食糧問題を追求していると、時代遅れになっても「食管法」が長く続いたように、
日本人の米へのこだわりは、相当な物だという気付きが得られました。
そこで

稲作を軸に日本の歴史を辿って追求してみたいと思います!
第一弾は・・・
『稲作を軸に日本の歴史を記す ①日本にもたらされた稲作はどう広まった?』
稲作はどのように日本で広まっていったのか。
食の転換~日本食の基本、主食・副食ができるまで~
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ありがとうございます 
稲作はどのように日本で広まっていったのか。
○日本にイネが伝わった時期
縄文時代~弥生時代と時期が定まっていません(リンク [1])
。しかしプラント・オパール
分析法により、イネが縄文前期からあったのではないかと推測されています。イネの原産地は日本よりはるか南方なのですが、どのようにして入ってきたのでしょうね?
一説では、縄文期の漁撈の民が、持ち帰ったのでは?と考えられているようです。
●朝鮮半島からの流入民が、日本に稲作を広めた
朝鮮半島では、中国からの移住者が水利技術を伝え、紀元前八世紀頃から水稲耕作が始まります。その後朝鮮半島でおきた動乱によって、数度に分け大量の流入民が日本にその水稲耕作技術が日本に伝わることによって、稲作は広範囲に広がっていきます。(朝鮮半島からの流入民との融和をもたらした古代日本人の縄文的性質 ~8/12なんでや劇場「日本人の起源」より~ [2])
そして紀元前二世紀には西日本全域に水田の遺跡が広がっています 
●米を持つ者≒支配者?!
米を蓄える為の高床式倉庫。古代の豪族の屋敷には極めて多くの高床式倉庫があります。これは大量の米を持つ者≒力を持つ、支配者であるということ。このブログでも何度も出てきているように「食は集団を維持する為の最重要課題」であるため、米の蓄えは力関係にも関わっていたのです。
◇開発が遅れていた大阪平野
北部は大和川が流れ込む河内湖に面して湿地、南部は農業用水の不足と稲作に適した土地が少なかった大阪平野。大和朝廷の仁徳天皇は奈良盆地の開発に限界を感じ、大阪平野の開発に取り組んだという。ため池を掘り、運河兼用の用水路を開削した。これらの周囲には、土嚢が積み上げられた。こうした工事により、大阪平野南部には水が確保され、北部の湿地に流れ込む水量は軽減された。
大阪平野の農地化は、大和朝廷の発展に大きく寄与し、豪族達が一目置く朝廷となっていく。大和朝廷に従えば、米の増産がはかれると考え、五世紀には地方の首長が従うようになっていったのである。
大和朝廷が拡大していったのは、稲作の技術力が関係していたんですね ![]()
またこうして広まった稲作は、日本の食文化も作っていきます。
食の転換~水田の拡大が日本食の基本、主食・副食をつくる~
また、大和朝廷が大阪平野の大開発を行った時期は、日本人の食の転換期でもありました。五世紀に新たに水稲耕作の技術が発展し、水田が拡大していったのです。それまで雑食だった食生活から、増産された米が主食、魚介や肉類、山菜を添え物、副食とする形へ変化していったのではないかと考えられます。(日本人は何を食べてきたのか part2 縄文・弥生・古墳時代 [3])
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続きは、次のような内容で、お届け予定です 
『稲作を軸に日本の歴史を記す ②コメ文化には政治が絡んでいる』
コメ文化はどのように出来上がったか。
地方から米が消えた・・・平安時代の管理体制
米の増産と流通が、江戸時代の商工業を発展させた!
農民(生産者)にとって白ご飯は夢だった・・・?!
参考文献:「食の進化から日本の歴史を読む方法」武光誠