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2014年02月12日

『農業全書に学ぶ』シリーズまとめ~市場化の波から農を守った江戸時代の生産革命~

 

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本シリーズでは、江戸前期に書かれた日本初の農書『農業全書』について、その誕生した背景や基本概念を抽出してきました。これらを通じて、『農業全書』に見られる重要な視点は、農を市場化・都市化から守り、食糧危機、村落共同体の危機から突破するための「生産革命」であることが分かりました。
 
本シリーズのまとめとして、江戸時代における市場化の波からどのように農を守ったのかを整理し、今後の農業で考えるべき課題を抽出したいと思います。
 

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まず、改めて江戸時代の外圧状況について整理します。
 
1.人口爆発と市場化の浸透により、食糧危機が顕在化
 
江戸初期、徳川幕府では、民衆の社会的期待に応えるために、真っ先に新田開発に取り掛かりました。1600年に1600万石分だった石高は、1700年には2591万石の約1.6倍に急増しました。この食糧増加に伴い、人口は1227万人から2829万人と2.3倍へと急増しました。
 
急激な人口増加は、産業構造や集団形態に大きな影響を与えました。
江戸時代は、身分制度や検地制度により土地に縛り付けられたイメージがあるかもしれませんが、実態はそうではなく、民衆の流動性が高い社会でした。
そして、私権獲得の可能性が開かれた都市に出向き出稼ぎする者が一気に増え、都市化・市場化が加速しました。江戸は1600年初頭15万人から1700年初頭100万人の世界最大の都市へと成長し、商人の町大阪が京都の人口を追い抜いたのもこの時期でした。
 
さらに都市化・市場化は、農村にも大きな変化をもたらすこととなりました。
物流の発達により農村にも市場化の波が押し寄せ、幕府の政策(享保の改革)も相まって、農閑期を利用し農民は商品開発(余業)に精を出すようになりました。やがて、農村も市場経済に飲み込まれていったのです。
 
江戸時代初期は、市場社会の波が押し寄せ、大衆に浸透してきた時代と言えます。しかし、急激に変化する社会構造の転換に矛盾もはらんでおり、その綻びも多く顕在化するようになりました。
 
 
その一つが、「貧富の拡大」です。村落共同体では、すべて集団自治の思想により、個人の格差はありませんでした。しかし、農民も「余業」として商売を行うようになり、稼ぐ者と貧しい者が生まれるようになりました。私権獲得の波が高まるにつれて、彼らの収束先は農業から都市へと向かいましたが、一方で、村落共同体の崩壊への危機感も顕在化したのです。
 
nougyouzensyo4.jpgもう一つが、「食糧危機」です。私権獲得のため、食糧保存よりも流通に力を入れるようになり、危機に備えた食糧のストックがおろそかになりました。天災が起こると、村落はたちまち飢饉が発生するようになったのです。
また、大規模な新田開発による山林の破壊、河川の氾濫などの環境悪化による土地枯渇や、村落単位から家族単位への「小農化」は生産力の減少を招き、慢性的な食糧不足が進行し、集団存続に対する危機感が急激に高まりました。
 
このようなことから、江戸前期の社会は、市場化・都市化の可能性が拓かれた一方で、村落共同体の危機、食糧危機を募らせることになりました。農・食という生きていく上で不可欠な基盤が揺るがされる危機を契機として、1700年初頭の新しいムーブメントを引き起こしました。
「シリーズ・序-2 農業から社会を変えようとした男たち~江戸時代前期の外圧状況編~」
「家族って何? シリーズ4.江戸時代~市場化の波に対し、村落共同体を守る民衆~」
「百姓たちの江戸時代」~江戸は優れた市民社会

 
 
 
2.日本の農の再生に向け、各地で『生産革命』が起こる
 
共同体社会の再生を目的として、『素人による創造』が生まれた
上記のような日本全国的な課題・問題が発生した時、まず解決に乗り出したのは民衆自身と、そして民衆の期待に応える藩主でした。
彼らは、村落共同体の危機、食糧危機を突破するため、急速に進む市場化・都市化に警笛を鳴らしたのです。そして、そのための突破口として、日本の歴史に連綿と続く「自然の摂理に根ざした循環型社会の強化・確立」を図ろうとしました。
 
自然の循環を活かした農業技術の高度化
nougyouzensyo2.jpg生産力低下を招いた「小農」「余業」化に対しては、農書や触書で、専業化に勤しむよう強く謳われました。その一方で、「小農」「余業」という状況も十分受け入れており、小さな労働力で、最大の生産力をあげる方法が考案されました。
当時ヨーロッパでは、複数の牛馬を用いた大規模農業によって生産性を向上させましたが、これに対し日本の農業は「無畜農業」という人力を主体とした生産方法を確立しました。
これは、鍬・鎌などの手軽・安価な農具により、作業性・機能性を最大限に引き出しました。江戸時代の農書『農業全書』などには、農具の手入れ方法などが詳しく記載され、道具を巧みに活かすことで、優れた生産性を獲得しました。
 
nougyouzensyo3.jpg地力維持の考え方にも共通の思想が読み取れます。
ヨーロッパにおける封建農業では、生産性を維持するため、耕地の三分の一を休閑地とする休耕農業が一般的です。しかし日本の農業は、草肥を基本とした施肥により地力を維持し、自然の力を循環させる優れた技術開発により、二毛作や作付方法の高度化が図られました。
さらにこの施肥技術は、田畑の土壌を豊かにするだけでなく、その周辺の自然環境にも豊富な栄養を与えることになり、自然循環の仕組みを理解したからこそ成しえました。
 
農書が全国的に普及した1700年代には生産性の減少が止まり、緩い上昇へと転じており、小さな労働力に適応した農業技術が見事に伝承しました。
これは、縄文以来続く日本人の自然観・縄文体質をもとに、自然の力を活かした生産方法を見事に理論化し、「生産革命」を図った点が大きいと言えます。

「シリーズ3 土の力を活かす肥料~すべては土から生まれ、土にかえる~」
「シリーズ4 江戸時代の農・自然とは? ~人間と自然は一体だった~」
・「貧農史観を見直す」

 
「信認関係」に基づいた民主導の備蓄システム
nougyouzensyo8.jpg民衆を飢饉から守る備蓄システムに乗り出したのは会津藩主 保科正之です。江戸前期、東北で度重なる飢饉が起こった時も、会津藩は一人も飢餓者を出すことがありませんでした。
備蓄は、年貢のような取立てと違い、主(あるじ)が一手に民衆の食糧を預かるという、民衆の期待に全面的に応えるものです。つまり、備蓄システムの真髄は、「信認関係に基づいたネットワークの構築」であり、主と領民の強い期待・応合関係があり初めて成立するのです。
 
封建的・序列的な関係ではなく、徹底した「応合関係」でつくられるこの備蓄システムは、民主導の「社倉」として広まりました。これはまさしく、集団維持を目的とした共同体の再構築といえる動きが全国各地で広まったことを意味しています。
「シリーズ5  集団を守る備蓄の仕組み ~危機に備えるネットワークづくり~」
 
自然の力を受け入れた「環境受容型土木」
nougyouzensyo1.jpg度重なる河川の氾濫や禿山に対しては、自然の摂理に基づいた技術体系が構築され、1680年頃に著された農書『百姓伝記』(作者不詳)の治水・土木技術などから読み取れます。
氾濫する河川に対し抑えこもうとするのではなく、時代の技術力を超えた大洪水がいつかは発生し、災害を回避することはできないという前提に立ち、被害を最小限におさえるために、あえて積極的に氾濫させる「氾濫受容型治水」が提唱されています。
 
また、植林についても、1600年中~1700年初頭にかけて、桑名藩主 松平定綱、宮崎安貞『農業全書』、貝原篤信など次々に保護策が打ち出され、「輪伐」という理論をはじめ、森林の生態に則った的確な造林原則が民衆に浸透しました。
 
このような、自然災害を解決する方法論は、決して自然を支配するものではなく、災害や恵みにたいして全面的に肯定視し、自然を受け入れ、その力を最大限に活用する姿勢が貫かれています。
「自然の災害(摂理)を受け入れながら、適応した江戸時代の治水技術」
縄文塾「縄文への道」

 
このように、農・食の再生、村落共同体の再生に向けた生産革命は、「自然の力を活かす」という縄文以来続く日本人の精神性が底流にあることが分かります。
市場化(資本主義)という幻想化された価値からの脱却を図り、自然への同化・共生をもとにした循環型農業の理論を構築したのです。

 
 
民衆の創造が、日本全体の「制度」へと結実
このように1700年前後には、全国から様々な追求・理論が生まれました。そして民衆による創造・運動は、高い成果を上げ瞬く間に全国へと拡がりました。
 
治水技術や植林技術は、民衆が著した農書を基礎にして、幕府による森林保護政策や、土砂留奉行などの統制部隊がつくられました。特に宮崎安貞らが著した「農業全書」は1697年発刊以降、瞬時に全国に広がり、八代将軍徳川吉宗も座右の書に加え、政治に大きな影響を与えました。
あるいは、保科藩主が考案した備蓄システムは、数十年後に幕府により諸藩に対する「囲米」としての制度が確立しました。
 
江戸時代の法・制度は、幕府や藩から押し付けられたものではなく、大衆自身がつくった規範が取り上げられて法制化されたのです。つまり、お上(幕府)自身も、自然の摂理や先人の経験に学ぶことを基本姿勢として考え、民衆の充足や秩序の安定化を第一とした規範を元に制度・法律をつくってきました。
「江戸時代の思想16 江戸時代の法度は、農民の規範を元に法制化されていた」
 
 
 
3.江戸時代の生産革命のまとめ
改めて振り返ると、江戸時代の農業とは、
①市場化の波が押し寄せた江戸前期、人口増大が市場化に拍車をかけた。
②民衆の市場・都市への収束により、村落共同体の危機、食糧危機が全国的に拡大した。
③この危機感をいち早く感じ取った民衆が、「自然の摂理に根ざした循環型社会の強化・確立」へと立ち上がった。いわば、農業の『生産革命』。
④民衆が組み立てた理論が瞬く間に全国に広がったと同時に、幕府の制度に反映され、日本全国的にその理論が定着した。

 
市場化の波から抜け出し、共同体を土台とした共認充足と秩序を再構築していく拠り所となったのは、大衆からお上まで貫かれた、日本の歴史を遡る事実追求、先人の成功体験に学ぶ心、つまり「日本の共同体体質に秘める心の有り様そのもの」と言えます。
 
 
大転換期の今、農の「業態革命」が必要とされている
翻って現代、農を取り巻く状況を考えると、国の補助金から抜けられない農、TPPなど市場に取り込まれた農。国家と市場にすべて丸め込まれています。
しかし一方で、「本来、農・食とは、人類が生きていく上で不可欠な基本産業」であり、現在のような産業構造を変革していく必要があることは、誰しもが危機感・期待感として抱いていることでしょう。
 
70年豊かさの実現、90年バブル崩壊、08年リーマンショック、そして11年311大震災と放射能問題、12年不正選挙。これら社会問題を契機に、ごまかしを続けてきた資本主義経済や官僚・マスコミ支配ももはや終焉を向かえ、民衆を中心に新たな潮流「自給志向」が顕在化し、その可能性の萌芽も多く顕在化してきています。これは、江戸時代に見られた「農・食の再生、共同体再生の向けた生産革命」の大潮流と重なってきます。
 

クリックすると拡大します。
 
江戸時代、危機の顕在化から制度構築まで約50~100年間で改革が進みました。今後、市場経済を超えた新しい業態の構築、共同体ネットワークの建設も、決して遠い将来ではないのではないでしょうか。
本ブログも、その当事者の一員として、継続して「新しい『農』のかたち」を追求していきます。
 
それでは、本シリーズは本投稿で終了となります。引き続き、新シリーズをご愛読いただけると幸いです。

投稿者 hasi-hir : 2014年02月12日 List   

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コメント

自然農を志す者です。
本日、このブログに出会うことが出来ました。
近代化される以前の農法について確認したくて探し続けて、こちら様の記事に出会いました。
とても勉強になるとともに、大変な刺激を頂きました。
より多くの方々にこちら様の記事を読んでほしいと思います。
フェイスブックにて紹介させていただきたく存じます。

投稿者 二見幸夫 : 2014年9月10日 22:11

二見さま
管理人の橋本と申します。私たちなりに歴史を紐解き整理したもので、まだまだ理解不十分・浅はかなところはございますが、少しでもお役に立てたこと大変嬉しく存じます。フェイスブックでの紹介ありがとうございます。
現在は、「乳酸菌農法」と「直売所事業」の2つのテーマで追求しております。私たちも手探り状態で追求を進めておりますが、自然農に志す(実践されている?)二見さまの知見・経験をご教示いただければ幸いです。

投稿者 noublog : 2014年9月12日 22:45

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