2021年11月12日

『農村学校をつくろう!』シリーズ-11~現実の課題の中で、自らが主体となって動く中でしか人は育たない

前回の記事では、人間本来の潜在能力を開放する自然の力について書きました。シリーズ5で、農業の場が、人の気持ちを前向きにし、人間本来の追求心を開放したり、人と関わること、役に立つことによる充足を感じる力を解放するのと似ていますね。どちらも、自然を相手にしたとき、”しんどい””めんどくさい””嫌われたらどうしよう”などの余計なこと(観念)を考えている暇がなくなり、目の前の課題や対象(自然・人)に意識が没頭するのがポイントなのでしょう。

 

今回は、これまでシリーズでお届けしてきた記事の中間総括を行いながら、これからの社会に求められる農村学校とは?を改めて整理し、ポイントを抽出してみたいともいます。

 

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2021年11月11日

植物の種子は、仲間とコミュニケーションを図り、外敵闘争上の優位性を保とうとしている

植物同士がコミュニケーションを取りながら集団として外圧に適応しているのは、前回扱いました。
今回は植物の「」に注目してみました。調べてみると驚くべきことに、植物の種同士も土のなかでコミュニ―ケーションを取り合い、仲間と一緒に発芽し、「集団」をつくっているようです!

ではその仕組みはどのようになっているのでしょうか?

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2021年11月09日

江戸の農~”いつから・なぜ”農民は百姓になったのか

江戸時代に農民は百姓と呼ばれるようになった。かつての百姓は百の姓=多くの人という意味で使われてきたが、江戸時代の百姓は意味が異なる。本百姓から水飲み百姓とその百姓にも違いがあるが、百の業=つまり何でもできる万能の民を称して百姓と呼ばれるようになった。そこには江戸時代の農業の実態、農業を通じてどのような能力を人々は求めたのかが透けて見えてくる。

るいネットに百姓について書かれた記事があった。これも参考になる。

>百姓といえば、佐藤さんの名刺の肩書にも百姓と書かれていますが、農家じゃなくて百姓なんですね。~
百姓は百の作物を作る人。米作り、野菜作りはもとより、微生物学、栄養学、気象・天文学などに通じる知恵を駆使し、土作りに始まって炭焼き、牛飼い、養蚕、大工までをこなす人間です。そうした百姓が集まり地域自給、村落共同体を再生しようと、木次の自然を大切にしながら仲間作りを続けてきたわけですが、私なぞはまだまだ未完の百姓です。

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つまり百姓は百の業なだけでなく、百の作物であり、そのためには徹底した自然への同化、追求、知恵に長けて、ゼロから有を作り出していく存在といったところでろうか。いずれにしても専門分化した現在の職業人とは全く別のベクトルを求められた万能人だったのだと思う。それが江戸時代、小農制の中で生み出された新しい農のありようだったのではないか。

江戸時代の農業の変化は市場経済への参入と技術の高度化、さらにそれを背景にした小農世帯の成立にある(リンク
>現代は4人家族、5人家族といえば当たり前だが、この核家族という構成は江戸時代の小農世帯から始まっている。それまでは農業はムラ、大きな集団で協働で行うものだったが、江戸時代の徳川幕府による農地拡大政策の浸透、さらに農業が市場経済へ踏み込んでいく中、集団も又それまでの大規模から小規模へ、農業技術も品種改良や農業全書の普及から広く一般的に定着していった。

著書「文明としての江戸システム」の中に小農世帯の成立という記述があり、この時代の史実として紹介しておきたい。
諏訪郡の平均世帯規模は1700年には13人を超えたが、1750年には平均5人へと変化している。その後世帯規模は1850年代まで平均で4人~5人の間を推移している。
重要なことは世帯規模が縮小しただけではなく4人~5人からなる世帯の集中が見られた事である。これは市場経済化の浸透に伴って隷属労働者を抱えたり、傍系親族を同居させるなどして大規模な経営をおこなうよりも,直系家族からなる世帯を経営単位とする、労働集約的な小家族経営が有利と判断されたためである。
畿内先進地帯では17世紀初期にすでに農家世帯の人員が小規模になっていったようであるが、同じ時代に九州や信州ではまだ大規模な世帯と不均等な世帯規模の分布が残っていた。こうした事例から農業世帯の構造変化は市場経済の進展にともなって、ゆっくりと全国へ拡大していったものと想像される。
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結婚、独立、家族形成もまたこの時代に始まっていく。労働力を増やすために多産になり、持続的な江戸時代の人口拡大が起きていく。またこの時代に市場経済と共に注目すべきは農の技術革新である。様々な品種改良、農業技術のノウハウは江戸時代中期に宮崎安貞著による40巻の農業全書にまとめられていく。寺子屋同様に多くの農民に読まれたこの著は様々な栽培種を絵付きで解説し、おそらくは日本初のハウツー本として迎え入れた。

総じて江戸の農業化は小農化⇒勤勉化⇒多職能化⇒高度化。

それを支えたのは農業全書や地域の農業を中心とした人の繋がりであったと思われる。これは市場化に刺激を受け日本人の勤勉、惣村を中心とした地域連携等様々な集大成が江戸で完成したと見られる。
その中でおそらく農が日本で初めて、そして最後に商売になった。江戸の農業がどうやって市場経済に載せたか、現在とはまったく異なる視点がありそうな気がする。江戸の農とは大衆の能力革命を起こしたのではないか?=それが最初に提起した「百姓」という言葉に象徴されているように思う。

 

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2021年11月04日

農から考える自然の摂理~「土の仕組みを探る」:瀕死の微生物たちが森の生態系を守る

【土壌の生態系を救ったキノコ】の事例にもみられるように、土の仕組みを探る上で、土壌微生物の解明は欠かせない。

彼らはどのような環境下で、何を武器にしながら土の中の生態系に関わり続けているのか。
今回はもう少しその実態に迫ってみたい。

 

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2021年11月04日

【農の歴史】コラム 共同体持続の鍵となった水田稲作~自然と人に“開かれた”自給システム~

前回の【農の歴史】シリーズコラム記事で「焼畑」について紹介しました。縄文時代から伝わるとされる循環型農業です。
焼畑は現代日本では少なくなってしまいましたが、今でもおなじみ、「水田稲作」はどんな農業なのでしょうか。
今回は、身近だけど意外と知らない「水田稲作」について紹介したいと思います♪

こちらも前回ブログで紹介しましたが、( http://blog.new-agriculture.com/blog/2021/09/5031.html )西洋の麦作文明と東洋の稲作文明で、そこで暮らす人々の意識は全く違うと言われます。
一般的に、麦作の地域では個人中心で自立精神が強く、自然は支配するものという思想が大きいのに対し、稲作地域では相互依存性が強く、自然との調和を大事にする思想が基盤にあると言います。人間は自然の一部なので、後者の方が真っ当な精神だと思います。しかし農業をする以上、人の手によって土地の改変を行うわけですから、自然を支配するという思想が出てきてもおかしくないように思います。
なぜ稲作地域、とりわけ日本では自然や他人との調和を大事にするのでしょう。
こちらの記事( https://www.ruralnet.or.jp/syutyo/1997/199705.htm )によると、稲または稲作の、以下2つのポイントが関わっているようです。

 

1.自然に「開かれた自給」システム

水田稲作農業は、山―川―田―海と、循環する水を仲立ちとした「開かれた自給」システムだと言います。どういうことなのでしょうか?
日本の地形は非常に複雑です。環太平洋造山帯に位置する日本は国土の約3分の2が山地によって形成されており、そこへ流れ込む川によって実に複雑でいりくんだ地形が形成されています。
水を多分に要する水田稲作はこの地形の中では有利だと言います。地形を大きく変えずとも、水の流れに沿って灌漑ができるからです。縄文後期からはじまった水田稲作は、こういった山と川のつながりの中でつくられました。
山の水は森の養分を含み、水田稲の栄養となります。水田では水に含まれる窒素やリン酸を調整します。過剰であれば、吸収・保全し、過小であれば放出する。そういった中和の機能を水田が担っており、そこから川へ、海へ流れる水は過剰栄養でも貧栄養でもない、魚にとって丁度良い水の環境をつくりました。これが自然に「開かれた自給」ということですね。
焼畑同様、自然の生態系に農業を組み込む仕組みや発想が水田稲作農業にもあったのです。

西洋にも川がありますが、その分布密度は低く、だからこそ水の利用が最小限に抑えられる麦作が主流になりました。そのため山や川とのつながりを持たない“自身で完結する”「閉ざされた」生産システムが構築されたのです。また、麦作はその生産力の限界(麦は稲に比べ生産力が大きく劣る)から、広大な耕作面積が必要となります。耕地拡大のため、人々は山を削り、森を焼きました。最初から、自然に対して侵略的な側面をもっていたと言えるかもしれません。

この両者の違いが先に述べた人の自然観にもつながっています。

 

画像は https://www.honda.co.jp/kids/explore/rice-terraces/ よりお借りしました。

2.稲作は超大変!人同士結びつきが欠かせない

突然ですが、「米」という字の由来をご存じですか?
「米」の字は「八十八」からできていて、稲作の行程の多さに由来すると言われています。
田起こしから脱穀まで、現代でも収穫するまで1年近くかかります。ゆいや雑草刈など、周りの人との共同作業だけでなく、同じ水系を使う人と入水時期を調整するなど、とにかく1人では絶対できない。周りの人との結びつきが収穫量と大きく関わります。
また、循環する水をたくさんの人が利用するので、「自分の田が荒れることは他者様に申し訳ない」という意識も働きます。
こうした“ムラ”の原理が稲作を通じて働き、縄文時代からの共同体精神を持続させました。

画像は https://www.mashingup.jp/2020/10/221860_sustainableseafood.html よりお借りしました。

 

狩猟採集から農耕へ舵を切った日本人ですが、古代から人の営みを自然と切り離すことなく、一体化を求め続けてきました。その歴史は長く、簡単に覆るものではありません。
江戸時代後期から西洋文明が導入され、近代以降、私たちはあまりにも西洋的なものに目を奪われてきました。しかし自然破壊・肉体破壊が限界の今、私たちはもう一度「本源」を見つめ直す必要があるのだと思います。

次回は自治共同体によって最先端の社会システムを構築した江戸時代中期の農業についてご紹介します!お楽しみに~^^★

 

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2021年10月29日

『農村学校をつくろう!』シリーズ-10~自然の中で、人間本来の潜在能力(野性)を呼び起こす「小野田塾」

前の投稿では、江戸時代の子どもたちの子育て・学びのあり方を追求しました。重要な点は、「遊び」のなかで成長すること、大人と一体の「生産課題」の中ですくすく学ぶこと、男と女の「性」を育てることが、一人前の大人になる上で重要だと押さえました。

 

今回の投稿では、さらに根源に遡り、自然は、人間(動物)本来の潜在能力(野性)を呼び起こす基盤であることを考えていこうと思います。

その事例として、第二次世界大戦時に、30年に亘ってフィリピンの山林の中で、まさに人間の野性(本能)を頼りに生き抜いてきた小野田寛郎氏から学び取りたいと思います。

写真は、こちらからお借りしました。

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2021年10月28日

植物は外圧を認識し、互いに連携しながら、集団として乗り越えている

前回の土シリーズは、植物とキノコの関係を扱いました。今回は植物同士の関係について扱いたいと思います。

植物は私たち動物のように動くもなければ、何か言葉を発することはありません。

でも植物たちが互いにコミュニケーションをとっているとしたらどうでしょうか?

 

実は植物がコミュニケーションを行っているという証拠は増えつつあるのです。植物は学習することもできるという報告結果も相次いで報告されており、もしこれが正しければ、植物は情報を蓄え、伝え合うこともできるということになります。

 

まさか!と思うかもしれません。ですが、木々が互いに話し合い、苦痛を感じ、助け合い、仲間の世話をし、コミュニティまで形成することを知れば、植物に知性や感情がないと断言するほうが難しくなるのです。

 

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2021年10月27日

『農村学校をつくろう!』シリーズ-9~江戸時代に学ぶ:本来集団は殖産一体!その中でこそ人は一人前に育つ!

前回の投稿では、江戸時代の子どもたち自身が集団をつくり、そして、地域をつくる役割を担うことで、一人前の大人に成長する基盤として「子供組」「若者組」を見てきました。

 

若者組は男性(13~35歳)の共同生活の組織。それに対して、村の娘たち(12歳~)の組織が「娘組」です。江戸時代の村落共同体には、子供~大人まで、村落自治のための組織と役割が複層的にあったんですね。

 

若者組も子供組も、祭りの運営や火事・地震・津波・風水害・海難事故・急病人の発生等非常事態への対応などは、地域自治で重要な役割を担って、そしてその中で共同体の一員として成長を果たしていったのは、前投稿のとおり。

今回の記事では、女性たちでつくる「娘組」はどんな役割を担っていたのか?そして娘たちはどのように成長していったのか?を追求していきます。

 

 

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2021年10月27日

【農の歴史】第7回 惣村の歴史は農村の歴史~日本独自の村落共同体の原型

今回は農業が日本に定着していよいよという時代から書いていきます。
農業は先の記事でも書きましたが「農業は渡来人支配の歴史でもあり、共同体温存の歴史でもある」という側面があり、徐福達によってもたらされ、奈良、平安で荘園制度で耕作面積を拡大し、農民人口が一気に増えていった時代、それは同時に農業生産が渡来人(公家や支配層)によって多く搾取された時代でもありました。荘園制度に組み込まれた庶民は半ば奴隷的に農業を営み、管理された土地で労働を提供する小作農が一般的でした。

高い年貢に苦しめられた農民は度々お上に訴状を出し、時に一揆も発生しています。縄文集落が奈良時代に農地に変わっていくのですが、そこでの庶民は農地で管理されかつての自ら集団を自治する共同体を失っていきます。しかし、平安から鎌倉にかけて、世が乱れより搾取がひどくなると荘園制度が崩れ、庶民は自ら立ち上がり自治の村を作っていきます。それが惣村の始まりです。

下記のブログに惣村をうまくまとめた記事がありましたのでお借りしてなぜこの時代に惣村ができたのか惣村とはどういう機能をもっていたのかを見ていきます。

「【惣村とは?】なぜ農民たちは自治組織をつくったのか」

中世は、一般に「自力救済」の時代と言われています。それは、自分のことは自分で守るというという意味ですが、それは個人単位だけでなく、組織や地域単位でも重視されました。鎌倉時代末期になると、畿内周辺に農民たちの自治的村落が出現しました。これを惣村(惣)といいます。この惣村では「一致団結」というのが何より重視されます。ゆえに村では掟が定められ、違反者は厳罰に処せられました。

鎌倉時代、農村では、地頭や荘官(領主)からの不当な要求や収奪に対して自衛組織を作って対抗しました。彼らは領主への年貢は村で一括して納入する地下請(百姓請)を行いました。もし領主が過分に税を強要したり、不正に農民から搾取しようとした場合、一致団結して抵抗しました。鎌倉時代は、農業技術の進歩により、荘園では生産性が高まった時代でした。生産力が高まったことで農民の暮らしが良くなると、名主から土地を借りて耕作していた農民たちが、自ら新田を開き、小作農から自作農へと成長していく者も現れました。

こうしたことから、農民の暮らしは徐々に向上していき、荘園で暮らす農民たちは、収穫をあげる努力を続け、とれたものを出来るだけ多く手元に残そうとしました。これに対して、荘園を支配・管理していた地頭や荘官などの武士は、様々な名目をつけて農民たちに臨時の税をかけたり、労働にかりたてて直営地の耕作などに当たらせようとしました。農民たちは、自分たちは下人や所従ではないので、従者のように使われてはたまらないと抵抗しましたが、年貢や公事が滞れば、罰金を取られ、罰金を払えずに下人に身を落とす人もいました。

こうした地頭や荘官の厳しい圧迫に対して、農民たちはだまっていたわけではありません。荘園領主に地頭・荘官の乱暴や非法を訴えたり、年貢を減らすように要求したりしました。こうした要求をするときには、荘園領主に文書を差し出して訴えました。これを百姓申状といいます。その際、農民たちは神社などに集まって共同して行動することを誓い、約束したことを破らないと神仏に誓う文書(起請文)をつくりました。そして、訴えが認められない場合には、農民たちは一致団結して抵抗し、要求を認めさせようとしました。その方法は、主に以下の3つです。

「強訴」・・・村人全員で要求を掲げて、地頭や荘官のもとに押しかける。

「逃散」・・・農民たちが集団で田畑を耕すのをやめ、荘園の外に逃げ出すこと。

「土一揆」・・・刀や弓などを持ち出し、武力によって抵抗すること。

こうして団結を強めた農民たちは、村ごとにまとまり、鎌倉時代の後期になると、地下請(百姓請)といって、荘園領主と契約して自分たちで年貢の徴収や納入を請け負うようになりました。

南北朝時代になり、戦乱が多発すると、農民の自衛組織は、運営面から自治組織(惣村)へと発展していきました。惣村では、寄合という村民による会議を重視し、惣掟という規則を自分達で決めました。乙名・沙汰人などと呼ばれる指導者を中心に、地域の神社などの祭礼を主催した宮座などを核に団結しました

農村内で自作農が増えてくると、これまで名主(古くからの有力な農民)にしたがっていた中小の農民たちも、権利を主張するようになり、荘園内の様々な問題を、名主だけの考えで決めることが出来なくなりました。すると、惣村内での様々な取り決めが必要になりました。

・山野の共同利用はどうするか、
・かんがい用水路の建設・管理をどのように進めるか、
・祭りなどの行事をどのようにしておこなうか、
・盗みなどの秩序をみだす行為をどう防ぐか、
・荘園領主や守護などがかけてくる年貢や夫役にどう対応するか、
・周辺の村と境界をめぐって揉めたときはどうするか、

などについて、名主ばかりではなく、中小の農民もふくめてみなが神社などに集まって相談して決めるようになりました。こうして鎌倉後期から名主・農民たちが村や地域ごとにまとまった、惣村とよばれる自治組織が畿内を中心に生まれました。

惣村内部では、名主を含めた構成員(村人達)は、惣百姓とよばれ、農業の共同作業や、戦乱に対する自衛を通じて結束しました。惣百姓は山や野原などの共同利用地である入会地を確保し、灌漑用水などを共同で管理しました。年貢も惣村がひとまとめに請け負う地下請、もしくは百姓請が広まっていきました。また、惣村は、番頭・沙汰人・乙名(おとな)と称するリーダー(地侍や名主層)によって構成される宮座とよばれる祭祀集団が中心となって運営されました。村の重要な決定事項には、合議機関として寄合(集会)が開かれ、ここで最終決定がなされました。なお、寄合は全員参加が原則でした。

また、戦乱や犯罪から村人の命や財産を守ることも、惣村運営における重要な要素でした。惣村では、団結を守るために村内の掟である惣掟を定め、掟を破ったり、犯罪をおかしたりした者を厳しく処罰しました。

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このように鎌倉後期から自生した惣村は後に江戸時代まで続き、さらに明治以降も農村自治はこの惣村の延長によって続いていきました。

惣村の原理とは・・・
・「一致団結」
・自衛集団から自治集団へ
・リーダーによって構成される宮座という祭祀集団に依る運営
・寄合が最終決定で全員参加が原則
・全てのルールを自ら決めていった
・目的は戦乱や犯罪から村人の命や財産を守る
・団結を守るために村内の掟である惣掟を定め掟を破ったものは厳しく処罰された。

※つまり惣村そのものが、政治の三権を全て担って自らの生きる場を自ら作っていった、まさに縄文時代の共同体が農と中世の危機によって復活していったのです。このような事例は世界でもおそらく日本だけです。

農業にその力があったのか日本人の本来持つ縄文体質(協働性)にその力があったのか、議論が分かれるところですが、水田稲作というのは麦作文化と違って奴隷根性や労働管理された中では生産性は向上しないということの現れだと思います。後に江戸時代に惣村の最小単位が家族単位まで分割された小規模農業は最大の効率と品質を上げていきます。

これから当ブログでも農業と地域、集団のあり方というものを追求していきますが、この惣村の原理に学びつつ、集団発で「農業どうする」を見ていきたいと思います。

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posted by tano at : 2021年10月27日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List   

2021年10月21日

『農村学校をつくろう!』シリーズ-8~江戸から学ぶ:子どもたち自身が集団をつくり、地域をつくる重要な役割を担っていた

前回の投稿に引き続き、中世・近世における日本の学び・子育てについて見ていきたいと思います。

前回の投稿では、中世・近世の子どもたちは、大人と常に一緒にいて、農業や生産活動も「真似る」ことで、社会で必要な力を身に付けたことを押さえました。また大人たちも、子どもたちを干渉することなく、のびのびと成長したのです。

今回の投稿では、江戸時代の子どもたち自身が集団をつくり、そして、地域をつくる役割を担うことで、一人前の大人に成長する基盤について見ていきたいと思います。

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posted by hasi-hir at : 2021年10月21日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List