2009年06月23日
『農業の現状と可能性』(前編)日本の農業の現状分析~データから見る農業の現状~
画像はtyorudeさん借用させていただきました。
上の写真は荒れてしまった田んぼです・・・ 😥
そんな現状も見ながら、「データから見る農業の現状」ということで、現在の日本の農業がどうなっているのでしょうか?
農林水産基本データ集からみる日本の「農」の最新の実態を見てみましょう。
今回は、農水省の統計で数値化はされているものを、視覚的に捉えるとどうなるのか?という視点でグラフ化して、「どうなっているの?」を表してみました。
ということで、毎度のことながら、ブログランキングにご協力ください。
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2009年06月22日
『農業の現状と今後の可能性』☆プロローグ☆
こんにちは
近年、日本の自給率▽、食の安全性△が注目され、農ギャルなど就農を希望する若者も増加など、社会的に農業への関心がますます高まってきています。
そんな社会の期待が集まっている農業の現状⇒今後の可能性について今週は追求していきます♪
が、本題に入る前に 類農園 の歴史について少しご紹介
続きはポチッとしてから
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2009年06月21日
大和真菜って知ってますか?゚・*:.。今週の社内販売゚・*:.。..
こんばんは 😀 類農園では、毎週土曜日にグループ会社の類設計室で社内販売を行っています。今日は、その様子をお届けします
最近気温が30度越えしていますね むしむし暑い
そんな中、お野菜はすくすく成長中
品数が増えてきて、心躍ります
今日は、どんなお野菜が登場したか、紹介しま~す
その前に、応援クリック よろしくお願いします 😉
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2009年06月18日
農園にアイガモがやってきた~
みなさんこんにちは。三重の農場からせきやです。
ついに農園にアイガモ がやってきました。
類農園では、アイガモ農法 に取り組んでいます。
アイガモ農法とは、リンク
リンク先より抜粋
「アイガモを水田に放して(放飼と言う)、除草や害虫を駆除させ、無農薬で安全な米と鴨肉を同時に育てようというのが「アイガモ農法」です。」
ちなみにアイガモは、アヒル とマガモ の合いの子です。
もともとのモデルは、中国あたりで伝統的に行われていたもののようです。
無農薬でお米を作るというよりは、稲 と鳥 を同時に育てるというところに重きが置かれていたようです。すごく合理的だと思います。
アイガモ農法の説明はこれくらいにしておいて、農園での様子を紹介します。
農園にアイガモがやってきました。
宅急便で。
箱の中でもピーピー盛んに鳴いています。
まだ小さいので、しばらくは小屋の中で飼いならします。
箱から出してあげると、すぐさま歩き回ります。水鳥としての本能なのでしょうね。水があるとすぐに飛び込みます。そして勝手に毛繕いを始めます。これも本能に備わっているようです。
夜はさすがに寒いので、保温をします。保温に用いるのはコタツです。この中が暖かいと分かると勝手に入ってきます。
ちょっと様子を見るつもりが10分20分経っていることもしばしばです。 なんでこんなにきゃわいいんでしょうか。
アイガモが小さいうちの世話は気使うし大変なのは確かですが、それ以上の癒しを与えてくれます。
だいたい2週間くらい小屋で飼います。そのくらい経つと体がだいぶ大きくなっています。1日ごとに大きくなっていきます。
だいぶ大きくなりました。声変わりしだしたやつもいます。
こうやって育てているのも、稲の大きさとカモの大きさを調整しているのです。
アイガモ農法では、いつ田んぼに入れるかというのが非常に重要 で、田植した稲の大きさに対してカモが大きいと、カモが稲を倒してしまいます。逆にカモの方が小さい場合は、稲が大きくなるにつれて、稲の他の雑草も生えてくるのですが、雑草がある程度の大きさになってしまうと、カモといえども除草が間に合わなくなります。
なので、カモを放しても稲が倒れない、かつ除草が間に合う時期に田んぼに放せるように田植とカモ取り寄せの時期を調整します。
今年は、田植が少し遅れて、カモに対して稲が若干小さいです。倒されなければいいのですが、少し心配です。
田んぼには予め囲いを設置します。カモが逃げないようにするのと、外敵 にやられないためです。外敵というのは上からはカラス、トンビ など、下からは野犬やイタチなどが狙って います。
そのため、田んぼの周りに網を張り、その周りを電気柵で囲う。更に上には鳥除けでテグスを張り巡らせました。かなり頑丈です。これで準備万端。
いよいよカモを田んぼに放します。
全部で80羽。最初は戸惑っていましたが、広い水辺を気持ち良さそうに泳いでいます。
これから稲が実ってくるまでずっと田んぼに入れておきます。しっかり働いてちょうだいね~ 。
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2009年06月14日
食糧管理法が53年も続いた理由
こんにちは
このブログでも日本農業が直面する数々の困難の様子が投稿されていますね。
いつの時代も農業に大きな影響を与えるのが「農業政策(農政)」ってやつです。
今後の農業を考える上でも、その歴史や現在の制度の「幹」を押さえておくのが大事です。
まずは日本農業を大きく規定してきた数々の農業政策を年代の近いものから順に並べてみます。
2004年~ 「新食糧法」
1994年~2004年 「食糧法」
1942年~1994年 「食糧管理法」
どれも似たような名前ですが、その中身はけっこう違うのです。まあ時代によって食糧事情は異なるから、当然と言えば当然ですね。
・・・ここで「ん?」と思ったからはおられるでしょうか?
そう、実は「食糧管理法」は53年も続いているのです。第二次世界大戦に始まり、終戦、戦後の貧困、高度経済成長、バブル崩壊と時代が激変しているにも関わらず、同じ制度がずっと続いているのって不思議ではないですか?
ということで、この投稿では「食糧管理法が53年も続いたのなんで?」を追求したいと思います。
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2009年06月13日
「日本の食文化の破壊」はアメリカの長期戦略として行われた
MSA協定とPL480法(余剰農産物処理法)。これを、ビンさんがアップした2つのエントリーに続いてアメリカの側の視点からあらためて見てみたい。
第一次大戦、第二次大戦と戦場にならなかったアメリカは、世界の食糧供給国となった。しかし、ヨーロッパが戦後復興を遂げるにつれ、大量の余剰穀物を抱えたというのは、ビンさんのエントリーの通りである。
食糧というのは、サイロなどの巨大な保存設備が無いと腐ってしまう(施設の建設と維持には莫大な金がかかる)。しかも長期間保存しておくと劣化して食べられなくなる。国家は農業従事者を保護しなくてはならない。しかし大量の余剰穀物を国家が抱えることはできない。この矛盾した状況を打破するためにアメリカは国家レベルで動き出す。
1950年代になると、余剰農産物をビジネスとして将来にわたって確実に売り込めるようにアメリカは画策した。それが、MSA協定であり、PL480法だったのである。
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2009年06月12日
MSA協定、PL480、学校給食、キッチンカーの時代(2)
前回(1) のつづき。食料自給率問題を紐解くキーワードのMSA協定、PL480、学校給食、キッチンカーなどを活写している記事の紹介。
◆援助という名の小麦売り込み
●キッチンカー・キャンペーンの成功
余剰農産物の受け入れは決まったものの、その代金による市場開拓が始まるのはずいぶん遅れた。厚生省が終始、協力的だったのと違って、もう一つの所管官庁である農林省内には、米国の宣伝の片棒をかつぐような事業として反発があり、何かと抵抗したのが原因だった。それには55年のコメが大豊作で、食糧事情がかなり緩和したという背景もあった。最終的には、受け入れに積極的だった河野一郎農相が官僚たちを叱りつけて抵抗を抑えたとされる。
56年4月、米国農務省はオレゴン小麦栽培者連盟と市場開拓事業の契約に調印した。初年度の事業費は40万ドルだった。連盟の市場アナリストで後に会長となるリチャード・バウムはさっそく、その資金を抱えて日本に飛んだ。彼はすでに米国農務省に対し、全国向け宣伝キャンペーン、製パン技術者講習など11項目から成る第1期事業計画を提案していた。計画で優先順位トップにあげたのがキッチンカーによる料理指導だった。(中略)
米国農務省の資金を得てキッチンカーは走り出した。指導の重点は「粉食奨励」であり、コメ偏重の食生活からの脱皮である。国策にも沿ったキッチンカー事業は大成功だった。
米国農務省の資金は製パン技術者の講習、PR映画の制作・配給、小麦食品の改良・新製品開発など各方面に使われたが、キッチンカーほど目覚ましい成果をあげた事業はない。やがて献立に大豆料理も加わるようになり、バスの台数も増えた。米国大豆協会が同じく農務省の資金を受け、オレゴン小麦栽培連盟と相乗りの形で事業に参加したからである。(中略)
国民の健康を考える厚生省と、国内農業の振興を第一とする農林省で立場が違うのは不思議でも何でもない。日本側に食生活改善のための粉食奨励という流れがあり、それに米国のキャンペーンが見事に乗ったのがキッチンカーだった。
(「食と農の戦後史」岸康彦著 日本経済新聞社 刊より)
▲写真は「写真でたぐる昭和の記憶」よりお借りしました。
米国農務省、オレゴン小麦栽培者連盟、米国大豆協会などが一丸となってキャンペーンを張り、日本側は「日本食生活協会」が音頭を取って進めた合言葉は、「粉食奨励」。
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2009年06月11日
MSA協定、PL480、学校給食、キッチンカーの時代(1)
戦後も60年以上の歳月が流れて、遠い存在となってしまった。食料自給率問題を紐解くキーワードのMSA協定、PL480、学校給食、キッチンカーなどを活写している記事を見付けたので紹介したい。
◆小麦余りはどうして生じたのか?
第二次世界大戦が終わった時、戦場となった欧州でもアジアでも農業は壊滅状態だったのに対し、米国は無傷で勝利の日を迎えた。米国は世界一の食糧供給国になった。
しかし一人勝ちの期間は長くは続かなかった。1948年には早くも穀物の国際需要が停滞し、米国内には輸出できない余剰農産物が大量に滞貨した。農場への融資の担保として農産物を預かったり買い取ったりする機関である商品金融公社(CCC)は、売れるあてのない在庫をどっと抱え込む結果になった。50年の朝鮮戦争は過剰問題を一挙に解決するかに見えたが、戦争が終われば元の木阿弥だっ
た。
(「食と農の戦後史」岸康彦著 日本経済新聞社 刊)以下同様
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2009年06月10日
戦後の敗戦処理に一役かった八郎潟干拓事業
第二次世界大戦後、日本は深刻な食糧不足となりました。そこで政府は農地を拡大し、食糧を増産する計画を立て、全国各地で開拓や干拓が急速に行われるようになりました。これまで営農が困難とされていた全国各地の限界耕作地にも、次々と新しい村が開かれていったのです。
【戦後の土地改良事業 一覧】 (「水土の礎」より)
その一つが八郎潟の干拓事業。(現 秋田県南秋田郡大潟村)
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2009年06月09日
稲作を軸に日本の歴史を記す ①日本にもたらされた稲作はどうやって広まった?
食糧問題を追求していると、時代遅れになっても「食管法」が長く続いたように、
日本人の米へのこだわりは、相当な物だという気付きが得られました。
そこで
稲作を軸に日本の歴史を辿って追求してみたいと思います!
第一弾は・・・
『稲作を軸に日本の歴史を記す ①日本にもたらされた稲作はどう広まった?』
稲作はどのように日本で広まっていったのか。
食の転換~日本食の基本、主食・副食ができるまで~
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