| メイン |

2021年12月23日

『農業と政治』シリーズ 第2回~急激な近代化圧力を前に捻じれていく農協の原型

・江戸末期、苦しむ農民を救うために生まれた農協の源流「先祖株組合」
・江戸時代の小農政策が農協必要の原点

『農と政治』シリーズ第3弾となる今回は、明治時代にスポットを当てます。

一般に農協の前身と言われる「産業組合」が設立された明治時代。
しかし実はもう一つ、後の農協の原型となる組織が同じ時代に生まれています。

この二つの組織は、急激な近代化と戦争圧力の渦中に突入していく明治時代の日本にあって、当初の設立目的から大きな捻じれを生み出しながら規模を拡大させ、後の農協の原型を作っていくことになります。

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

●「産業組合」設立は誰のためか
明治時代に入ると、先進国に遅れて資本主義国家への道を邁進し始める日本は、海外との競争のため、工業を興す必要があり、その資金を当時最大の産業であった農業から得ようとした。

1873(明治6)年の地租改正により農民の徴税は年貢から税金へと変わったが、江戸末期から続く重税は変わらず、自作農の中には、小作へ転落したり都市労働へ脱出する農民も現れた。

『経済の近代化の進展によって、人口の大部分を占める農民や中小生産者が、高利貸資本の収奪によって土地を捨て恒産を失って窮乏化することは、社会不安をもたらし、未熟な段階にあった日本資本主義の基礎を揺るがせかねない』

以上の状況認識に基づき、1900(明治33)年の法制化を経て設立されたのが「産業組合」であり、後の農協の原型と言われている。

しかしこの組織、実態としては地主や富裕階層農家を中心として発足しており、零細な農家は加入していない。農民を救おう、というお題目の下で、その実態は自らの資産を守ろうとする既得権益者たちのための組合だったのではないか、という疑問が残る。

 

●草の根の組織「農会」が体制に取り込まれていく
他方、明治10年頃から、全国各地で種子交換会、農談会、農事会など農業技術の交流を行う組織が形成されるようになった。
この動きに注目した政府は、全国の老農を集めて全国農談会を開催するなどの関わりをつくりながら、日本で最初の全国的な中央農業団体である「大日本農会」を設立する。

当初、大日本農会は農学校の卒業生や地方の指導的人物(地主階層が主)を中心とした個人参加の組織であり、その事業は農業改良に限定されていたが、1891(明治24)年に農学会が『興農論策』で系統農会の構想を示すなど、しだいに農村全体に指導・統制が及ぶ組織の必要性が唱えられるようになっていく。

どうもこのあたりから農会の目的が「農業振興」から「農民の組織化」へと変容していったように思われ、政府の支援により、その流れは加速される。

1899(明治32)年に農会法が制定されると、農会は国の補助金を得て組織をさらに強化していく。市町村農会、郡農会、府県農会が系統的に整備されていくとともに、農会長には町村長が就任、その職員は役場吏員が兼務するなど、農会は行政的な色合いの強い組織に変容。戦時体制時は、前線への食糧供給網としての役割も果たしていく。

また農会法の制定は産業組合法よりも1年早く、さらに産業組合よりも農会のほうが数も多く早く農村に根付いていたため、農会が産業組合の設立を支援したという関係もあった。
特に1902年に全国農事会の幹事長に就任した可能久宜は産業組合の指導者でもあり、全国農事会は産業組合の育成に注力し、産業組合の数は1905年の1,671組合から1911年には8,663組合に増加した。(その後1910年、帝国農会が設立される)

 

こうして農村には、信用事業・経済事業を担う産業組合と農業技術普及・農政活動を担う農政の二つの系統組織が形成された。この時期は日清戦争、日露戦争を経て日本の国家的高揚が見られた時期であり、これらの組織はそれを国内的に支える役割を果たしたといえる。

他方で、江戸時代より続く「小農政策」が抱える課題(経営・生産効率)を追求した形跡は見られない。小農政策を見直すということは、農家自身が高い経営圧力に晒されることで反発や混乱を招く恐れもある。戦時体制に向けた国民統合を優先するあまり、敢えて避けたのかもしれない。

投稿者 negi : 2021年12月23日 List   

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.new-agriculture.com/blog/2021/12/5369.html/trackback

コメントしてください