2022年01月13日

『農業と政治』シリーズ5:1955年から1970年までの農協の変遷

戦後農協は先の記事にあるように食糧難を回復するために全国の農民を再組織し、遂に55年前後に戦後の食糧危機は克服した。同時にアメリカの小麦戦略が始まり、米よりパンの食意識の改変が始まる。しかし、この時代に農協とアメリカ占領政策の関わりは殆ど歴史記述上残っていない。

55年から65年 農協は何をしていたのか?非常に興味が湧く所でもある。

逆にこの時代に日米は様々な取引をしてアメリカナイズされていった。その中で農協はむしろアメリカの政略に反しないように水面下で体力を蓄えていった期間だったのではないか?

時代を俯瞰する事象)

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2022年01月07日

【世界の食と農】第4回 オランダ~世界トップレベルの生産力にのし上がったオランダの「強い農業」。~

前回までの投稿では、アメリカに焦点を当てて、近代的な大規模農業による世界の食糧支配と、一方で、大衆発の「小さな農業」で農を取り巻く潮流が転換していることを見てきました。

 

画像は、こちらこちらからお借りしました。

今回の投稿では、国を変えて「オランダ」を見ていきたいと思います。オランダは、チューリップのイメージが強いと思いますが、世界最先端レベルの栽培技術を持っています。農業分野も同様に、1990年代後半から最先端技術に国策として力を入れ、今や世界輸出2位の「強い農業」まで成長しています。今回は、この強さの背景に掘り下げていきたいと思います。

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2022年01月06日

『食糧問題』シリーズ4:世界食糧危機を煽っている「国連」とは?その狙いは何なのか?

食糧問題シリーズ4回目の記事です。

前回から見てきた「恒常的世界的な食糧危機は来るのか?」という問題。実は、世界の食料供給量は、人口増加を上回って上昇しており、今後も食糧危機が起こる兆候がないこと。そして、にも関わらずその危機を煽っているのは「国連」であるということがわかってきました。

 

今回の記事では、「国連」とはなんなのか?食糧危機を煽っている狙いはなんなのか?を追求してみたいともいます。

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2022年01月06日

『農業と政治』シリーズ4:食文化支配という占領政策の下で衰退していく国内農業

戦後、GHQが提案した農業協同組合法(1947)に基づいて誕生した農協は、建前としては「農業者の自主的組織」として出発しましたが、実態としては占領軍と政府の利害調整の末に出来上がった組織であり、農家に対する「統制」組織としての役割を果たすために誕生した組織と言えます。

【果たされなかった真の農政改革】
戦後の農政改革は、本来であれば、江戸時代から引きずる日本農業の弱点(小農零細経営)を直視し、突破していく機会となり得たのではないか。
しかし歴史的事実は、旧体制と、中身なき民主化を押しつけようとするGHQの圧力に屈し、志ある政策の実現は果たされなかった。

こうして、次代を担う、求心力ある農業集団は不在のまま、日本の農業はアメリカ占領政策の下で自ら望んで衰退の道を辿っていく(、そう仕向けられる)ことになります。

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2021年12月31日

【世界の食と農】第3回 アメリカ~市民発の「小さな農業」が、アメリカの農のかたちを変えていく~

前回までアメリカ農業の課題と支配構造、それらに立ち向かう民衆の潮流を紹介してきました。

今回は、アメリカで芽生え始めつつある大衆発の農業=小さな農業について、いくつか先端の事例を紹介します。「小さな農業」とは、農産物を生産することの最基底にある、「農そのものが持つ価値」に注目した動きです。その動きが、ある一人の大衆から始まり、その活動やコミュニティが地区単位・街単位へと広がっていくことによって、やがては、地域の活力再生・農業の活力再生にまでつながっています。

ここ最近、コロナ禍を機に、在宅ワークを通じて、より地域とのつながり、仕事の合間を活かした余暇を充実した動きも高まっています。これまで小さかった動きが、より大きな潮流へと変わっていく予感を感じます。

画像は、こちらからお借りしました。

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2021年12月29日

「農業と政治」シリーズ 第3回 戦後の農協を作ったのはGHQではない 日本の政治家だった。

戦後はGHQによる農地改革がGHQの日本支配の3大骨格として教科書などでは記述されるが、他の2つはともかくとして農地改革はどうも事実としてGHQの明確な方針はなく実行部隊は日本人の中に居た。

和田博雄という人物がGHQと日本政府の間に立って、実質的な政策の立案、実行した。それはGHQの民主化を戦後復興の農業経済の再生に換骨奪胎させるものだった。ただ、GHQ側の本当の狙いは民主化という名の下、戦前の日本政府と強く繋がった農業会組織を解体させるためだけで、農地改革の中身も政策も明確に持っておらず、和田の考えを認める形で追認した。これがその後の農協の下地になっていった。戦後急速に日本は復興したが、復興のベースとなる食料の安定供給が予測をはるかに早く実現できたことも和田のような優秀な官僚、政治家がこの時期多く登場していた事を示唆している。下記の記述の中にそれを見ていきたい。和田の狙いは民主化ではなく、農業の健全な復興という極めて真っ当な自然な発想だった。

戦後の農協を考える上でこの時に建てた「経済ベース」と「小作農保護」が基本となっていったのではないか。いずれにせよGHQの政策によって農協が誕生したという事実はなかったという事を固定しておきたい。

リンク

よりお借りしました。

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農地改革の真相-忘れられた戦後経済復興の最大の功労者、和田博雄

小作料が収穫物の半分を占める地主制のもとにある小作人の地位向上、自作農創設は戦前の農林官僚の悲願だった。それを実現したのが和田博雄(1903-1967)である。和田は戦後経済復興の政治舞台に彗星のように現れた。

無罪判決後、和田は保守政治家としては珍しい筋金入りの自作農主義者松村謙三農相の下農政局長となり、第一次農地改革に着手する。1945年10月幣原内閣の農林大臣となった松村謙三が就任直後の記者会見で「農地制度の基本は自作農をたくさん作ることだ」と発言したことが農地改革の発端である。GHQの指示はない。というよりこの時点でGHQは農地改革にあまり関心がなかった。農林省担当者による農地改革案の説明に対しGHQは”no objection”とのみ答えている。

農林省の対応は速かった。担当課である農政課の法律原案ができたのは松村の大臣就任のわずか4日後、国会への法案上程はその1カ月後、終戦からわずか4カ月後という異例のスピードであった。戦前からの農林省あげての周到な準備があったのである。当時の担当者によれば、その時々の政治情勢や大臣の意向に応じて何十通りもの案を農林省は持っていたという。その内容は

(1) 不在地主の所有地の全ておよび在村地主の5ha(大臣の案は1.5ha、農林省当局の説得により3ha、5回も行われた閣議での松本国務相の執拗な反対により5ha、このとき松村農相は涙したといわれる)の保有限度を超える農地を地主と小作人の直接交渉によって小作人に買い取らせる。地主が土地を解放する際地主と小作人との間で協議させ、まとまらない時は知事が’裁定’により農地の所有権を移す。

(2) 小作料の金納化

(3) 地主は小作人から自由に農地を取り上げていたが、今後は農地委員会の承認が必要。

和田局長は第一次農地改革についての意義を(1)農業構造の民主化(2)農業生産力の増大と並んで(3)農業の経済力拡大、資本蓄積によって海外市場を失った工業に対する国内市場の拡大、経済の再建を挙げている。当時、農業従事者は全就業者の5割を占めていたため、日本経済復興のためには農業の復興が必要であった。和田は農林省の局長でありながら、日本経済全体のことを考えていたのである。

和田は、昭和20年産米が大凶作(農林省は587万トンと公表)となり1千万人が餓死するという流説が飛び交うなかで未曾有の食糧危機を凌ぐとともに、与党の強い反対にも屈せずマッカーサー等GHQの信頼を得て戦前からの農林省の悲願であった自作農創設、小作農の地位向上を内容とする第二次農政改革を遂行した。

マッカーサーは農地改革を重要視したが、マッカーサーのものとして実施することを好まなかった。あくまで日本政府、和田農相の発案として国会に関連法案を提出し、実行するよう求めた。和田はGHQの後ろ盾を要求するが、GHQは応じなかった。このため、和田は農地改革に反対する与党自由党との折衝に大変な苦労をすることになる。次のようなやりとりが残されている。

(GHQ)ミスター和田、この改革案は、あらゆる国で制定されたもののうちで最もリベラルなものの1つだ。
(和田)自由党は、おそらく最も強く攻撃するだろう。
(GHQ)自由党が法案に反対するだろうことは、この法案がリベラルであることの証明である。

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2021年12月24日

【世界の食と農】第2回 アメリカ~世界の民衆立ち上がる。脱・アメリカの大潮流へ。~

前回の投稿では、世界最大の農作物輸出国のアメリカの現状と、そして、遺伝子組み換え作物や種苗・農薬などを大量に世界に輸出している現状について整理してきました。
今回の投稿では、なぜアメリカは、激しく環境破壊されるほどの大量生産⇒海外輸出をあり続けているのでしょうか?最新の動きについて見てみたいと思います。

写真は、こちらからお借りしました。

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2021年12月23日

『食糧問題』シリーズ3:世界的な食糧危機(食料不足)はおこるのか?~国連フェイク報告の実際

「食糧問題」シリーズ、記念すべき3回目の記事です!

前回の記事では、ハンガーマップを見ながら、飢餓問題が特に深刻となっているアフリカ大陸に焦点を当て、世界の食料分配に大きな偏りが出てしまう構造について押さえました。

植民地支配時代の構造をそのままに、西洋諸国による「緩やかな略奪の構造」が飢餓問題を生み出していることが見えてきたのでした。

 

今回の記事では、そうした“地域限定的or期限限定的な飢餓”ではなく、“恒常的・全世界的な食糧危機”が来るのか?という問題を扱っていきたいと思います。

 

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2021年12月23日

『農業と政治』シリーズ 第2回~急激な近代化圧力を前に捻じれていく農協の原型

・江戸末期、苦しむ農民を救うために生まれた農協の源流「先祖株組合」
・江戸時代の小農政策が農協必要の原点

『農と政治』シリーズ第3弾となる今回は、明治時代にスポットを当てます。

一般に農協の前身と言われる「産業組合」が設立された明治時代。
しかし実はもう一つ、後の農協の原型となる組織が同じ時代に生まれています。

この二つの組織は、急激な近代化と戦争圧力の渦中に突入していく明治時代の日本にあって、当初の設立目的から大きな捻じれを生み出しながら規模を拡大させ、後の農協の原型を作っていくことになります。

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2021年12月16日

『農業と政治』シリーズ 第1回  江戸の小農制が良くも悪くも、その後の日本の農業を作った

農業には農家という言葉があるように農業を支えるのは各家族である。
この傾向が始まったのは江戸時代の小農政策にある。

この小農政策こそ農協必要の原点であり、逆に言えば小農である限り、大農と比べて補完する機関である農協は必要不可欠であるとも言える。なぜ日本の農業は小農なのか?生産や産業という観点で普通に考えれば少規模であるほど生産性も悪く高度化しない。それを遂に現在に至るまで小農至上主義と見えるかのように継続している。

これは秀吉の1582年に発足した太閤検地の制度まで遡る
「1582年(天正10年)、太閤検地によって全国の土地、収穫量、年貢量などを定めて記録し、さらに「一地一作人」の原則を定めた。それまでの荘園制では、農民と領主の間に荘官や地頭、守護など、土地に権利を持つ者が幾重にも入りくんでいたのが、秀吉は中間搾取を排除して、その土地の年貢はその土地を耕す農民自身に受け持たせることとした。土地台帳に農民の名を記し、農民の自立心を促して、同時に富の集中をはかった。」

徳川の為政は秀吉のそれを引き継ぐが、小農制にさらに5人組や村といった村落共同体をかけ合わせ小農制度を地域という集団で育てていく。農業を家庭という単位で存続させるには様々な制度が必要だった。諸外国の農業は大地主や国家、大集団という単位が多く、小農制度は主流ではない。我が国はこの小農制度によって農業が育成され勤勉革命と称して江戸時代通じて農業生産が上昇していった。

しかし、江戸の農業は決して豊かではなかった。
耕作面積は確かに江戸初期から晩期まで右肩上がりで倍の面積まで拡大したが、人口の伸びも同様に拡大し、一人あたりの生産高は決して高くなく、小農制による非効率化を品種改良や肥料の技術によって維持してきた時代と見ることができる。
下記のグラフはそれを表している。

■江戸時代の生産効率

■江戸時代の人口推移

 

また江戸時代には度重なる飢饉が襲う。その規模は現在のコロナや東北地震等の災害の比ではなく、江戸時代の人口が江戸後期は全く伸びなかったのは30回に渡る大飢饉による。(飢饉の数では150回を数える)260年間に150回だからほぼ3年に2回程度飢饉がおきていた勘定になる。それほど江戸時代の農と食糧事情は厳しかった。

・亨保(きょうほう)の飢饉
1732年(亨保17年)夏に長雨といなごが大発生したことによって起こり、西日本一帯でお米の収穫量が平年の15%しかなかった。全国で264万人以上の人が飢え、1万人以上の人が餓死したと伝えられている。
・天明(てんめい)の飢饉
1783年(天明3年 )の霜の害によって起こり、数年間続いた。この飢饉によって餓死した人の数は、全国で50万人以上にも及んだと言われている。
・天保(てんぽう)の飢饉
1833年(天保4年)に冷害、洪水、大風雨などが原因となり、1836年(天保7年)頃まで続いた。農村では百姓一揆が続き、都市でも貧しい町人たちが、米屋・質屋を襲う打ちこわしが起きたが、幕府や諸藩にはこれらを完全におさえる力がなかった。これら一連の飢饉で幕府の衰えは、誰の目にもあきらかになった。

江戸晩期に救済の為の先祖株組合が登場したのもこういった貧困の社会外圧を発端としている。

★まとめると

江戸時代の大量開墾の大号令で農業人口の拡大の必要性⇒勤勉性を高めるために小農制度の徹底⇒農業は家族単位に解体。⇒度重なる自然災害⇒貧困農家の多発⇒江戸時代に救済の為の組合が発足。

この小農制という矛盾を明治まで引き継いだ日本帝国は明治時代に帝国農会を発足。帝国農会という文字だけを見ると国家が直接農業を推進するかのように見えるが、その実はどうであったか、農協の歴史を見ていく上で明治から戦前までの流れはもう一つの押さえておくポイントになる。次回の投稿で解明していきます。

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