2021年01月28日
コロナ禍で再注目?! 農村漁村のライフスタイルと先人たちの知恵
コロナ後の社会。特に農業に注目。都会から田舎へのライフスタイル。今回は、大分県国東半島に焦点をあてて、今や人口の流出が止まらない農村漁村の将来の可能性を探っていきます。
そこには、昔、先人達がどうにかして、生き延びていくため、自然への深い理解と知恵を磨きながら、仲間と共に現実の世界を構築する姿がありました。
では・・・・リンク
転載開始
新型コロナウイルスの流行を受けて、人を密集させる都会のビジネスのあり方に疑問が投げかけられています。一方で脚光を浴びているのが、「密をつくらない」農村漁村のライフスタイルです。コロナ後には農村漁村への移住者が増えるのでしょうか? 農村漁村に住むことの魅力とは? そしてコロナ後の社会にも役立つ、農村漁村に受け継がれた先人たちの生活の知恵とは?「世界農業遺産」にも認定されている大分県国東半島から探ります!
■農村は「密を作らない」
コロナ後は都会から農村漁村への移住が増えると予想している人がいます。イタリア・フィレンツェ大学の専門家とビデオ会議で何回か話す機会がありました。彼はアグロツーリズムに詳しく、また筆者とともに国連食糧農業機関(FAO)で世界農業遺産の審査にも従事しています。
「密を作らない農村のライフスタイルが再注目されている」と彼はいいます。昔ながらの広いスペースを活用して農業が行われている世界農業遺産の認定地などは特に好感度が高く、逆にハウス栽培など近代的な農業で人間の密を作りやすいところは評価が低くなったといいます。
イタリアではコロナ以前から、週末しか開店しない田舎の一軒家的なレストランが予約が取れないほど人気であったり、その近辺のワイナリーも盛況であったりと、身近なアグロツーリズムが人気を博している状況でした。コロナ禍をきっかけに農村漁村のライフスタイルに更に注目が高まるのは自然な動きです。
■農村漁村のプラスの面とは?
日本ではどうでしょうか。田舎の一軒家的なソバ屋を訪問する選択肢はありますが、日々の生活に追われてそれどころではないという方も多いようです。農村漁村に移住すれば付近で評判のスポットを簡単に訪問できますが、移住しようにも職業の選択肢が少なく、また子供の教育にも不安がありました。
しかしコロナ禍でテレワークが盛んになり状況が少し変わってきました。また遠隔教育も活発化し、実際、大学では2020年の春夏学期からオンラインでの講義やゼミ、試験が普通になりました。都会から農村漁村への移住の障壁は低下しつつあるように見えます。情報通信インフラなどが今後更に発展すれば、これがニューノーマルになるかもしれません。
ただし今農村漁村が再注目されているのは、コロナ禍で密を作りやすい都会のライフスタイルがマイナスに働いたためです。農村漁村の吸引力がなければこれもやがて頭打ちになるでしょう。農村漁村が自らのプラスの側面を積極的に発信していくことが、今こそ重要になっているのです。
しかしこれは簡単ではありません。そこに住んでいる人々にとっては農村漁村の生活や風景の全てが当たり前すぎて、何がアピールポイントなのか見当もつかないという人が多いためです。筆者が訪問した農村漁村でも、そう語る人が必ず何人かいました。そこで今回は、むしろ部外者であるために見えてくる農村漁村のプラス面などを紹介し、コロナ後の日本社会と農村漁村を考えたいと思います。
■「世界農業遺産」大分県国東半島
今回取り上げる大分県国東半島は、国連食糧農業機関(FAO)が認定する世界農業遺産の地域です。世界農業遺産は英語でGlobally Important Agricultural Heritage Systems(略してGIAHS)といい、世界で62地域が、そのうち日本で11地域が認定されています。国東半島地域は2013年にFAOから認定を受けており、それ以降筆者も何回か訪れたことがあります(コロナ禍以前の訪問です)。
まず大分空港に降り立つと、空気が東京とは違うことに気がつきます。植物の良い香りで精神的にリラックスするのです。空気の清涼感だけで相当な価値を感じます。半島の周回道路を北に向けてクルマを走らせると水田を取り囲むように山の緑が迫ってきます。
山あいの場所の中でも比較的平らな部分を水田として切り開いた景観です。目に緑が優しく映ります。山では原木シイタケが栽培され、平地ではシチトウイという高級畳表に使用する植物も栽培されています。めずらしい農産物の栽培現場を見ると、それだけでテンションが上がる人も多いでしょう。
■資源の配分に先人の知恵が見える
地図を見ても分かるように、国東半島は古い火山で形成されています。火山性の土壌は保水能力があまりなく、通常は水田の稲作には向いていません。そこで国東半島では、山の縁辺部にため池をつくり水田などに水を供給する体制を何世紀も前から構築しています。池の数は1,200を数えるそうです。
池は水路で連結され、水を融通し合う仕組みになっています。池の脇はクヌギ林にして森林の水源涵養機能を利用しています。先人達が長年の努力を重ねて構築した仕組みであることが伺えます。この努力の裏には、子供達に銀シャリを腹一杯食べさせたい、といった強い動機が存在していたようにも思えます。
それだけ苦労して蓄えた水ですから、公平に配分することが重要です。しかし何も考えずに全ての場所に同じ量の水を流しても農業生産には役立ちません。水田には水はけの良いところとそうでないところが混在しています。作物にも、水を必要とする時期とそうでない時期があります。渇水時期には水の取り合いにも発展します。
最適なタイミングで最適な場所にトラブルなく給水するためには知恵が必要です。そしてこれを実行するためのリーダーが必要になり、更にはリーダーを支える人間組織が必要です。加えて人間組織を支えるメンバー間の信頼関係も維持する必要があります。
この地域では現在も「池守(いけもり)」と呼ばれる役職の人が全農家から選出され、水を管理する体制が続いています。その裏には人間が結束して協力し合う社会基盤がしっかりと形成されており、日々の付き合いや定期的な水路掃除などの奉仕作業、更には神社の祭りなどのイベントなどを通じて維持されていることが伺えます。
宇佐八幡宮をはじめ多数の寺院群が存在し、収穫を感謝し豊作を祈る祭礼が今も盛んです。また山の神がもたらす水の恵みなどに感謝する山岳信仰も存在していることも地元の人から教わりました。
現在、世界各国で利益の不平等な配分が社会問題となっています。アメリカでも、リーマン・ショック以降に、上位1%の富裕層の資産がますます増加することへの抗議行動が活発化し、「我々がその99%だ(We are the 99%)」とのスローガンも有名になりました。この問題は現在も解決できていません。
農村漁村に伝わる古くからの知恵が解決に向けたヒントになるかもしれません。ただし農村漁村で配分問題がうまく解決できている背景には、当事者が顔見知りで人数も数百人レベルと少ないことがあります。数億人レベルの人数で発生している問題をどう解決するのかには新しい知恵が必要で、簡単な問題ではありません。これは別の機会に取り上げたいと思っています。
■100年前の資源管理ルール
国東半島北部の伊美港からフェリーに乗り、瀬戸内海を山口県の方向に20分ほど航行すると人口2000人弱の姫島に着きます。姫島も大分県国東半島地域の世界農業遺産の一部です。1周すると17キロありますから徒歩で全島を巡るのは無理です。昔から漁業が盛んで現在もクルマエビ養殖など水産業に力を入れており、100年以上前から現在までの漁業者間の取り決めを記した文書が残っています。これは「漁業期節」と呼ばれ、水産の研究者の間では有名な文書です。
姫島の漁業共同組合を訪問し、組合長室の金庫に保管されている「漁業期節」の原本を見せてもらいました。水産資源を管理するための取り決めが詳細に記載されていて、「藻刈(海藻の採集)」の解禁日が最初に記述されています。続いて「鯛縄(タイの延縄漁)」、「春蛸坪(春のタコつぼ漁)」など漁法ごとに解禁日が細かく設定されています。半島部における用水を公平に配分するための社会基盤と同様、島では水産資源を公平に配分するための社会基盤が存在していることが伺えます。
私たちは「漁業期節」に記載される最初の項目が魚の漁獲規制ではなく「藻刈」であることに注目しました。100年前、海藻は畑の肥料として利用され、商業的な価値は食用となるタイやタコなどより低かったと思われます。
ところが、そもそも藻場は海の中では魚の産卵場であり、稚魚の成育の場であるとの大切な場所です。魚の資源を保全するためには藻場を管理することが第一の優先課題だと昔の漁師は考えて、「藻刈」の規制をまずルールブックに記載したのでしょう。魚を守るためには先に漁場を守るべきという日本ならではの発想です。欧米では魚を守るために魚だけに注目するという単刀直入な発想が主流ですが、これとは好対照をなしています。
■枝葉末節よりも大局を見る知恵
明治期の日本には、このように枝葉末節にとらわれず大局を見て対応する知恵が今以上にあったように見えます。当時の姫島では漁場や水産資源を守るため藻刈だけでなく山林の伐採も厳しく規制されていた記録が残っています。山林の落ち葉は微生物に分解され、チッ素やリン、有機鉄などに形を変えて海に流れ込みます。そしてこれらは海で植物プランクトンが発生するための栄養になるのです。
植物プランクトンは何段階かの食物連鎖を経て魚の餌になります。こうして森、川、海の物質循環が成立します。これを守ることが魚の資源保全になることを昔の人は意識していたと思われます。実際、全国に魚付き林と呼ばれる場所が多数存在しています。姫島もこの知恵が発揮されている場所なのです。
姫島は時期になるとアサギマダラ(渡りをする蝶)が来遊します。渡りをする蝶にとっては、姫島は瀬戸内海の中の貴重な中継地です。
人間の視点で見ても、海を渡る人々は国東半島や姫島を瀬戸内海の一地域として捉えていたことでしょう。陸から見ればこの地は九州ですが、陸から見たイメージだけにとらわれて解釈してはいけないことに気づかされます。
■真っ先に耕作放棄される棚田
半島に戻り、山側に向けて少し進んでみます。火山が水流で削り取られたのでしょう、深い谷が現れます。棚田も点在しています。しかし小規模なものが多く、耕作放棄地となっているところも見られました。
そもそも棚田の分布している場所は斜面で耕作面積も小さく、機械を使った効率的な近代農業には向いていません。このため棚田から先に耕作放棄地となっても、現在の経済の仕組みからすればおかしくないのです。このままでは耕作放棄地の拡大、里山や用水を管理する社会基盤の減退、鳥獣被害の拡大が進むでしょう。これは全国に共通する課題であって、この地域特有のものではありません。
更にいえば、農林水産業だけの問題ではなくて、世の中、何も対策を講じなければ全ての業界で先細りを覚悟しなければなりません。ハイテク産業であってもその例外ではありません。これを避けるために人々は時間に追われて密の状態を作り、余裕のない暮らしをするのです。それで良いのかどうか、放棄された棚田が私たちに問いかけているようにも思えます。
■未来は現在の延長線上にはない
これまでから耕作放棄地問題や社会基盤の衰退などに歯止めをかけるために、地域内でも農業従事者以外の人の力や、地域外の人の力を借りる必要が世界各地で生じていました。そして今、人を密集させる都会のビジネスのあり方に疑問を感じる人が増えています。
冒頭で紹介したイタリアの専門家は、今後は都会から農村漁村への人口回帰を見越しています。日本も農村のライフスタイルや自然環境の魅力を発信するなどして工夫すれば道も開けるでしょう。過去から現在までの連続した線上に未来が乗っていると見て農村漁村の将来を悲観視していても前には進みません。
新しい人が入ってくるとすれば、新しい農村漁村コミュニティーを維持させるための戦略も重要になってきます。農村漁村に古くからある知識を収集して体系化し、新しい住民や協力者が意味を理解できるよう再構築することは重要な作業になります。実際、資源の管理や配分ルールの考え方、更には大局を見て自然環境を保全する態度など、残すべき伝統的な知恵は多くあります。
そしてこの知恵を収集し再構築する作業を通じて、農村漁村のスピリチュアルな魅力も発見できる可能性もあります。世界の各地域とも連携し、コロナ後の社会を見据えた意識の共有を進めることが重要になっています。
以上転載終了
◆まとめ
今回は、国東半島を事例に挙げました。昔の農村漁村で生活している人たちは、(水という)資源を分かち合い、収穫のためには、(次の世代の)将来も考えながら、乱獲などはせず、まさに自然に同化しながら、収穫を導くことが可能な環境を構築していきました。これこそ、自然の摂理に即した生き方と言えるでしょう。
そして、彼らの生業からは、生産に欠かせない水や漁場は公共のものであるという事が深く認識され、当事者である他の農民や漁民ともルールを決めながら、お互いに存続、発展していこうという自助互助の共同体社会の姿が浮き上がってきます。
コロナ後の社会である農村漁村の背後に、こうした先人達の構築してきた自主自立の生き方の醍醐味。自然と一体になり、仲間と共に生きていく(都会には、全く存在しない)共存共栄の世界が流れていることに気づきます。なので、「密をつくらない」農村漁村のライフスタイルが脚光を浴びる要因になっていく事も頷けます。
今や農業のあり様は、機械化やAI技術の進化で、労力をかけずに、収穫物の生産量や質を上昇させていく事が可能になりました。そこに先人達の築いてきた精神や大局的なものの見方。更には自然と共に歩んでいくという生き方が相乗されていけば、新しい農業のかたちが創出されていく可能性は十分にあるのではないでしょうか? では次回もお楽しみに・・・・
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2021年01月28日
農と金融10~すべてが自分ごとになる世界へ
【農と金融9~都市と地方をかきまぜる】
に続いて。
「お金第一」がもたらした傲慢な社会意識。
誰もが無自覚のうちに染まり蔓延った事実に、農は気づかせてくれる。
以下、転載(「共感資本社会を生きる」2019著:高橋博之×新井和宏)
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2021年01月21日
農と金融9~都市と地方をかきまぜる
【農と金融8~”百姓スタイル”】
に続いて。
都市と農村の関係はこれからどうなるか。
定住でも交流でもない、「関係人口」という可能性。
以下、転載(「共感資本社会を生きる」2019著:高橋博之×新井和宏)
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2021年01月14日
「農」が持つ懐の深さ~半農半X、ひとつの事例から
「農」に興味関心をもち、営みに携わっていく。
そのきっかけは、実に様々だ。
それぐらい「農」は懐が深い、ということだろうか。
以下、転載(“サッカー”と“農業”で、なでしこリーグをめざす!〈FC越後妻有〉の女子選手たち)
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2021年01月12日
土の世界に迫る
今日は、土の話になります。慣行農法、有機農法、自然農法すべての農業には土は欠かせない。ならば、そもそも地球上に存在する土とは、何なのか?
今日の紹介は、土の研究を行っている国立研究開発法人 森林研究・整備機構 森林総合研究所 主任研究員の藤井一至氏。食糧危機が危ぶまれる将来に向けて、スコップを手に “100億人を養える土壌” を求めて世界を飛び回っている。
これから転載する対談は、NATURE & SCIENCE(2020年1月)からの転載である。【リンク】
カレーの研究をしている食研究家の水野仁輔さんが、「カレーって、何だろう?」という長年の疑問の答えを探すゲストインタビューの連載になります。ではどうぞ・・・・
転載開始
土には5億年の歴史があり、地球最後の謎と言われているそうだ。そんな土の世界で、100億人の食生活を支える持続可能な農業の姿を藤井さんは追求している。
スケールが大きすぎて僕には想像がつかない。いったい土を通してどんな未来が見えているのだろうか? 藤井さんには公開取材という形のイベントでお話を伺った。
■100年で生まれる土は1cm
水野)僕はラボの小さなベランダでスパイスやハーブを育てているんです。プランターの中に15、6種類くらい。枯れてしまうものがありますが、放っておけばやがては土として蘇るわけですね。そのサイクルは何年くらいなんでしょうか?
藤井「落ち葉を土に還しても数%しか残らない。ほとんどは微生物が分解して無くしちゃうんです。例えば、森に足を踏み入れて感じる落ち葉の分厚さって5cmくらいですよね。1年間で積もる量は大体3cmくらいなんです。だから2年ほどの周期で落ち葉は入れ替わる。分解して二酸化炭素になったりします」
水野)数%が地球の土を維持している。
藤井「日本で土を1m掘ると1万年くらい前にできた土に出会う。2m掘ると2万年前」
水野)じゃあ、100年でたったの1cmしか土ができないんですか?
藤井「そうです。農業をどう持続的にやれるかを考える立場から言うと非常に深刻なんです」
■人間の歴史は、土の失敗の歴史
~月や火星にはないけれど地球には土がある。我々は地球上にかつて生きていた動植物の死体の上で生きていることになるそうだ。
水野)この世界に足を踏み入れたキッカケは?
藤井「もともと岩は好きだったんです。農業で大事な土が岩からできていると知ったとき、『土も詳しくなれるんちゃうん?』って思った」
水野)農耕っていう文化が始まってから1万年前くらいだそうですね。人間と土との関係は、いい関係を築いてきたんですか?
藤井「これは評価が分かれるところで、『人が生きていること自体が環境破壊なんだ』って考えもあります。確かにそうかもしれない。でも、その中でどうやって人間が生きるかっていうことのほうが大事だと思います。“人間の歴史” そのものが “土の失敗の歴史” という側面もあります」
水野)土とうまく付き合えてない……。
藤井「ただそれぞれの農業で、それぞれの土地に見合ったことをすれば、人間の時間のスケールでは半永久的に使うことだって可能なはずで、その方法を知りたいんです」
水野)そこで “酸性化” と “塩類(えんるい)化” がキーワードになるわけですね。
藤井「人間は畑からとれた植物を食べますよね。つまり私たちが生きることで畑の養分が失われている。カルシウムなんかを土から持ち出すことなので、“酸性化” を引き起こしている。実はですね、日本の土よりも乾燥した砂漠みたいな土のほうが、栄養があるんです。だから、水さえ撒けば植物はよく育つ。大概、古代文明って乾燥したところで成立しています。ただ、雑に水を撒き始めると乾燥によって蒸発してしまうので塩が溜まっちゃう。それが “塩類化”。これら2つの問題に人間の歴史は悩まされているんです」
■“当たり前” を体験する大切さ
~ここ数年、これまで以上にカレーの食材に興味がわき、産地や生産者を巡るようになった。自分が料理に使うものについてより深く知りたくなるのは必然だ。
農業との接点は前に比べればはるかに深まったが、その消費行動が土に及ぼす影響についてまでは考えたことがなかった。
水野)砂漠の土の話が出ましたけど、藤井さんの本によれば、土は地球上に12種類しかないんですか?
藤井「僕の場合は最も大雑把に分けると12種類としていますが、研究者によってとらえ方は違います」
水野)なるほどね。インドカレーとタイカレーって言ったら、いや、インドは北と南で違うじゃないかっていうのと……。
藤井「そうそう! それに近いです。大雑把に括っていくことで見えてくるものと、逆に個々にして大事にした方がよいものと、両方あるんですけど。研究者の間でも、僕のように12種類を実際に見にいくということに意味を見出す人はあまりいないかもしれない」
水野)世界中に存在しているカレーをすべて探しに行きたいと思ってる人と出会ったことがないのと同じなのかもしれません。
藤井「僕にとって世界の12種類の土を実際にこの目で見て知ったことは、自己満足なんです。12種類を求めて行った場所は、みんな違う生活をしているのが面白い。例えば、カナダの永久凍土のスーパーに行くと、白菜は、1,800円で売られているんですよ。一束がですよ。『そうか、永久凍土って農業できひんのや!』っていう当たり前のことに気づかされる。それがいかに大事か」
そう、自分で動いて体験して考えることを重視した活動に対して勝手に親近感を覚えたから、「ぜひお会いしてみたい」と思ったのだ。
~中略~
藤井「なんかそれって、誰もが直面している課題のような気がしますね。知識とか情報とかいくらでもある中で、どうやってアイデンティティーを守るのか。ちなみに僕、中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源』っていう本が好きなんですね。1960年代のベストセラーですが、内容が斬新で『世界中の文化は、食文化も含めて大雑把に分けると4つだ』って言っちゃってる。そのくらいざっくり分けてることに僕はロマンを感じていて、僕も『人間のルーツや文化を土から切り取ろう』と思った」
藤井「とはいえ、今、僕がこの時代に生まれてきたせいで出会えないものがある。アフリカに “アフリカ稲” を求めて行っても、彼らはもう “アジア稲” にシフトしてる。もはや文化ってカオス状態なんですよ」
水野)同感です。カレーやスパイスの文化は地続きでグラデーションをなしていたり、海を渡って影響を及ぼしたりしていますが、何しろ多くの変容を遂げた結果、現在の姿にしか僕らは出会えない。
■土は裏切らない
~沸き起こる感情に突き動かされ、何かをし始めたときに不意に自分に襲いかかる感情がある。「いったい僕は何のためにこんなことをしているんだろうか?」。深く考えると抜け出せなくなる。そんなときに僕は「好奇心」という都合のいい言葉を胸に抱えて切り抜けることにしている。
一方で、藤井さんの立ち位置とモチベーションの源は、ゆるぎないものだった。
水野)土を探るっていうのは、歴史学的な要素が大きそうですね。5億年の歴史の中で地球上に起こったものなのに “謎” が多いというのが不思議です。カレーの世界は歴史が浅く、発展途中にあるから答えの出ていないものが多いんですが。
藤井「土は生まれるまでに時間がかかるんで、何かに気がついた頃には、またメソポタミア文明が塩類化で崩壊したような間違いをしてしまうかもしれない。だからそれらを未然に防ぐための研究が大事なんだと思います」
水野)土のことを研究している世界中の研究者は、皆さんが100億人を食わせていこうって方向を見ているんですか?
藤井「きっとそうですね。植物工場だとすごくよく育つのに、土で育てようとするとうまくいかないことがある。だからこそ自給できるようにしようという考えですね」
水野)それを大義名分だとすると、それは置いといて、地球のためよりも自分の興味が先立って「土とは何か?」ってことだけを真っ直ぐ追求したいんだって研究者はいないんですか?
藤井「僕はその気持ちに近いかもしれません。土がどうやってできたかをちゃんと知っておかないと、これからの地球のためにどれくらい守んなきゃいけないかっていうのも分かんない。僕たちの毎日の食卓っていうのも、ずっと変わり続けてますからね。僕から見ると、植物も食べ物も土とつながっていて、付き合い方は文化圏によって違う」
水野)だから土と付き合う延長線上に見えてくるものがある。
藤井「それが楽しいなと思っています。少なくとも僕は土を介して、『私たちって何なんだろう』とか『日本人ってこんなところが変わっているよね』ということをちゃんと理解したいなと思っています」
水野)仮に、藤井さんが土と向き合える時間が100年だとして、5億年とか1万年っていうスパンのうち「100年間」っていう短さについては、どんな風に捉えていますか?
藤井「一歩ずつやることが大事であるってことしかないのかも。『明日世界が滅びるとしても、僕は今日リンゴの木を植えよう』と言った人(マルティン・ルター)がいたという話が結構好きで。僕の場合は『ちょっとでも面白い研究をしよう』とか『この瞬間を土と楽しもう』といった感情に近い。5億年のうちの1年だと、それはどんだけちっぽけなものかというのはあるんですけど、手間をかけた分だけ土は変わるので、やりがいは見出せます」
水野)なるほど、そういうマインドが希望やモチベーションになってるってことですね。
藤井「土は頑張った分だけ、応えてくれる。あんまり裏切らない。もちろん、僕もまだわかってないことのほうが圧倒的に多いんだけど『今度はこうやってみようかな』っていう前向きな気持ちがなかったら研究を続けるのはちょっと辛いかな」
■最後に
~「土とは何か?」を知り、その先に持続可能な農業の形を模索している藤井さんの姿は、眩(まぶ)しい。土への個人的な興味と100億人を食べさせるという使命とが、1本の糸で繋がっているからだ。
藤井 一至(ふじい・かずみち)/1981年富山県生まれ。京都大学農学研究科博士課程修了。博士(農学)。京都大学研究員、日本学術振興会特別研究員を経て、国立研究開発法人 森林研究・整備機構 森林総合研究所 主任研究員。カナダ極北の永久凍土からインドネシアの熱帯雨林までスコップ片手に世界各地、日本の津々浦々を飛び回り、土の成り立ちと持続的な利用方法を研究している。第1回日本生態学会奨励賞(鈴木賞)、第33回日本土壌肥料学会奨励賞、第15回日本農学進歩賞受賞。過去には、土の研究者とプロ棋士への道で迷ったこともあるという。
以上転載終了
■まとめ
彼らの対談から気付いたことは、「そもそも農業は地域毎によって生まれたものである。それが、今やカオス状態。一つの野菜の出自がどこであるかさえ混沌としている。」というもの。
今や自らの食卓も、ずっと変わり続けているが、そもそも植物も食べ物も土とつながっていて、付き合い方は文化圏によって違うのが本来の姿である。
なので、その地域の農業を成立させている土がどうやってできたか知っておかないと、これからの地球をどれ程度守る必要があるのかもわからない。という藤井氏の志には共感するものがある。
自然農法は、実は、この本来地域ごとに生まれた農法の延長にあるものであり、それぞれの環境によって、生まれた適応種であるという事に繋がっていく。
そうであれば、将来、肥料などもなくその地域の環境に完全適応し、100%持続可能な種の組み合わせの農業が、環境を活性化させていくのではないか?(すなわち本来のその地域の生態系が存在し続けるのではないか?)
これからの藤井氏の研究成果に目が離せない。では次回もお楽しみに・・・・
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2021年01月07日
農と金融8~”百姓スタイル”
【農と金融7~予測できない真っ白な明日を生きる】
に続いて。
「市場」がもたらした副作用を見つめて。
これからの働き方、生き方のヒントを、”百姓スタイル”に見出してみる。
以下、転載(「共感資本社会を生きる」2019著:高橋博之×新井和宏)
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2021年01月04日
自然農法という選択(2/2)
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
さて、本日は、昨年に引き続き自然農法について学んでいきます。【農業技術研究所歩屋(あゆみや)】さんのHPからの転載です。
目次
1、先駆者たち
2、味と品質
3、肥料を使わず大きく育つのか?
4、難易度は?
5、自然農法の理論 “オカルト”という批判はもう古い!?
の中から、前回は、1と2を紹介しました。
今回は上記の3、4、5を紹介します。では・・・・【リンク】
転載開始
3、肥料を使わず大きく育つのか?
肥料を使わない自然農法は、「ちゃんと野菜や果物が大きく育つのか?」と疑問視する声がとても多い技術です。この疑問に対して、「ちゃんと育ちます」と即答できないところが、まだまだ発展途上の技術であることを示しています。
その理由は、自然農法で野菜や果物が育つ科学的な研究がなされてこなかったことが挙げられます。
たとえば、都市部の街路樹や、庭の柿木などは、肥料を施さなくてもぐんぐん育ちますし、美味しい柿の実も成ります。コンクリートのわずかな隙間から雑草がたくましく生えてきます。
こうした光景を身近に見ている私たちは、直感的に「肥料がなくても野菜は育つだろう」と、頭ではわかっているのです。ところが、自然農法の研究は、思わぬところで行き詰まってしまったのだと推測されます。
それは、もともと肥料栽培をしていた農家が、無肥料栽培に取り組んできたことです。どういうことかというと、すでに肥料の入った畑を使って、「ある時点から肥料を切る」ことで研究を始めるパターンがほとんどでした。
すると、初めのころは、畑に残った肥料分によって作物が育ち、「なんだ、肥料がなくても育つじゃないか」と農家は喜ぶのですが、そのうち作物が小さくなり、やがて全然育たたなくなる。そんな事例が続出しました。これでは生活が続かないので、自然農法の研究はまったく進みませんでした。
どうやら、自然農法というのは、従来の肥料栽培とはまったく異なる仕組みで作物が育つのではないか? そんな視点から研究を始める必要がありました。そこで、10年以上も放っておかれた、いわゆる耕作放棄地で研究を始めた結果、ようやくその仕組みが明らかになってきたのです。
概要は、Halu農法のページで解説していますが、街路樹や庭の柿木が育つ仕組みをそのまま畑に応用することで、とても元気な作物が育つようになりました。
もちろん、「すべての作物がちゃんと育つ」とは言えないまでも、大根や人参など、家庭でたくさん使われる野菜については、量産技術がある程度確立しています。現在も、いろいろな野菜を育てる研究を続けていて、近い将来、自然農法が広く普及できそうな気配はあります。
そして、その担い手の中心になるのは、もともとの農家ではなく、自然を愛し、農業に関心のある、新たな担い手であろうと思います。
4、難易度は?
「自然農法って、きっと難しいのだろう」と思う人は多いかもしれません。現代の農業は、肥料を使うのは“常識”を通り越して、“必須”と考えている人が圧倒的に多いからです。
しかし、私はむしろ逆だと考えています。
肥料を使って野菜や果物を育てると、どうしても不健康で、病気や虫による食害が多くなります。そのために強力な農薬が必要になります。それが現代農業の標準形です。
ところが、化学肥料や有機肥料を使っていながら、農薬の必要ない健康な野菜をつくる名人が存在することも、また事実です。正直なところ、私には想像もつかない神技の持ち主です。
ただし、名人はごくごく少数です。
ということは、肥料を使って農作物を育てることは、かなり難しいということです。
ひと口に肥料と言っても、いろいろな種類があります。また、どんな肥料をどれだけ投入するかは、作物によって、土の質によって、天候によって、サジ加減がとても難しいのです。
恥ずかしながら、私も有機農業を1年間学びましたが、「これは歯が立たない」と思いました。それに比べると、自然農法のほうがはるかに簡単だと、いまは思っています。
もちろん、種を播けばどこでも何でもできる、というほど簡単ではありません。自然界のことや、野菜が成長する仕組みについて、最低限知っておくことがあります。ただそれについては、肥料や農薬のことを学ぶことに比べれば、うんと簡単です。
しかも、肥料も農薬も使わないと、野菜や果物ができ始めるにつれて、さらにどんどん作りやすくなっていきます。畑や自家採種した種が進化していくのです。
逆に肥料・農薬を使う場合、時間とともに畑の中の生態系が崩れていくので、肥料の種類を変えたり、強い農薬に変えたりする必要があって、むしろ時間とともに対応策が難しくなっていくように感じます。崩れる環境に対応するために遺伝子組み換え技術も必要になり、まさに悪循環と呼べるでしょう。
これから園芸を始めてみたいと考えている人には、間違いなく自然農法はお勧めです。
5. 自然農法の理論 “オカルト”という批判はもう古い!?
肥料も農薬も使わない──と言った瞬間に拒絶反応が起きる。
いままでの日本は、ずっとそのような雰囲気でした。その反応は、農家だけでなく、家庭菜園を楽しむ一般の人々にとっても同様で、自然農法は、皆にとって“オカルト”だったようです。
自然農法を科学的に研究する人は、確かに日本にはほとんどいません。
8年前(2011年4月)に研究を始めたときは、まったく雲をつかむような状態で、「とんでもない世界に迷い込んでしまった」と暗く落ち込む日々が続きました。
しかし、庭の柿の木が美味しい実を成らせる以上、その仕組みを科学的にとらえることは決して不可能ではない。そう信じていました。
いまの時点では仮説にすぎないかもしれません。ただ、実際に野菜や果物ができているので、あとは時間とともに定説として足場を固めていく時代に入っていると思います。ただし、現時点で確実に言えることがひとつあります。 「野菜は養分で育つのではない」 ということです。これは、多くの自然農法家も誤って認識している可能性が高いので、余計に人々を混乱させているのでしょう。養分が必要なのは、人間をはじめとした「動物」であって、「植物」に養分は必要ないのです。植物に必要なのは、「すくすく成長できる環境」ただそれだけです。
自然農法の理論をひと言で書けば、「植物と微生物は一体の存在である」という考え方が基本です。そして、「太陽の光」「水」「空気」がそろえば、どんな植物も自動的に育つのです。
生物学では、そもそも植物を「独立栄養生物」と分類しています。つまり、自分で栄養を調達して、勝手に育ち、世代を紡いでいく生き物です。
一方、人間や他の動物は「従属栄養生物」といい、動き回って栄養を調達しなければ生きていけません。だから「動物」と分類されるのです。
さて、自然農法の理論を支えているのは、「植物と対になる“共生微生物”が繁殖しやすい環境を整える」技術です。それこそが自然農法である所以というわけです。
理想的な環境は、「適度な通気性と保湿性のある土壌」です。とくに、野菜や果物と共生する微生物にとっての理想的な土壌環境として、高さ40cm、幅120cmの畝を造成します。ここに種や苗を植えつけると、さまざまな農作物が自然に育っていきます。
この理論は、あくまで仮説です。しかし、実際に野菜や果物はできます。
どのような野菜や果物が、どのような畝の形のときに最も良く育つとか、どの土質にはどの野菜が適切かとか、今後の研究課題は無限にあります。
しかし、作物と微生物はそもそも一体で、「光・水・空気」があれば、勝手に育っていくという考え方は共通です。あとは、畝の高さや幅を微調整していけばいいだけのことなのです。
そして、応用技術としては、水や温度の管理ができるハウス栽培なら、共生微生物にとって、さらに理想的な環境を整えることができる可能性が高くなると思われます。
ということは、「肥料も農薬も使わない植物工場」が、決して夢物語ではないのです。そうなれば、「どんな気象条件にも負けない自然農法の時代」の幕開けです。
以上転載終了
■まとめ
今回の記事には、様々な気づきがありました。そもそも「野菜は養分で育つのではない。」これは、目からうろこ。
加えて、「植物と微生物は一体の存在である」という考え方が基本であり、「太陽の光」「水」「空気」がそろえば、どんな植物も自動的に育つ。という認識は、すなわち自然は、地球上の全てが、一体となって存在しているという事と同義。
反対に、これまで主流であった慣行農法は、「野菜は養分が必要である。」という認識で成立している農法であり、これは、人間が大量栽培、大量消費を第一義とし、本来存在する自然の摂理を逸脱した農法であること。更に言うなら、この農法の存在が、人間本位の思考でしか成立していないという事が浮き彫りになったと思います。
なので、これまで主流あった農法は、このまま存続し続けるには、無理があるということであり、今後、農法をめぐって、全世界的な農業革命が起こっていくという状況が垣間見えてきた。そして、その救世主が自然農法であると・・・・
更に、現在コロナの猛威が、全世界的に広がっており、産業(仕事)の形態が変化していく中で、農業も従来型のあり様から、変わっていく可能性も十分あり得ます。
将来、世の中が本源社会、自然の摂理を第一義として変化するのであれば、今回紹介した自然農法は、実現可能性のひとつとは言えないでしょうか?
では、次回もお楽しみに・・・・
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2021年01月01日
新たな時代を生き抜くための教育は「農」とともにある。
日本の公教育が役に立たないどころか害でしかないという事実が、
今の混迷ぶりから露わになってきている。
新たな時代を生き抜くための教育は、
「農」の持つ豊かさとともに、志ある経営者たちの実践から始まる。
以下、【「学びを変える」を仕事にする/寺田親弘~Sansan創業者が未経験から始めた、里山の高専づくり】より転載
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2020年12月24日
農と金融7~予測できない真っ白な明日を生きる
【農と金融6~「面」で生きる生産者、「点」で生きる都会人】
に続いて。
もはや形骸化した未来のために、いまを生きそびれている都会の大人と子どもたち。
予測できない真っ白な未来を思いっきり生きるために、
いまだ科学で解明できない世界が広がる自然の中に自分を放り込んでみる。
そうやって、生き物としての感覚を取り戻す。
以下、転載(「共感資本社会を生きる」2019著:高橋博之×新井和宏)
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2020年12月17日
農と金融6~「面」で生きる生産者、「点」で生きる都会人
【農と金融5~自然に触れていれば不自然さが分かるようになってくる】
に続いて。
日々忙しい、忙しい、と言いながらこなしているその仕事は、
『主体的に生きる、生活する』に、つながっているか?
以下、転載(「共感資本社会を生きる」2019著:高橋博之×新井和宏)
続きを読む "農と金融6~「面」で生きる生産者、「点」で生きる都会人"
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