2009年6月12日

2009年06月12日

MSA協定、PL480、学校給食、キッチンカーの時代(2)

前回(1) のつづき。食料自給率問題を紐解くキーワードのMSA協定、PL480、学校給食、キッチンカーなどを活写している記事の紹介。
◆援助という名の小麦売り込み

●キッチンカー・キャンペーンの成功
 余剰農産物の受け入れは決まったものの、その代金による市場開拓が始まるのはずいぶん遅れた。厚生省が終始、協力的だったのと違って、もう一つの所管官庁である農林省内には、米国の宣伝の片棒をかつぐような事業として反発があり、何かと抵抗したのが原因だった。それには55年のコメが大豊作で、食糧事情がかなり緩和したという背景もあった。最終的には、受け入れに積極的だった河野一郎農相が官僚たちを叱りつけて抵抗を抑えたとされる。
 56年4月、米国農務省はオレゴン小麦栽培者連盟と市場開拓事業の契約に調印した。初年度の事業費は40万ドルだった。連盟の市場アナリストで後に会長となるリチャード・バウムはさっそく、その資金を抱えて日本に飛んだ。彼はすでに米国農務省に対し、全国向け宣伝キャンペーン、製パン技術者講習など11項目から成る第1期事業計画を提案していた。計画で優先順位トップにあげたのがキッチンカーによる料理指導だった。(中略)
 米国農務省の資金を得てキッチンカーは走り出した。指導の重点は「粉食奨励」であり、コメ偏重の食生活からの脱皮である。国策にも沿ったキッチンカー事業は大成功だった。
 米国農務省の資金は製パン技術者の講習、PR映画の制作・配給、小麦食品の改良・新製品開発など各方面に使われたが、キッチンカーほど目覚ましい成果をあげた事業はない。やがて献立に大豆料理も加わるようになり、バスの台数も増えた。米国大豆協会が同じく農務省の資金を受け、オレゴン小麦栽培連盟と相乗りの形で事業に参加したからである。(中略)
 国民の健康を考える厚生省と、国内農業の振興を第一とする農林省で立場が違うのは不思議でも何でもない。日本側に食生活改善のための粉食奨励という流れがあり、それに米国のキャンペーンが見事に乗ったのがキッチンカーだった。
(「食と農の戦後史」岸康彦著 日本経済新聞社 刊より)

%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%28%E3%82%BB%E3%83%94%E3%82%A2%2901.jpg
▲写真は「写真でたぐる昭和の記憶」よりお借りしました。
米国農務省、オレゴン小麦栽培者連盟、米国大豆協会などが一丸となってキャンペーンを張り、日本側は「日本食生活協会」が音頭を取って進めた合言葉は、「粉食奨励」。
応援のクリックお願いします。
         

(さらに…)

投稿者 staff : 2009年06月12日