- 新しい「農」のかたち - http://blog.new-agriculture.com/blog -

新たな時代を生き抜くための教育は「農」とともにある。

日本の公教育が役に立たないどころか害でしかないという事実が、
今の混迷ぶりから露わになってきている。

新たな時代を生き抜くための教育は、
「農」の持つ豊かさとともに、志ある経営者たちの実践から始まる。

 

以下、【「学びを変える」を仕事にする/寺田親弘~Sansan創業者が未経験から始めた、里山の高専づくり】 [1]より転載

人口約5100人の小さな町、徳島県神山町。市街地から車でおよそ1時間の山間部に位置するこの町には、2005年から全域に光ファイバーが敷設され、都心部のIT関連企業など15社以上がサテライトオフィスを置いています。

この若者と移住者が多く集まる町で、昨年発表された、2023年の開校を目指した次世代型私立高等専門学校「神山まるごと高専」設立のニュース。

高等専門学校(以下、高専)は、実践的で創造的な技術者を養成することを目的とした高等教育機関であり、全国に国公私立合わせて57校、約6万人の学生が学んでいます。高専といえば高いレベルでの技術習得が特徴ですが、「神山まるごと高専」ではそうした高い技術を活用して社会に変化を生み出す力を育み、起業家精神を持った「野武士型パイオニア」を育てることを理想の卒業生像に掲げているのだそう。

今回お話を伺ったのは、このプロジェクト発起人であり、Sansan株式会社創業者である寺田親弘さんです。

現在、起業家らを中心とした設立準備委員会によって着々と準備が進められている「神山まるごと高専」ですが、いったい何がきっかけで新しい学校づくりがスタートしたのか、数ある校種の中でも「高専」を選んだ理由、神山町にプロジェクトの相談をしたときのこと、手弁当で集まった仲間たちの話まで、たくさんのお話を伺うことができました。

 

■起業家である自分。教育分野で力になれることは「新しい学校をつくること」だと思った
── 寺田さんはご家族が起業家で、ご自身も小学生のころから起業すると考えられていたそうですね。それほどビジネスに熱意を注いでこられた中、どのようなことがきっかけで新しい学校をつくろうと思われるようになったのでしょうか。

教育という分野を明確に意識し、具体的に動き始めたのは、今から5〜6年前のことです。自分なりに社会貢献の形を模索していたときに、最も力を注ぐ価値があると感じたのが教育分野でした。昨年から「神山まるごと高専」が公になり、教育に長年熱意を持たれ実践されてきた方々と名前を並べられてしまうことがあると、本当に恐縮してしまうのですが…。

僕自身はあくまで起業家であるので、そうした自分として教育分野で何か貢献できることがあるとすれば、新しい学校を作ることではないかと考えました。

3〜4年ほど前から各地の学校視察を始め、数々の教育者の方にお会いしてきた中で、学校づくりは本気で取り組まずにできるほど甘くはないことだと感じ、寄付だけをして誰かに任せきってしまうのではなく、本気で向き合えるよう準備段階から自分自身もチャレンジしていく前提で取り組むことに決めたんです。

── 学校の形は、最初から高専だと決められていたのでしょうか?

いいえ、まったくです。小学校はどうか、中学校は、もしくはフリースクール、いやインターナショナルスクールもあるし、極端な話私塾だってありうるだろうと、様々な選択肢を検討していました。その中で、高専という選択肢が浮かび上がってきたんです。

実は僕自身、Sansan株式会社(以下、Sansan)を始めるまで、高専のことはほとんど知りませんでした。面接官として高専の卒業生と出会うようになり、とても優秀で、20歳で自分の人生にコミットしているような、まるで若いプロスポーツ選手のような成熟した部分を持つ彼らを、興味深く好意的に感じるようになったんです。

彼らは中学を卒業して、高校ではなく5年一貫(商船学科は5年6ヶ月)の学校に入り、大学受験はしませんが、就活市場では人気です。大学編入も可能で、東大に進学するような子もいるそうです。それを知ったときは、自分のあずかり知らなかったそうした“裏道”の存在に驚きましたよ。

積極的に高専出身者に話を聞かせてもらうようになり、彼らがおしなべて自分の出身校という枠をこえて「高専愛」が強いことも、一層おもしろく感じました。僕は普通科の私立高校を卒業していますが、「私立高校最高!」とはなりませんから(笑)

── 神山町にはどのように可能性を感じられたのでしょうか。

2010年に町で初めてサテライトオフィスを構えさせていただいてからの付き合いでしたし、良い意味でノイズがなく、ダイバーシティがあり、魅力的な土地だと感じていました。

また設立準備委員会にも入ってくださっている認定NPO法人グリーンバレーの大南信也理事には、神山を初めて訪ねた際に「町の第1号であるSansanのサテライトオフィスは、いずれBirth place of 神山バレーになるかもしれへんな」という言葉をいただいたことがあったんです。

あれから10年、アメリカのIT企業・スタートアップの聖地シリコンバレーのように非常におもしろい流れが町に生まれている中で、シリコンバレーにおけるスタンフォード大学のように大起業家を輩出する教育機関をつくれたら、100年後には本当に「神山バレー」になる可能性もあるのかもしれないと思えたんですね。

すると、これまで候補として意識してきた「高専」が具体的にイメージできるようになって、神山町の皆さんに「地域に起業家人材を育てる高専を作ってみてはどうか」と相談してみました。農業高校しか進学先がなく県外へ若者が流出していた神山町にとって、この提案は可能性を感じて受け入れていただけて、早速町長との町内の廃校巡りが始まったんです。

── それほどスムーズに話が動いたのは、やっぱり10年間築いてきた関係性が大きく影響したのでしょうか。

そうですね。実際、まちに非常に協力してもらいながら、一緒に走って挑戦している感覚です。自分がフルコミットできなくても神山町となら一緒に進められるのではないかと考えた直感は、間違っていなかったと思います。

 

■ローカルコミュニティと教育の持つ求心力に助けられて
── とはいえ初めての教育業界、何か壁を感じたことはあったのでしょうか。

それは、まさにいま感じています(笑)。前提としてですが、僕自身このプロジェクトは明確にSansanとは切り離して、個人として取り組んでいます。そのうえで、教育業界での経験がない、本能的な教育へのパッションがあるわけでもない一個人として、感じる壁や大変さは非常にあります。

ただ一方で、教育というものが持つ求心力には日々驚かされています。「こういった新しい学校を作りたいんです」と伝えたときに、多くの人が掛け値無しに協力してくれますから。

── 仲間といえば、設立準備委員会のメンバーはどのように集められたのでしょうか。

2年前の夏に神山町との間で設立案の大枠が決まってから、町に縁があり、このプロジェクトに必要だと感じられ、相手も興味を持ってくださった方を中心にまずは10名程度声をかけさせていただきました。

結果、現在も一緒にプロジェクトを進めている株式会社電通エグゼクティブ・クリエーティブ・ディレクターの国見昭仁さんや、ユナイテッド・ワールド・カレッジISAKジャパンの甚上直子さんと、そうそうたる方々に手弁当で集まっていただけたんです。

金銭的なリターンがない状態でも「やろうやろう!」と盛り上がっている光景は、起業家としてとても新鮮でしたし、今ではメンバーは30名ほどに増えていて、素人ながらそうしたことに助けられてプロジェクトが進められているのだなと日々感じています。

── 中にはもともとはお知り合いではなかったという方もいらっしゃるのでしょうか。

それこそ甚上さんはご紹介ですね。やっぱり神山という土地の力が大きいです。小さな里山ですけど、様々な業種の多様な人が出入りしているので、出会いが蓄積されていくんです。国見さんなんて、電通として神山町に取材にこられた際に一緒に朝食をとってから何となく仲良くしていた方ですしね。

── 取材中、起業家が新しい学校をつくろうとしてもなかなか難しいケースが多いというお話も出てきましたが、そうしたケースと寺田さんのケースとの違いとして、何か感じられていることはありますでしょうか。

僕の場合、神山町というまちと、そこに住む人との縁があって、そうしたローカルやコミュニティという力と結びついていることが一番大きな違いかなと感じていますね。むしろ、それに尽きると思います。

アジェンダの立て方として私立の高専を作るということ自体もユニークだったのかなと思いますが、人と違うユニークな角度を探すということは起業家ならば持っているセンスだと思うので、ローカルと結びついて進めることが何よりも重要なことだったのだろうと思っています。

── 最後に、「学びを変えるを仕事にしたい」と思っている方に、何かお伝えいただけることがあれば教えてください。

そうですね、もし「学びを変えるを仕事にしたい」と思っているならば、何でもいいので具体的な活動にフルコミットしてしまえばいいのかなと思います。少しだけ関わろうとすると僕自身もそうですが限界があって、一方でフルコミットしてしまえば自分自身が成長できるし、何よりそれは圧倒的な価値だと思うんです。

そして本当にフルコミットできる人は必ずしも多くないので、それさえできれば自ずと道は開けるのではないかなと思います。もし最終的に教育業界が合わずに辞めたとしても、その覚悟がある人は日本中どこに行っても求められるだろうと思いますよ。

 

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