近の研究では五人組の評価は大きく変わっている。
渡邊忠司は近畿の村で耕作用の牛を共同保有する「牛組」が中世から近世にかけて存在し、またその牛組が五人組とオーバー ラップする場合が多かったということを指摘している。つまり、5戸程度の農家による相互扶助のための組織は地域社会にもともとあったシステムであり、政策によってトッ プ・ダウン方式に農家が組織されたと側面だけを強調する従来の研究史の認識には無理があると言っていいだろう。五人組はトップ・ ダウンの運動によって作られたものではなく、地域社会に中世から存在したボトム・アップの運動の成果を公権力が巧みに利用したと解釈する方が妥当なのではないだろうか。
本稿の読者であれば、誰しも「村八分」という単語を一度は耳にしたことがあるだろう。村落共同体による、村のルール(「村掟」 「議定」)を破った個々の農家への制裁のことである。通説では、「村八分」は家族ぐるみ公私にわたる一切の交際を絶たれ、葬式や火災に際しても村人の助力を得られない状態を指す。煎本増夫は「五人組を除かれると農業経営が不可能になるほど、五人組が村落生活に欠くべかざる存在になっている」とし、五人組が相互扶助組織として機能していたことを主張している。要するに、五人組は農家が経営の安定を計る上で、村よりも直接的に必要不可欠な組織であるというのである。煎本は相模国足柄下郡堀之内村(現在の小田原 市大字堀之内)の寛文二年(1662)の「五人組定書」の条文に「五人組の入申さず候者、 郷中に置き申すまじく候事」とあるのを紹介し、日本近世においては、その「村八分」は「組はずし」、つまり五人組からの除名と同義であったとする。「組はずし」が制裁になりうるためには、五人組が実際に機能し、相互扶助や安全保障の組織として農家経営の安定化に寄与していなければならない。古い通説のように「五人組制度が頗る形式的なものに過ぎず」、「五人組の編成も殆ど帳簿上のことだけであり、実際問題としては、ほとんど意義をなさなかった」のであれば、「組はずし」は制裁になり得ない。
***
まとめると、
・「五人組」は教科書に書かれているような「お上から”相互見張り”のため強制的に組まされたが、ほとんど機能しなかった」組織ではなく、百姓自らが自主的に組み立てていった制度である
・また、その中身は、〝見張り”というより、“共済”の色合いが強かった
・“共済関係”から外れるような行為や態度に対しては厳しい処罰(村八分など)が設けられ、そうなれば農業を営むことができなくなる
これらのことから、五人組とは一言で、「助合」の精神を基礎とした、自我を許さない強固な自治組織だったと言えるのではないでしょうか。
そして「農業全書」のようなハウツー本も初めて流通し、技術力も格段に向上しました。
江戸時代とは、資本によって産業革命を果たした西洋と並び、五人組のような自治組織が社会を支えた、高度な生産力を持つ時代だったのです。
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2021年11月17日
農から考える自然の摂理~「土の仕組みを探る」:大地5億年の歴史が100年足らずで破壊されていく
これまで見てきたように、自然界では、土が酸性になる現象はあるものの、生態系全体としては養分が失われにくい仕組みを絶妙なバランスの下で成立させてきた。
【「土の仕組みを探る」:瀕死の微生物たちが森の生態系を守る】
農業も、初期は焼畑農業をはじめ自然界の仕組みに寄り添いながら生産力を少しずつ高めていく手法が試行錯誤されてきた。
【古代から受け継がれる焼畑農業~農業を森の生態系に組込む仕組み~】
しかし人口増加の圧力を背景に、20世紀初頭に登場した「世紀の大発明」は、後の爆発的な人口増加と引き替えに、5億年かけて築かれてきた土壌の生態系を、わずか100年足らずで破壊していくことになる。
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2021年11月16日
『農村学校をつくろう!』シリーズ-12~人をつなぐ力×理論をつくる力を育て、地域を活性化
前回までの投稿で、農村学校の成長の基盤となるのは、「いかに農の担い手である当事者度を高めるかが重要」だということを見てきました。農業技術も当然のことながら重要ですが、その根っこには、「みんなにおいしい野菜を届けたい」⇒「地域を活性化したい」⇒「日本の農業を救いたい」という志が不可欠であるということです。
学びの本質は、農業に挑戦したい若者たちが、自分から仲間、そして、地域・日本へと対象世界を広げ、その当事者として成長する場をつくること。今回の投稿では、そのように「人をつなぐ×理論をつくる」の場づくりを具体的に実践している2つの先進事例を紹介します。
画僧は、こちらからお借りしました。
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2021年11月12日
『農村学校をつくろう!』シリーズ-11~現実の課題の中で、自らが主体となって動く中でしか人は育たない
前回の記事では、人間本来の潜在能力を開放する自然の力について書きました。シリーズ5で、農業の場が、人の気持ちを前向きにし、人間本来の追求心を開放したり、人と関わること、役に立つことによる充足を感じる力を解放するのと似ていますね。どちらも、自然を相手にしたとき、”しんどい””めんどくさい””嫌われたらどうしよう”などの余計なこと(観念)を考えている暇がなくなり、目の前の課題や対象(自然・人)に意識が没頭するのがポイントなのでしょう。
今回は、これまでシリーズでお届けしてきた記事の中間総括を行いながら、これからの社会に求められる農村学校とは?を改めて整理し、ポイントを抽出してみたいともいます。
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2021年11月11日
植物の種子は、仲間とコミュニケーションを図り、外敵闘争上の優位性を保とうとしている
植物同士がコミュニケーションを取りながら集団として外圧に適応しているのは、前回扱いました。
今回は植物の「種」に注目してみました。調べてみると驚くべきことに、植物の種同士も土のなかでコミュニ―ケーションを取り合い、仲間と一緒に発芽し、「集団」をつくっているようです!
ではその仕組みはどのようになっているのでしょうか?
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2021年11月09日
江戸の農~”いつから・なぜ”農民は百姓になったのか
江戸時代に農民は百姓と呼ばれるようになった。かつての百姓は百の姓=多くの人という意味で使われてきたが、江戸時代の百姓は意味が異なる。本百姓から水飲み百姓とその百姓にも違いがあるが、百の業=つまり何でもできる万能の民を称して百姓と呼ばれるようになった。そこには江戸時代の農業の実態、農業を通じてどのような能力を人々は求めたのかが透けて見えてくる。
るいネットに百姓について書かれた記事があった。これも参考になる。
>百姓といえば、佐藤さんの名刺の肩書にも百姓と書かれていますが、農家じゃなくて百姓なんですね。~
百姓は百の作物を作る人。米作り、野菜作りはもとより、微生物学、栄養学、気象・天文学などに通じる知恵を駆使し、土作りに始まって炭焼き、牛飼い、養蚕、大工までをこなす人間です。そうした百姓が集まり地域自給、村落共同体を再生しようと、木次の自然を大切にしながら仲間作りを続けてきたわけですが、私なぞはまだまだ未完の百姓です。
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つまり百姓は百の業なだけでなく、百の作物であり、そのためには徹底した自然への同化、追求、知恵に長けて、ゼロから有を作り出していく存在といったところでろうか。いずれにしても専門分化した現在の職業人とは全く別のベクトルを求められた万能人だったのだと思う。それが江戸時代、小農制の中で生み出された新しい農のありようだったのではないか。
江戸時代の農業の変化は市場経済への参入と技術の高度化、さらにそれを背景にした小農世帯の成立にある(リンク)
>現代は4人家族、5人家族といえば当たり前だが、この核家族という構成は江戸時代の小農世帯から始まっている。それまでは農業はムラ、大きな集団で協働で行うものだったが、江戸時代の徳川幕府による農地拡大政策の浸透、さらに農業が市場経済へ踏み込んでいく中、集団も又それまでの大規模から小規模へ、農業技術も品種改良や農業全書の普及から広く一般的に定着していった。
著書「文明としての江戸システム」の中に小農世帯の成立という記述があり、この時代の史実として紹介しておきたい。
諏訪郡の平均世帯規模は1700年には13人を超えたが、1750年には平均5人へと変化している。その後世帯規模は1850年代まで平均で4人~5人の間を推移している。
重要なことは世帯規模が縮小しただけではなく4人~5人からなる世帯の集中が見られた事である。これは市場経済化の浸透に伴って隷属労働者を抱えたり、傍系親族を同居させるなどして大規模な経営をおこなうよりも,直系家族からなる世帯を経営単位とする、労働集約的な小家族経営が有利と判断されたためである。
畿内先進地帯では17世紀初期にすでに農家世帯の人員が小規模になっていったようであるが、同じ時代に九州や信州ではまだ大規模な世帯と不均等な世帯規模の分布が残っていた。こうした事例から農業世帯の構造変化は市場経済の進展にともなって、ゆっくりと全国へ拡大していったものと想像される。
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結婚、独立、家族形成もまたこの時代に始まっていく。労働力を増やすために多産になり、持続的な江戸時代の人口拡大が起きていく。またこの時代に市場経済と共に注目すべきは農の技術革新である。様々な品種改良、農業技術のノウハウは江戸時代中期に宮崎安貞著による40巻の農業全書にまとめられていく。寺子屋同様に多くの農民に読まれたこの著は様々な栽培種を絵付きで解説し、おそらくは日本初のハウツー本として迎え入れた。
総じて江戸の農業化は小農化⇒勤勉化⇒多職能化⇒高度化。
それを支えたのは農業全書や地域の農業を中心とした人の繋がりであったと思われる。これは市場化に刺激を受け日本人の勤勉、惣村を中心とした地域連携等様々な集大成が江戸で完成したと見られる。
その中でおそらく農が日本で初めて、そして最後に商売になった。江戸の農業がどうやって市場経済に載せたか、現在とはまったく異なる視点がありそうな気がする。江戸の農とは大衆の能力革命を起こしたのではないか?=それが最初に提起した「百姓」という言葉に象徴されているように思う。
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2021年11月04日
農から考える自然の摂理~「土の仕組みを探る」:瀕死の微生物たちが森の生態系を守る
【土壌の生態系を救ったキノコ】の事例にもみられるように、土の仕組みを探る上で、土壌微生物の解明は欠かせない。
彼らはどのような環境下で、何を武器にしながら土の中の生態系に関わり続けているのか。
今回はもう少しその実態に迫ってみたい。
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2021年11月04日
【農の歴史】コラム 共同体持続の鍵となった水田稲作~自然と人に“開かれた”自給システム~
前回の【農の歴史】シリーズコラム記事で「焼畑」について紹介しました。縄文時代から伝わるとされる循環型農業です。
焼畑は現代日本では少なくなってしまいましたが、今でもおなじみ、「水田稲作」はどんな農業なのでしょうか。
今回は、身近だけど意外と知らない「水田稲作」について紹介したいと思います♪
こちらも前回ブログで紹介しましたが、( http://blog.new-agriculture.com/blog/2021/09/5031.html )西洋の麦作文明と東洋の稲作文明で、そこで暮らす人々の意識は全く違うと言われます。
一般的に、麦作の地域では個人中心で自立精神が強く、自然は支配するものという思想が大きいのに対し、稲作地域では相互依存性が強く、自然との調和を大事にする思想が基盤にあると言います。人間は自然の一部なので、後者の方が真っ当な精神だと思います。しかし農業をする以上、人の手によって土地の改変を行うわけですから、自然を支配するという思想が出てきてもおかしくないように思います。
なぜ稲作地域、とりわけ日本では自然や他人との調和を大事にするのでしょう。
こちらの記事( https://www.ruralnet.or.jp/syutyo/1997/199705.htm )によると、稲または稲作の、以下2つのポイントが関わっているようです。
1.自然に「開かれた自給」システム
水田稲作農業は、山―川―田―海と、循環する水を仲立ちとした「開かれた自給」システムだと言います。どういうことなのでしょうか?
日本の地形は非常に複雑です。環太平洋造山帯に位置する日本は国土の約3分の2が山地によって形成されており、そこへ流れ込む川によって実に複雑でいりくんだ地形が形成されています。
水を多分に要する水田稲作はこの地形の中では有利だと言います。地形を大きく変えずとも、水の流れに沿って灌漑ができるからです。縄文後期からはじまった水田稲作は、こういった山と川のつながりの中でつくられました。
山の水は森の養分を含み、水田稲の栄養となります。水田では水に含まれる窒素やリン酸を調整します。過剰であれば、吸収・保全し、過小であれば放出する。そういった中和の機能を水田が担っており、そこから川へ、海へ流れる水は過剰栄養でも貧栄養でもない、魚にとって丁度良い水の環境をつくりました。これが自然に「開かれた自給」ということですね。
焼畑同様、自然の生態系に農業を組み込む仕組みや発想が水田稲作農業にもあったのです。
西洋にも川がありますが、その分布密度は低く、だからこそ水の利用が最小限に抑えられる麦作が主流になりました。そのため山や川とのつながりを持たない“自身で完結する”「閉ざされた」生産システムが構築されたのです。また、麦作はその生産力の限界(麦は稲に比べ生産力が大きく劣る)から、広大な耕作面積が必要となります。耕地拡大のため、人々は山を削り、森を焼きました。最初から、自然に対して侵略的な側面をもっていたと言えるかもしれません。
この両者の違いが先に述べた人の自然観にもつながっています。
画像は https://www.honda.co.jp/kids/explore/rice-terraces/ よりお借りしました。
2.稲作は超大変!人同士結びつきが欠かせない
突然ですが、「米」という字の由来をご存じですか?
「米」の字は「八十八」からできていて、稲作の行程の多さに由来すると言われています。
田起こしから脱穀まで、現代でも収穫するまで1年近くかかります。ゆいや雑草刈など、周りの人との共同作業だけでなく、同じ水系を使う人と入水時期を調整するなど、とにかく1人では絶対できない。周りの人との結びつきが収穫量と大きく関わります。
また、循環する水をたくさんの人が利用するので、「自分の田が荒れることは他者様に申し訳ない」という意識も働きます。
こうした“ムラ”の原理が稲作を通じて働き、縄文時代からの共同体精神を持続させました。
画像は https://www.mashingup.jp/2020/10/221860_sustainableseafood.html よりお借りしました。
狩猟採集から農耕へ舵を切った日本人ですが、古代から人の営みを自然と切り離すことなく、一体化を求め続けてきました。その歴史は長く、簡単に覆るものではありません。
江戸時代後期から西洋文明が導入され、近代以降、私たちはあまりにも西洋的なものに目を奪われてきました。しかし自然破壊・肉体破壊が限界の今、私たちはもう一度「本源」を見つめ直す必要があるのだと思います。
次回は自治共同体によって最先端の社会システムを構築した江戸時代中期の農業についてご紹介します!お楽しみに~^^★
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2021年10月29日
『農村学校をつくろう!』シリーズ-10~自然の中で、人間本来の潜在能力(野性)を呼び起こす「小野田塾」
前の投稿では、江戸時代の子どもたちの子育て・学びのあり方を追求しました。重要な点は、「遊び」のなかで成長すること、大人と一体の「生産課題」の中ですくすく学ぶこと、男と女の「性」を育てることが、一人前の大人になる上で重要だと押さえました。
今回の投稿では、さらに根源に遡り、自然は、人間(動物)本来の潜在能力(野性)を呼び起こす基盤であることを考えていこうと思います。
その事例として、第二次世界大戦時に、30年に亘ってフィリピンの山林の中で、まさに人間の野性(本能)を頼りに生き抜いてきた小野田寛郎氏から学び取りたいと思います。
写真は、こちらからお借りしました。
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posted by hasi-hir at : 2021年10月29日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList