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2021年10月27日

【農の歴史】第7回 惣村の歴史は農村の歴史~日本独自の村落共同体の原型

今回は農業が日本に定着していよいよという時代から書いていきます。
農業は先の記事でも書きましたが「農業は渡来人支配の歴史でもあり、共同体温存の歴史でもある」という側面があり、徐福達によってもたらされ、奈良、平安で荘園制度で耕作面積を拡大し、農民人口が一気に増えていった時代、それは同時に農業生産が渡来人(公家や支配層)によって多く搾取された時代でもありました。荘園制度に組み込まれた庶民は半ば奴隷的に農業を営み、管理された土地で労働を提供する小作農が一般的でした。

高い年貢に苦しめられた農民は度々お上に訴状を出し、時に一揆も発生しています。縄文集落が奈良時代に農地に変わっていくのですが、そこでの庶民は農地で管理されかつての自ら集団を自治する共同体を失っていきます。しかし、平安から鎌倉にかけて、世が乱れより搾取がひどくなると荘園制度が崩れ、庶民は自ら立ち上がり自治の村を作っていきます。それが惣村の始まりです。

下記のブログに惣村をうまくまとめた記事がありましたのでお借りしてなぜこの時代に惣村ができたのか惣村とはどういう機能をもっていたのかを見ていきます。

「【惣村とは?】なぜ農民たちは自治組織をつくったのか」

中世は、一般に「自力救済」の時代と言われています。それは、自分のことは自分で守るというという意味ですが、それは個人単位だけでなく、組織や地域単位でも重視されました。鎌倉時代末期になると、畿内周辺に農民たちの自治的村落が出現しました。これを惣村(惣)といいます。この惣村では「一致団結」というのが何より重視されます。ゆえに村では掟が定められ、違反者は厳罰に処せられました。

鎌倉時代、農村では、地頭や荘官(領主)からの不当な要求や収奪に対して自衛組織を作って対抗しました。彼らは領主への年貢は村で一括して納入する地下請(百姓請)を行いました。もし領主が過分に税を強要したり、不正に農民から搾取しようとした場合、一致団結して抵抗しました。鎌倉時代は、農業技術の進歩により、荘園では生産性が高まった時代でした。生産力が高まったことで農民の暮らしが良くなると、名主から土地を借りて耕作していた農民たちが、自ら新田を開き、小作農から自作農へと成長していく者も現れました。

こうしたことから、農民の暮らしは徐々に向上していき、荘園で暮らす農民たちは、収穫をあげる努力を続け、とれたものを出来るだけ多く手元に残そうとしました。これに対して、荘園を支配・管理していた地頭や荘官などの武士は、様々な名目をつけて農民たちに臨時の税をかけたり、労働にかりたてて直営地の耕作などに当たらせようとしました。農民たちは、自分たちは下人や所従ではないので、従者のように使われてはたまらないと抵抗しましたが、年貢や公事が滞れば、罰金を取られ、罰金を払えずに下人に身を落とす人もいました。

こうした地頭や荘官の厳しい圧迫に対して、農民たちはだまっていたわけではありません。荘園領主に地頭・荘官の乱暴や非法を訴えたり、年貢を減らすように要求したりしました。こうした要求をするときには、荘園領主に文書を差し出して訴えました。これを百姓申状といいます。その際、農民たちは神社などに集まって共同して行動することを誓い、約束したことを破らないと神仏に誓う文書(起請文)をつくりました。そして、訴えが認められない場合には、農民たちは一致団結して抵抗し、要求を認めさせようとしました。その方法は、主に以下の3つです。

「強訴」・・・村人全員で要求を掲げて、地頭や荘官のもとに押しかける。

「逃散」・・・農民たちが集団で田畑を耕すのをやめ、荘園の外に逃げ出すこと。

「土一揆」・・・刀や弓などを持ち出し、武力によって抵抗すること。

こうして団結を強めた農民たちは、村ごとにまとまり、鎌倉時代の後期になると、地下請(百姓請)といって、荘園領主と契約して自分たちで年貢の徴収や納入を請け負うようになりました。

南北朝時代になり、戦乱が多発すると、農民の自衛組織は、運営面から自治組織(惣村)へと発展していきました。惣村では、寄合という村民による会議を重視し、惣掟という規則を自分達で決めました。乙名・沙汰人などと呼ばれる指導者を中心に、地域の神社などの祭礼を主催した宮座などを核に団結しました

農村内で自作農が増えてくると、これまで名主(古くからの有力な農民)にしたがっていた中小の農民たちも、権利を主張するようになり、荘園内の様々な問題を、名主だけの考えで決めることが出来なくなりました。すると、惣村内での様々な取り決めが必要になりました。

・山野の共同利用はどうするか、
・かんがい用水路の建設・管理をどのように進めるか、
・祭りなどの行事をどのようにしておこなうか、
・盗みなどの秩序をみだす行為をどう防ぐか、
・荘園領主や守護などがかけてくる年貢や夫役にどう対応するか、
・周辺の村と境界をめぐって揉めたときはどうするか、

などについて、名主ばかりではなく、中小の農民もふくめてみなが神社などに集まって相談して決めるようになりました。こうして鎌倉後期から名主・農民たちが村や地域ごとにまとまった、惣村とよばれる自治組織が畿内を中心に生まれました。

惣村内部では、名主を含めた構成員(村人達)は、惣百姓とよばれ、農業の共同作業や、戦乱に対する自衛を通じて結束しました。惣百姓は山や野原などの共同利用地である入会地を確保し、灌漑用水などを共同で管理しました。年貢も惣村がひとまとめに請け負う地下請、もしくは百姓請が広まっていきました。また、惣村は、番頭・沙汰人・乙名(おとな)と称するリーダー(地侍や名主層)によって構成される宮座とよばれる祭祀集団が中心となって運営されました。村の重要な決定事項には、合議機関として寄合(集会)が開かれ、ここで最終決定がなされました。なお、寄合は全員参加が原則でした。

また、戦乱や犯罪から村人の命や財産を守ることも、惣村運営における重要な要素でした。惣村では、団結を守るために村内の掟である惣掟を定め、掟を破ったり、犯罪をおかしたりした者を厳しく処罰しました。

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このように鎌倉後期から自生した惣村は後に江戸時代まで続き、さらに明治以降も農村自治はこの惣村の延長によって続いていきました。

惣村の原理とは・・・
・「一致団結」
・自衛集団から自治集団へ
・リーダーによって構成される宮座という祭祀集団に依る運営
・寄合が最終決定で全員参加が原則
・全てのルールを自ら決めていった
・目的は戦乱や犯罪から村人の命や財産を守る
・団結を守るために村内の掟である惣掟を定め掟を破ったものは厳しく処罰された。

※つまり惣村そのものが、政治の三権を全て担って自らの生きる場を自ら作っていった、まさに縄文時代の共同体が農と中世の危機によって復活していったのです。このような事例は世界でもおそらく日本だけです。

農業にその力があったのか日本人の本来持つ縄文体質(協働性)にその力があったのか、議論が分かれるところですが、水田稲作というのは麦作文化と違って奴隷根性や労働管理された中では生産性は向上しないということの現れだと思います。後に江戸時代に惣村の最小単位が家族単位まで分割された小規模農業は最大の効率と品質を上げていきます。

これから当ブログでも農業と地域、集団のあり方というものを追求していきますが、この惣村の原理に学びつつ、集団発で「農業どうする」を見ていきたいと思います。

投稿者 tano : 2021年10月27日 List   

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