第二次世界大戦後、日本は深刻な食糧不足となりました。そこで政府は農地を拡大し、食糧を増産する計画を立て、全国各地で開拓や干拓が急速に行われるようになりました。これまで営農が困難とされていた全国各地の限界耕作地にも、次々と新しい村が開かれていったのです。
【戦後の土地改良事業 一覧】 [1] (「水土の礎」より)
その一つが八郎潟の干拓事業。(現 秋田県南秋田郡大潟村)

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琵琶湖に次ぐ国内第2の湖、八郎潟。東西12km、南北27km、約22,000haというこの湖を干拓し、近代的農村を建設するという前代未聞の計画が始まったのは昭和27年(1952)。1戸数haの大区画農場、ヘリコプターによる直播や大型コンバインを利用した大規模な機械化農業、まさに日本の近代化農業のモデルとなるものでした。


この巨大工事が始まったのは、昭和32年(1957)。大潟村が誕生したのが同39年。そして全ての干拓事業が終了したのが、昭和52年(1977)。高度成長期の只中、実に20年におよぶ大事業だったのです。
そもそも、八郎潟の干拓事業の立案は江戸時代後期まで遡ります。それ以降、明治、大正、昭和と幾度と無く浮んでは消え、消えては浮んだ夢でした。
それが、戦後の深刻な食糧不足を受けて、再び計画の話しが持ち上がる。しかし、湖底のほとんどがヘドロが堆積した超軟弱地盤という条件で、堤防の建設 一つとっても技術的に可能か不可能化か、技術者・学者の意見は真っ二つに分かれ、平行線を辿ったようです。
(干拓の方法・オランダの干拓) [2]
それを実現に導いたきっかけとして、戦後の敗戦処理にまつわる秘話 があります。
(引用) 『水土の礎~世紀の国づくり・未知への挑戦』 [3]
終戦後、西側諸国との講和条約に際して、日本が最も腐心したのはオランダへの対応でした。オランダは日本によってジャワ・スマトラを占領され、戦後はジャワ・スマトラがそのままオランダから独立するなど、日本に対する国民感情は悪く、講和条約にも最後まで難しい注文をつけていました。アメリカの国務長官らが何度か説得を試みても頑として受け付けなかったところ、ある日、賠償の代わりに技術援助(=日本がオランダに対して相応の技術料の支払い)に応じるなら、講和会議に参加する旨の感触が得られたとの報告が当時の吉田茂首相に伝えられました。
首相は、建設大臣を呼んで技術援助を受けるプロジェクトを考えるように指示しましたが、どうも妙案がない。何か探せという指示は大臣から次官、局長、部長,課長と伝わって、とうとう係長・係員クラスにまで降りてきました。この時、戦後の焼け跡で都市区画整理事業を担当していた下川辺係長(後の国土事務次官)が「農林省の八郎潟干拓はどうか」と進言したとのことです。
余談ですが、当時ワンマンとして有名だった吉田総理。官僚の誰もが尻込みする中で、下川辺係長にその役が回り、大磯の自宅へ単独で出かけ総理に進言したところ、「総理はひどくご機嫌で当時たいへんな貴重品だったスコッチウイスキーまでいただいた」というエピソードが残されています。
「神は海を造り、オランダ人は陸を造った」といわれる干拓技術先進国オランダ。かたや難問を抱えた八郎潟。これ以上の技術援助は見つからなかったでしょう。
八郎潟の干拓事業は、食糧増産の意味合いと、もう一つ、戦後の敗戦処理にも一役買っていたのです。
(参考サイト)
八郎潟干拓と大潟村の歴史 [4]
水土の礎 [5]
