戦後の敗戦処理に一役かった八郎潟干拓事業 |
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2009年06月11日
MSA協定、PL480、学校給食、キッチンカーの時代(1)
戦後も60年以上の歳月が流れて、遠い存在となってしまった。食料自給率問題を紐解くキーワードのMSA協定、PL480、学校給食、キッチンカーなどを活写している記事を見付けたので紹介したい。
◆小麦余りはどうして生じたのか?
第二次世界大戦が終わった時、戦場となった欧州でもアジアでも農業は壊滅状態だったのに対し、米国は無傷で勝利の日を迎えた。米国は世界一の食糧供給国になった。
しかし一人勝ちの期間は長くは続かなかった。1948年には早くも穀物の国際需要が停滞し、米国内には輸出できない余剰農産物が大量に滞貨した。農場への融資の担保として農産物を預かったり買い取ったりする機関である商品金融公社(CCC)は、売れるあてのない在庫をどっと抱え込む結果になった。50年の朝鮮戦争は過剰問題を一挙に解決するかに見えたが、戦争が終われば元の木阿弥だっ
た。
(「食と農の戦後史」岸康彦著 日本経済新聞社 刊)以下同様
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◆MSA協定とは、なにか?
なんとかして滞貨の山をさばきたい米国は輸入国のドル不足に目をつけた。53年の相互安全保障法(MSA法)改正は、軍事援助と輸出振興の両方を実現しようというものだった。
改正MSA法では、米国が援肋するMSA資金のうち一定額を、被援助国が米国産農産物またはその製品の購入に充てるために融資し、被援助国は自国通貨で代金を支払うこととした。被援助国としてはドル不足を心配することなく輪入ができ、米国としても余剰農産物の輸出を伸ばせるというわけである。(中略)
54年3月に調印された日米相互防衛援助(MSA)四協定には、米国の1954会計年度(53年7月-54年6月)に総額5000万ドルの余剰農産物を輪入するという余剰農産物購人協定が含まれている。代金は円で積み立てることとし、四協定の一つである経済措置協定(円貨使途協定)により、そのうち2割は防衛産業振興のため日本政府に贈与され、8割は米国政府が日本で物資を買い付けるのに
使うことになった。
四協定の中心である日米相互防衛援助協定は自衛隊の創設と防衛庁の設置に道を開いた。そのこと自体について世論は分かれたが、余剰農産物、特に小麦の輸入をめぐっても国会などで激しい議論があった。(中略)
反対論の主たる根拠は、世界的に食糧が過剰で国際価格も下がっている時に、あれこれ条件のつく余剰農産物を受け入れる必要があるのか、という点である。条件とは何よりも軍事力の強化、防衛産業の振興であったことは言うまでもないが、農業の立場からも懸念材料があった。
憲法改正、財閥解体、農地解放は、日本の経済復興・再軍備を恐れるGHQが終戦直後に断行した政策であった。1950年代になると、状況は一変し、日本は防共の防波堤となることを求められることとなる。それこそが、援助という名の米国余剰農産品の売り込みと再軍備要求をセットにした「日米相互防衛援助協定」であった。
外貨を持たない当時の日本にとっては、円で積み立てた輸入代金で貿易が出来るというのがミソで、ドル不足の日本は、米国の術中に嵌っていった。
◆主観的には、どうあろうとも・・・
日本側の目論見
いかに冷戦下とはいえ、処理に困っている余剰農産物をエサに軍事的な義務を負わせるに等しいMSA援助については、日本のみならず、多くの披援助国で批判が強かった。そこで、これに代わる余剰農産物対策として米国が打ち出したのが、54年7月に成立した「農産物貿易促進援助法」である。
正式名称より「PL480(公法480号)」として名高いこの法律はまた、その内容からあからさまに「余剰農産物処理法」とも呼ばれた。のちに「1966年平和のための食糧法」と名前を変え、その目的も余剰農産物の処理から発展途上国の経済開発に転換することにより、米国の農業政策で重要な位置を占め続ける。
(中略)
交渉は難航の末、11月に大筋で妥結し、さらに折衝を重ねたのち、翌55年の5月31日に調印された。日本は小麦2250万ドル(約34万トン)、カリフォルニア米1500万ドル(約10万トン)、綿花、葉タバコなど合わせて一億ドル、当時の為替レートで360億円の余剰農産物を受け入れることが決まった。この中には学童向けの現物贈与として給食用の小麦、脱脂粉乳て100万ドルと綿花300万ドルが含まれる。余剰農産物の受け入れは十数カ国が要望したが、第1回の金額が最も多いのは日本だった。(中略)
現物贈与分を除いて日本が円貨で買い付けた306億円(8500万ドル)のうち、70%の214億円は日本側が電源開発などに使うことになった。貸付期間は40年、金利は年2回の分割払いで年利4%と、そのころの財政投融資より良い条件だった。(中略)
残り30%、92億円は米国側に権利があった。米国はこれを在日米軍の住宅建設などに使ったほか、米国農産物の海外市場開拓に投入した。
米国農務省が市場開拓資金をどのように使ったか、その全貌は明らかでない。しかし、その後の展開からすると、私は「キッチンカー・キャンペーン」に流れたと踏んでいる。次回は、それを追ってみたい。
出典:「食と農の戦後史」岸康彦著 日本経済新聞社 刊
by びん
投稿者 staff : 2009年06月11日 TweetList
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コメント
投稿者 nganobu : 2010年1月6日 22:52
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農が、単なる生産ではなく、地域共同体再生の核となる可能性を示しているとても良い事例ではないかと思います。
後継者(担い手)育成にしても、その受け皿となる組織、共同体が不可欠ではないでしょうか。