農を身近に★あぐり通信vol.9~TPPという現実を受け止めて何ができるか |
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2013年09月14日
農業全書に学ぶシリーズ<プロローグ>「農業から社会を変えようとした男たち」序-2~江戸時代前期の外圧状況編~
今からちょうど410年前。日本は大きな転換期を迎えていました。
それは江戸時代前期。天下統一が果たされつつも、まだまだ安定していなかった日本の社会。その真っ只中から、時を同じくして二人の男が九州から登場します。
一人は、元福岡藩の武士、宮崎安貞。
一人は、福岡藩の武士、貝原益軒。
安貞は武士を辞め、農民となり諸国を放浪。
益軒は福岡藩に残り、医学・朱子学・本草学を学びます。
全てを捨てて農民となり、独自に農業を追求した安貞。あるべき天下国家や人の営みを、学問を通じて追い求めた益軒。
この二人が出会い、生涯をかけて完成した書物があります。それが、かの水戸光圀公が「これ人の世に一日もこれ無かるべからざるの書なり」と大絶賛し、8代将軍・吉宗が座右の書とした日本初の農書・「農業全書」です。天下国家の視点から農業を捉え、現実と対峙し農民の視点から普遍技術を体系化した日本初の農書であり、今も3大農書の一つと数えられる「農業全書」。
今回のシリーズを通して、その「農業全書」を学んで行きたいと思います。原発問題、多発する自然災害、TPPなど、現在の日本や農業生産の状況も差し迫った大きな転換期を迎えています。江戸時代前期・社会の転換期に於ける農業についての普遍的な認識や方法論等を抽出することによって、これからの日本の農業に活かせる切り口が発見できるのではないかと考えています。
国家秩序の基盤に生産=農業あり。この志をもち、時代のパラダイムシフトの真っ只中から登場した二人の男たち。その二人が出会う事によって生まれた農業のグランドセオリー「農業全書」。今回の第一回目<序>では、その「農業全書」登場の背景・江戸時代前期の外圧状況に迫ります
つづきが気になる方はポちっとお願いします☆
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◆意外と不安定 ~江戸時代初期の安定と闇~◆
◆武力による覇権闘争の時代から幕藩体制への移行 (戦国乱世から天下泰平の時代へ)
当時の日本の状況を見てみましょう。
初代将軍・徳川家康
今から410年前。1603年、日本では100年以上続いた戦乱の時代がついに終焉を迎えます。初代将軍・徳川家康によって幕府を頂点とした幕藩体制が確立。同時に日本は鎖国政策を打ち出し、自給自足国家へと大きく歩み出します。264年続く江戸時代の始まりです。
しかし、江戸時代の初期~前期にかけては、戦国乱世から天下泰平の時代へと社会の構造が大きく変化した時代です。
それまでの、武力による覇権闘争=力の序列による同類闘争の時代から、将軍を頂点とした身分の序列共認による統合社会へと、日本の社会は戦乱・混乱期を経て秩序収束へと向かいます。社会構造が大きく転換したのが江戸時代前期なのです。
◆不安定だから急がれた安定化政策 (体制・思想・生産改革による秩序化)
幕府は、幕藩体制の安定を図る為に親藩(徳川一族)・譜代大名(徳川親派)を中心とした藩の配置換えを行ないました。幕府は思想・体制・生産の観点から秩序化を進めますが、中でも幕藩体制は世界的にも稀有な体制として進められて行きます。それは、中央集権の形を取りながらも、藩独自の自治を認めるという、日本ならではの共同体的な色彩を強く残した、新たな社会統合体制の始まりでもありました。
幕藩体制は体制に秩序をもたらすと同時に、反体制には容赦がなく、反体制の姿勢を残す「外様大名」は尽く理由をつけて「お取り潰し」されて行きます。3代将軍・家光は30にも及ぶ大名家を取り潰したといいます。また、参勤交代という制度を設け、定期的に江戸に出仕することで藩に財政負担をかけ、遠隔地の外様大名が資金を溜めこみ、力を持たない仕組みを設けて、幕藩体制の確立を急ぎます。
思想領域では、徳川幕府は「朱子学」を国学として用います。あるべき国家・君主の姿を幕府は、封建制度に相応しい儒教体系であった「朱子学」にそれを求めます。朱子学は農本主義でもあり、国の泰平のために農業の発展こそが肝要であると説かれています。
生産領域では、徳川幕府は国内の生産性を向上すべく、幕府は新田開発にも積極的に取り組んでいきます。この時期は江戸時代を通じて最も新田開発が行なわれた時代でもあります。それはまさに、農業生産に活路を見出した国づくりの始まりでした。
◆江戸時代の人口急増と経済流通の発展 (一方で悪化する生活と治安)
江戸時代前期。3代将軍家光・4代将軍家綱の時代。幕府の新田開発や体制整備などにより社会的秩序は向上し、都市化は進み、生産は向上していきます。
鎖国と参勤交代の制度によって国内完結型経済も序々に軌道にのり、江戸時代の社会は比較的豊かになって行きます。ところがその一方では、人口拡大のスピードに生産性=生産技術が追いつかず、また突然の自然災害や飢饉に備えられる体制が整っていませんでした。さらには、取り潰しによる無職武士(浪人)が町に溢れて盗賊・追剥化。庶民生活に於ける治安の悪化などと問題・課題も山積の時期でもあったのです。
たとえば、1637年・島原の乱(江戸時代最後の内乱といわれる大規模一揆)や、1640-43年・寛永の大飢饉、(江戸4大飢饉のひとつ)、1651年・慶安の変(由井正雪が幕府転覆を計画)など、まだまだ秩序を脅かす要因が頻発していました。
(画像クリックで拡大します)
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<人口拡大と生産グラフ>
資料を見ると、江戸時代の初めに約1200万人だった人口が、200年後にはなんと2.5倍の3000万人を超えています。また新田開発により生産性は高まっていますが、それを遥かに上回る形で人口増化が進行しています、結果的に200年間で一人当たりの石高は3分の2にも減少しています。
◆藩の外圧状況◆
◆福岡藩の場合 (黒田忠行の悪政と財政悪化)
そのような幕府の政策の中、外様大名・各藩の状況はどうだったのでしょう。冒頭の二人の男が登場する福岡藩の状況を見てみましょう。
福岡藩の礎を築いたのは、来年のNHK大河ドラマの主役でもある、かの「黒田官兵衛」です。天下一の軍師と呼ばれ、信長、秀吉、家康の三英傑に仕え、重用されながらも、秀吉には自分の次の天下人とまで恐れられた男。そしてその息子が、福岡藩の初代藩主・黒田長政です。関ヶ原の戦いを半日で終わらせ、最大の功績を家康に褒めたえられた黒田長政は、その戦功により九州・筑前一国52万3千石を与えられ、九州に福岡藩が生まれました。
時は1622~1650年、3代将軍・家光の時代。日本は社会体制的には秩序収束の流れにあり、外様大名も例外ではなく秩序・安定化の流れにありました。とはいえ、戦国武将・伊達政宗などもまだ健在で、前述の「お取り潰し」でも明らかなように、地方の力ある外様大名は幕府にとっては警戒・監視の対象でもありました。
(下図にあるように)九州の大名配置も本州(幕府)を守るように譜代大名が配置されています。福岡藩は関ヶ原の大戦功から52万石の領地を持ち、親幕大名として本州・幕府の重要な防衛布陣の一部を担う反面、一方では外様大名として譜代大名に監視されるように囲まれています。
(画像クリックで拡大します)
こういった状況の中、祖父・父とは異なり暴君として名高い・二代目福岡藩主・黒田忠行は、なんと周囲の反対を押し切り、権力誇示の為に時代と逆行する武力強化を中心とした藩政を強引に推し進めてゆきます。
黒田忠之
幕府ご法度の500石を超える大型船の建造や、足軽の大量増員・浪人の大量雇用。その結果、藩の緊張は内外で高まり、過大な武力投資・財政悪化・農業生産軽視から、福岡藩は危機的な状況を迎えます。その後、1632年・黒田騒動といわれるお家騒動を経て、忠之=福岡藩は幕府から強いお咎めを受けるものの、父・長政の関ヶ原の偉業によりお取り潰しを免れ、藩政を改め、後には家光から長崎警備の「筑前の守」を任ぜられます。そして、この長崎警備による負担が、福岡藩の財政難を更なる深刻な状態へと悪化させていくことになるのです。
◆変革の時代、存在の不安定さと進化が顕著に現れる◆
これまで述べてきたように江戸時代前期、変革期の真っ只中に於いては、危機的状況を次々と生み出すほど社会は不安定でした。このような変革期における不安定な存在構造を、端的に表している一文をご紹介します。
進化とは、その存在を構成する多数の古い実現体の無数の組み換え可能性の中の一つの外圧適応的な実現である。
その無数の可能性の内、外圧適応態たり得る可能性は極めて小さいが、しかし決して唯一ではなく、幾通りもの適応の仕方=進化の方向が存在する。と同時に、完全なる適応態など存在せず、全ての適応態は外部世界に対する不完全さを孕んでおり、それ故より高い適応を求めて進化を続けてゆくことになる。
とりわけ外圧が変化した時に、存在の不完全さと進化が顕著に現れるのは当然である。
(リンク)
変革期・転換期においては、「存在の不安定さと進化が顕著に現れる」の言葉どおり、江戸時代初期の幕藩体制は不安定さを孕んでいました。
この不安定さを改めて江戸時代初期の外圧状況にあてはめると
1.幕府・藩にかかる圧力
・「いつ取り潰されるか」「いつ謀反されるか」という同類圧力の上昇
・参勤交代制度等における市場化と経済圧力の上昇
2.大衆側にかかる圧力
・幕藩体制からあぶれた浪人たちによる治安、秩序、雇用の悪化
・度重なる飢饉や人口増大がもたらす食料不足による生存圧力の上昇となります。
つまり外圧状況の変化に応じて、まずは人々の意識が徐々に変化していきますが、制度が末端まで共認されて文字通り「確立する」のはその後です。だからこそ古い意識と新しい制度には断層が生じますし、新しい意識と古い制度にも断層が生じます。制度にしても意識にしても、社会的に見ればこの新しさが進化でもありますし、新旧並存している状態こそが不安定さの要因だったのです。
この外圧状況を、何とかしようと登場したのが宮崎安貞と貝原益軒です。一介の武士と元武士がどのようにこの状況を認識し、どういう方針を立てたのか。そしてそれを実現するためにどういうアプローチをしたのか。
実は、その結晶物が「農業全書」なのです。農民のための農業指南書だと解されがちの農業全書がなぜ水戸光圀や徳川吉宗の「座右の書」となったのか。次回は2人のアプローチと農業全書ができるまでの過程から学べるポイントを抽出します。
お楽しみに!
投稿者 kasahara : 2013年09月14日 TweetList
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