【世界の食と農】第4回 オランダ~世界トップレベルの生産力にのし上がったオランダの「強い農業」。~ |
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2022年01月13日
『農業と政治』シリーズ5:1955年から1970年までの農協の変遷
戦後農協は先の記事にあるように食糧難を回復するために全国の農民を再組織し、遂に55年前後に戦後の食糧危機は克服した。同時にアメリカの小麦戦略が始まり、米よりパンの食意識の改変が始まる。しかし、この時代に農協とアメリカ占領政策の関わりは殆ど歴史記述上残っていない。
55年から65年 農協は何をしていたのか?非常に興味が湧く所でもある。
逆にこの時代に日米は様々な取引をしてアメリカナイズされていった。その中で農協はむしろアメリカの政略に反しないように水面下で体力を蓄えていった期間だったのではないか?
時代を俯瞰する事象)
1950年 朝鮮戦争特需
1954年 GATT(関税及び貿易に関する一般協定)に加盟
1956年 「もう戦後ではない」が経済白書の序文に書かれる
1957年 パン給食開始
1960年 日米安保保障条約
1961年 農協合併助成法⇒農協の合併を助成し、経営難に陥る農協を支援
1964年 農協貯金2兆円突破 (国家予算3兆円の時代)大手町農協ビル竣工・東京五輪開始
1965年 牛乳給食開始
1970年 米の生産調整開始・万博
1971年 全農発足
1972年 田中角栄による日本列島改造論
77年の著書「農協」には以下のように書かれている。
>農協はしばしば、医師会、総評とならんで、日本最強の圧力団体の一つと評されている。
農協はほんとうにそれほどの政治力を持っているのだろうか。農協の政治力の根源はその集票能力にあると言われる。保守の基盤は農村部にあり、農民のほとんどすべては農協の組合員だから、自民党議員の多くは農協の力で当落を左右され、そのために農協に頭があがらないと分析されている。
農協はこの時代に合併を繰り返し組織の大型化を成し、その力の基盤として政治力や経済力をつけ、圧力団体としての骨格を形成していく。同時に高度経済成長と足並みを揃え農民は地方から都市へと移動していき農業も地方も空洞化していく。1950年代には人口の3割居た農民はどんどん減少していく。(下記農業人口比率推移)
しかし同時に、この時代農協はあらゆる力を備えていく。
最大の基盤は政治の票田である。また国土開発と歩を合わせ農地が宅地に道路に変わっていき、農協も農民も望外の金を得て裕福になっていく。金と権力を備えていった農協の基盤がこの時代に出来上がっていった。
この期間に、時代の空気以上に農業も農協も金に塗れていったように思う。
農業従事者の割合)人口比
1960年 1175万人 9500万 (12%)
1965年 894万人 10000万 (9%)
1970年 711万人 10500万 (7%)
1975年 489万人 11200万(4.3%)
逆に農協資金力は右肩上がりに上がっていった。
↓農協資金の歴史
【農協の戦後からの流れの概観】
戦後~1950年 マッカーサーによる農業会解体と和田博雄による農協立ち上げ
⇒時代の空気は食料危機回避への期待 農協はそれに応える形で小農支援と農の経営自立へ 数万の農協が乱立 戦前の農会が単に看板書き換えただけに。リンク
1950年~1955年 米による日本米化戦略が本格化。パン食の優遇、米食の否定。
⇒農協の経営危機。アメリカの圧力下で農協は縮小、破綻。リンク
1955年~1970年 経済成長、都市化、農協の合併、巨大組織化。
⇒農協の圧力団体への転換、政治傾斜。経営の改善から拡大へ。
以降の農協は本業の農業育成より経済傾斜へと、農民を融資で支援し農民もまた本業より兼業・離業へと移行していく。まさに農協の変遷とは日本の変遷でもあり農業の堕落でもあった。
55年~65年の10年間はそのための助走期でもあり、アメリカの意向にある意味従順になりながら自らの組織を巨大化させていった。
投稿者 tano : 2022年01月13日 TweetList
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