【コラム】類農園の業態革命~“からだ”も“こころ”も充たす直売所「農家の食卓」 |
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2013年12月19日
『農業全書に学ぶ』シリーズ4 江戸時代の農・自然とは? ~人間と自然は一体だった~
昔と現代では、自然に対する捉え方が、かなり違いました。
江戸時代では、「人は自然と共生している」という考えの下、農を営んでいました。この考えは『農業全書』を見ても分かります。
『作物を生み出すのは天であり、育てるのは地である。人はその仲立ちをして、気候風土に応じ、季節に従って、耕作につとめるものである』
人が仲立人として、天と地の間に入ろうと思えば、自然に対して謙虚に生きていかなければなりません。同時に気候風土や季節に応じて、自分の営みを合わせていかなければなりません。謙虚に自然の摂理に同化し、共に生きることが農においては何よりも大切なことだったのです。
では、現代はこの「人は自然と共生している」という考えはどうなっているでしょう?かなり希薄になってきていると思いませんか?
シリーズ4回目の今回は、江戸時代の自然への捉え方を学びます。そこで、自然への感謝感 を学びたいと思います。
◆人間が農作物と自然をコントロールする現代
現代は、市場原理に基づく大量生産・大量消費の社会であるといえます。1960年代からの日本の高度経済成長によって、生産の中心が農業から工業へと移り変わりました。作物の収量を増やす為に、人間がコントロールできる農業を作ったのです。そのため、「目に見えるもの」「機械で計測できるもの」「再現性があるもの」という考え方が重要視されました。
効率良く農作物を育て、収穫できるようにするため、現代の農業は、「化学肥料」と「農薬」を使った大規模農業が行われるようになりました。お分かりの通り、化学肥料は、自然の力ではなく人工物質の力によって、農作物が作られます。農薬は、人間以外の動植物を拒絶することで、農作物が守られているに過ぎません。
この様な農業の結果、現代では「農作物=植物は生命である」という、ごく基本的なことをすっかり忘れてしまっていると言えます。そして、これは収穫物である作物だけではなく、その作物を育てる土地・農地に関しても同様です。土もまた自然の一つであり、生きた存在であるという認識は、現代の大規模農業ではなされていないと言えるでしょう。
同時に、食べる側から考えてみても、「食」に対する感謝感 がますます希薄になっています。食べ物を食べ、余ったら平気で捨ててしまう。ご飯を一人で食べる人も増え、食事の充足・感謝が薄くなってきているのではないでしょうか。
これら一連の農業・食に関する問題・課題は、個別の事象ではありません。市場原理・近代科学に基づく、自然・農作物を「モノ」としか扱わない考え方そのものを見直す必要に迫られています。かつて、日本人が当たり前のように持っていた、農作物や自然に対する生命感 や感謝感 を再考する時機に来ていると言えるでしょう。
◆自然の恵みへの深い感謝と広い対象性
江戸時代の自然の恵みに対する考え方が良く分かる事例をご紹介します。
その一つが「いただきます」です。これは、食物を与えてくれたもの(命を絶った動植物)に感謝 することから生まれた言葉です。この「いただきます」には人間だけでなく、この地球と動植物も含めた「生きとし生けるもののすべての命」を、人と同じく大切なものとして認識し、深く感謝 する気持ちが表れています。
また、「残し柿」という風習があります。これは収穫の際に全て収穫せず、わずかに柿の実を残しておく風習で、「残し柿」、「木守柿」、「布施柿」 などとも呼ばれています。こうして残された柿は、鳥たちの餌になり、やがて落ちたあとは動物たちの餌になります。人間が自分たちのために育てた柿ですが、天から与えられたものを動物達とも分かち合おうとする昔の日本人の考えが、このような形でも十二分に伝わってきますね。
江戸時代の日本人は、恵みはすべて自然から頂いているものと考え、その自然に感謝 の念を抱いていました。そして、恵みは(誰かのものでもなく)自然のものであることから、仲間や周りの動物達に自然の恵みを享受していたのです。
では、このような食べ物に関する深い感謝感 や、周りに自然の恵みを享受する自然への捉え方は、どのようにして生まれてきたのでしょうか?
◆食べ物=自然、自分=自然、すべてが一体であった江戸時代の農と食
江戸時代の農業書『農業全書』に、日本人の自然観がよく表れている部分があります。
『天地が万物を育てる心もそれを受けついだ人間の心も、もともと一つであるわけだから、人間が憂うることは天も憂え、人が喜べば天も喜ぶのである。』
ここに、天も地も人も一体であり同じ心を持っているという、万物自然に対する深い同化意識が強く読み取れます。作物に対しても、自然に対しても人と同じように対象化し、「人間は自然と一体」と考えていたことが分かります。
そして、昔の農では「まわし」と呼ばれる捉え方をする事がふつうでした。すべては循環している=「まわし」と捉え、自然を構造的にとらえ、自分たちもその中の一部にいるという考え方をしていたのです。
『天は万物を生み出したが、その中で人間ほど尊いものはいない。人間には、天の心を受けついで、あらゆる作物をいつくしみ育てる心が自然にそなわっているからである。そのため人の世では、第一の仕事として励むべきものは農の道なのである。』
ここでは人の尊さが説かれていますが、その意味はけっして西洋的な人間第一主義を示しているのではありません。その中身は、「あらゆる作物をいつくしみ育てる心が自然にそなわっている」ことへの「尊さ」なのです。
謙虚さを持ち、自然と一体となって農に励み、喜び、感謝 する想い。農業全書にはその心の在り様を前提として、農の在り方や方法論が説かれています。けれども、このような捉え方は決して特別なことではなく、むしろそれまでの日本人にとっては当たり前であったようです。
◆まとめ
現在、日本人の意識は、3・11以降市場原理に基づく大量生産・大量消費の意識から、食の安全・安心へと変わりつつあり、まさに意識の大転換期にあると言えます。
(参照:経済危機・震災を機に、日本の農業を再生する~現状分析編~)
消費者たちは、「食の安全・安心」を考え始め、「顔の見える生産者」、「自ら生産者となる」人たちが増えてきています。そして、生産者も、無農薬・自然栽培など自然の力を活かした生産方法に取り組んでいます。
江戸時代の基盤でもあった、生産から食までの繋がりが再生に向かっていると言えます。
さらに、江戸時代の農では、自然の循環を是として、目に見えない価値を大切にし、自然と一体となって子々孫々まで収穫を分かち合えるように営んできました。日本人が受け継いできた「自然に生かし生かされていることの深い感謝感と分かち合う喜び」。人間の身体も、地域に存在する鳥獣・昆虫たちも、田畑で育てられる農作物も、すべてが自然の中では等しい存在であり、自然の一部であるという捉え方でした。
安全・安心の食の基盤を再生・加速するためには、これまで見てきた江戸時代の農・自然に対する捉え方を現代人は学んでいく必要があるのではないでしょうか。
引き続き『農』シリーズをお楽しみに
投稿者 ITIKI : 2013年12月19日 TweetList
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