2021年04月23日

農のあるまちづくり10~テレビマンが農業に転職したわけⅣ.

【農のあるまちづくり9~テレビマンが農業に転職したわけⅢ.無知の自覚がもたらす活力】
に続いて。

都市農業の本質を考える。

 

以下、転載(「東京農業クリエイターズ」2018著:小野淳)

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2021年04月16日

農のあるまちづくり9~テレビマンが農業に転職したわけⅢ.無知の自覚がもたらす活力

【農のあるまちづくり8~テレビマンが農業に転職したわけⅡ.農業の創造力】
に続いて。

無知の自覚は、大きな活力源になる。
農業の生産現場に飛込み、肌身に掴んだ苛烈さと魅力。

 

以下、転載(「東京農業クリエイターズ」2018著:小野淳)

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2021年04月15日

江戸時代の農業ジャーナリスト・大蔵永常に学ぶ「6次産業化」の真髄

この記事は、3年前の記事になります。
今日は、6次産業化論を提唱した今村奈良臣氏よりもはるか前の江戸時代の農学者:大蔵永常を紹介します。
彼は、江戸時代の米が第一価値の農産物にあって、百姓が自立し、強い農業をベースとした暮らしを成立させるためには、米以外の農産物を栽培し、その加工品も手掛けていく事が、強い国を創る礎となると説きました。
すなわち、まずは農家一戸一戸の自給があり、その上に地域や国の自給がある。
そのために、各家・各地域・各国の条件を見直し、適切な作物を栽培し、加工も手掛けていく。他国への出荷、販売を考えるのは、エネルギーを含む衣食住のベースを地域資源によってまかなったうえで行っていく事である。利益を第一に掲げては、強い暮らし~国は成立しないと・・・・
すなわち、自給がすべての根であり、結果国富と民富を共に高めると説きました。
今、まさに現代の農が直面する答えを大蔵永常は、説いたと言えるでしょう。
では・・・・【リンク

 

転載開始

TPP11、日欧EPAの合意署名が着々とすすめられ、その対応策として「強い農林水産業の構築」が喧伝されている。いまの為政者からすれば、TPP11も日欧EPAも国を富ますための必然の道であり、農林漁業と流通・加工などとの連携強化や輸出力増強による「強い農林水産業の構築」が農家の所得向上につながるといいたいのであろう。
果たしてそうだろうか?

国が富むとはどういうことか、民百姓(農家)に利をもたらすにはどうしたらいいか。そういったことについては、江戸時代の識者も考えをめぐらせていた。今回はそのひとり、『広益国産考』などの農書の著者である大蔵永常(おおくら ながつね)に着目し、国富と民富を共にもたらす道について考えてみたい。

 

◆「江戸期唯一の農業ジャーナリスト」として
大蔵永常といえば、『農業全書』を著わした宮崎安貞と並ぶ江戸時代の農学者であり、高校の日本史の教科書でも登場するほど著名な人物である。だがその生涯や作品の中身についてはそれほど知られていない。そこで、飯沼二郎氏の『広益国産考』解題(日本農書全集14、農文協所収)によって、かいつまんで紹介しておこう。

江戸時代の農書の主な作品は農文協の『日本農書全集』(全72巻)に収録されているが、そのほとんどは篤農家が生まれ故郷で農業を営みながら、そこで得た農業経営や農業技術についての見識を子孫に伝えようと書き残したものだ。数少ない例外が宮崎安貞と大蔵永常で、二人はともに畿内地方(いまの京都・奈良・大阪など)を中心に各地の農業を見聞し、それを詳細に記録した。ただ、この二人の間には大きな違いがある。宮崎安貞は故郷の福岡に帰って農業を実際に営みながら畿内での体験を検証し、『農業全書』というただ1冊の著書(没後の刊行)を残した。これに対して、大蔵永常は、20代で豊後(ぶんご)国(現大分県)日田(ひた)の地を離れてより、生まれ故郷に根を下ろすことなく、主に大坂と江戸を行き来しながら、各地で農業事情・農業技術についての見聞を広め、それを多くの著書を通して日本全国の農家に普及しようとした。飯沼氏はこうした理由から、永常を「江戸期唯一の農業ジャーナリスト」と呼ぶ。

永常は田原藩と浜松藩で「興産方」(いまでいう特産振興係)として微禄を食んだこともあったが、その数年ずつを除けば、生涯のほとんどを文筆で得た収入だけで家族を養っていた。原稿の売り込みや借金依頼の手紙も多数残っていることから、永常の「俗物性」を指摘する研究者も少なくない。しかし、本が売れなければ食っていけないからこそ、どうしたら農家に売れる本になるかを真剣に考えた。永常にとって売れる本とは「農家に利益をもたらすことを、わかりやすく伝える本」であった。

『日本農書全集』に収録された永常の農書には挿し絵がふんだんに使われている。それは単なる息抜きではない。たとえば『農具便利論』では、各地のありとあらゆる農具が寸法まで入った挿し絵によって詳細に紹介されている。永常の農書は本文の記述も非常に具体的だ。

書かれている中身こそ先進地域の農業の紹介だが、紹介に際して「必ず自分でやってみ、その体験にもとづいて、今までそれを全くやったことがない者でも、彼の本を読んだだけでやることができるように、あるいは、今までその農具を全く見たこともない者でも、彼の本を見ただけでそれを作ることができるように、実に懇切ていねいに執筆した」(飯沼二郎『広益国産考』解題)からだ。
実際、国内で棉栽培がすっかりすたれた現代、和棉を栽培、加工しようという人は永常の『綿圃要務』を教科書にしているとも聞く。

 

◆米第一ではなく、衣食住全般を支える多様な作物を奨励
永常のもうひとつの特徴は、江戸時代、年貢として重きを置かれていた米(稲作)にこだわることなく、さまざまな作物の栽培を奨励したことである。『広益国産考』で取り上げられている主な作物を拾ってみても、杉、檜、松、栗丸太、砂糖、いぐさ、いちび、紫草、ところ、わらび、からすうり、醤油、蝋、畔大豆、葛、綿、養蚕、こうぞ、みつまた、茶、肉桂、養蜂、梅、柿、葡萄、梨、蜜柑、海苔と、じつに多岐にわたる。

こうした、いわゆる工芸的な作物の栽培・加工法は永常のもっとも得意とするところであり、『広益国産考』以前にも、ロウソクの蝋をとる櫨(はぜ)について記した処女作『農家益』をはじめ、『綿圃要務』『甘藷大成』『琉藺百万』『油菜録』『製油録』など、さまざまな専門の本を著している。ちなみに『油菜録』『製油録』は江戸期において燃料として重要であったナタネの栽培法と油の搾り方を記した本である。『広益国産考』は幾多の農書の集大成なのだ。
永常が推奨する農業経営は、こうした多様な作物を適所・適期に配置することで土地と家族労働力を無駄なく生かしていくというものである。

たとえば「畔(あぜ)大豆(まめ)」の項にはこのような記述がある。
「ある国で、むらを治めている人に、わたしが『この地の不毛なところに果樹を植えてみませんか』といったら、その人は『わたしの配下の土地には、一尺だって不毛な土地はない』と答えた。その人の性質は前から聞いていたが、他国を見たことがない人物なので議論しても無駄だと思って、何もいわずに帰ってきたことがある。その土地は、果樹はもちろん、茶や柑橘類を育てれば最高の土地だと見定めていたのだが、どうしようもなかった。……(荒地に果樹を植えない人、畔に大豆を植えない人は)天の賜物を受け取らず見過ごしにしているようなものである。田の畔大豆を作って、他に売ることはさておいても、自家用の味噌豆や馬の飼料にするべきである」(『広益国産考』日本農書全集14、農文協)

『広益国産考』で取り上げられている作物を一言でいえば、「特用作物」とか「換金作物」ということになろう。たしかに永常には副業によって、農家に現金収入をもたらそうという発想がある。しかし、これらの作物は江戸時代にあって食料のみならず、衣料、燃料、住生活までをまかなう重要な作物であった。米が主であり、それ以外は従という見方は支配者の見方なのである。永常の農業経営のベースには衣・食・住、エネルギー全般にわたる農家の自給があり、それを満たしたうえで余ったものを販売することで、利を得ていこうという発想があった。それらが総体として農家に利益(「農家益」)をもたらすのである。

 

◆大蔵永常と「ウメ・クリ植えてハワイに行こう!」をつなぐもの
こうした大蔵永常の精神はけっして歴史の教科書の上だけの話ではなく、時代を超えて、現代の日田の農業にも引き継がれている。それを明らかにしたのが、三好信浩氏(広島大学名誉教授)の近刊『現代に生きる大蔵永常』(農文協)である。三好氏は日田市の出身。産業教育史が専門で多くの著書があるが、郷里の偉人、大蔵永常について研究を重ね、その現代的継承に焦点を当てた本書をまとめた。そこで注目したのが、大蔵永常と矢幡治美氏との共通点である。矢幡治美氏とは大分県大山村長(のち町長)、大山村農協(現・大分大山町農協)組合長として、大山の農業革命を牽引した人物である。

矢幡治美氏が大山村農協組合長になった1954年(昭和29年)当時、大山(現・日田市大山町)は農家戸数約800戸、3650haもの広大な山林原野を抱えるものの、そのほとんどが不在地主の持ち山であり、耕地面積は380ha、平均耕作面積45aにすぎなかった。そこでは自給的な稲作、麦作が営まれ、わずかに大麻や葉タバコが現金収入を支えていた。そこに換金作物としてウメ、クリの栽培を導入したのが矢幡組合長であった。
大山の農業革命といえば、「ウメ・クリ植えてハワイに行こう!」というスローガンが有名である。しかし、それは大山の農業革命(NPC運動)の一面をとらえているにすぎないと三好氏は言う。

「江戸後期、大蔵永常が『広益国産考』の中で、郷里の日田郡から産出される換金作物を27種挙げて、その収量を2万7千余量と算定した(中略)。治美もまたウメとクリから始めてみたものの、それだけで増収にはならぬことを百も承知していた。ウメとクリには競争相手も多く、市場価格が変動することもわかっていた。そのため、彼が提唱したのが『ムカデ農業』である。少量生産、多品目栽培によって農家の余暇時間を有効利用することがねらいであった。特に重視したのは、順に、スモモ、ブドウ、ギンナン、ユズで、合わせて6種果樹にした。軽労働で労働のピーク時を重ね合わせない『旬給農業』と称した。加えて、『樹下栽培』と称して、クレソン、ニラ、アスパラガス、ミョウガ、セリ、サンショウなど、日々いくらなりとも収益になるものを奨励した。それらの産品は、『瞳は未来へ』と大書した農協のトラックで、福岡や大分の市場に出荷した」(『現代に生きる大蔵永常』)

三好氏は、大蔵永常と矢幡治美氏はともに「同じ天領日田に生まれ、山村住民の貧しい暮らしを知悉していたこと、そこから抜け出せるために何か良策はないかと思索したこと、そのために全国各地を視察したこと」、そして最大の共通点として、「農業の世界に経済的合理精神を入れ込み、民富の向上を目標にしたこと」を挙げている。そのための手法も共通しており、米中心の農業からの脱却、換金作物の奨励、農産物を加工して付加価値をつけることの三つを推奨したのである。

 

◆6次産業化論の着想は大山の直売所から生まれた
この手法の3点目はさらなる展開を生む。大山の農業革命といえば、当時の平松守彦大分県知事の「一村一品運動」のヒントとなったことで有名だが、じつは農業の6次産業化論の発想の元も大山にあったのだ。
6次産業化論を提唱した今村奈良臣氏(東大名誉教授)は、三好氏の著書の推薦文のなかで、こう書く。
「1992年の夏、旗揚げして間もない大山町農協の農産物直売所『木(こ)の花ガルテン』に多彩な農産物や加工品を運び込んでくる農民、そこへ買いに来る主婦をはじめとするお客さんの行動を、約1週間にわたって農家に泊めてもらいつぶさに調査している中から『農業の6次産業化』という理論が私の頭の中でじわりと生まれてきたのである。……木の花ガルテンの活動の中から多彩な農林畜産物の生産(第1次)、それらの多彩な加工(第2次)、そして木の花ガルテンでの販売(第3次)という活動の調査を通して農業6次産業化論の理論は生まれたのである」

今村氏の6次産業化論は、大山で着想を得た当時は「第1次産業+第2次産業+第3次産業=第6次産業」という足し算で定義されたが、3年後に1×2×3=6の掛け算に変わった。その理由は「農業が無くなれば、0×2×3=0と6次産業化路線は無に帰するという警告と合わせて、より多くの付加価値を多彩な加工ならびに販売を通して生みだそう」と考えたからであった。

 

◆「6次産業化」は農業の復権運動
いま政府はTPP11や日欧EPAをテコに、産業間・企業間連携を促進し、海外市場を開拓しながら、地域の生産性を高め、地域経済の活性化につなげていくという。たとえば「総合的なTPP等関連政策大綱」(2017年11月24日、TPP等総合対策本部決定)には、「TPP等を通じた地域経済の活性化の促進」の中に、「地域リソース(産業資源)の結集・ブランド化」を掲げ、「6次産業化の推進等により、地域の産品、技術、企業等を連携、地理的表示(GI)等も活用しつつ、新事業を創出し、海外展開の拡大を促す」とある。そして「強い農林水産業の構築」の目標として掲げるのは、「2019年の農林水産物・食品の輸出額1兆円」である。これは農林水産業の強化策ではなく、むしろ食品産業の強化策ではないだろうか。
そもそも農業の6次産業化論が目指したものは何だったろうか。今村氏は2001年にこう書いている。

「いま、日本国民が外食なども含めすべての食料品の購入に支出している1年間の金額は、じつに80兆4000億円である。しかし、農業(水産業も含む)の受け取り分(シェア)は年々低下し、いまではわずか16%になってしまった。……16兆2000億円(うち国内生産13兆円、輸入3兆2000億円)の農水産物が食品製造業、卸売・小売産業などの食品流通業、外食産業を経る過程で、加工・調理されたり、他の資材が投入されることにより、次々と付加価値を高め、最終消費部としては80兆4000億円に達しているのである。このうちの国内生産分の13兆円(水産物も含む)は80兆4000億円に対してわずかに16%にしかならない。このことをさらにわかりやすく表現すれば、消費者が外食も含めて100円の食料品を買ったときの農業(水産業を含む)の取り分はわずか16円ということである」(今村奈良臣「農業6次産業化の意味と食品加工・販売の基本戦略」『食品加工総覧』共通編第1巻、農文協)

農業が食料品の原料供給者の立場に甘んじるのではなく、第2次産業(食品加工など)から第3次産業(販売、外食、情報、観光など)まで含む農業の6次産業化を図り、「地域農業の総合産業化」を通して地域の活力を呼び戻す――農業の6次産業化とは、農家・農業の復権運動であった。それこそが「強い農業」といえるのではないか。

大蔵永常の『広益国産考』の「国」とは藩を意味していた。永常の特産奨励は、藩における生産と暮らしを豊かにしていくことをめざしたものであり、他国(藩)に特産物を売って儲けることを一番先には置いていない。
「まず、その国で生産しないために他の諸国から購入している出費を防ぐことを考え、さらに、適当なものがあれば作って他国に出荷し利益とすることを考えるべきである。米穀の次になくてはならないものは、第一に蝋、油、畳表、醤油などである」(『広益国産考』日本農書全集14)。このすぐあとには、「醤油を自家醸造するより買ったほうが得だという農家がいたが、私は熟考のうえ、家で造って使うほうが得だという結論に達した」とも書いている。
まずは農家一戸一戸の自給があり、その上に地域や国の自給がある。そのために、各家・各地域・各国の条件を見直し、適切な作物を栽培し、加工も手掛けていく。他国への出荷、販売を考えるのは、エネルギーを含む衣食住のベースを地域資源によってまかなったうえでのことである。

大蔵永常が示した国富と民富を共に高める道=「広益国産」の基本思想はこのような重層的な自給のすすめなのであった。 (農文協論説委員会)

以上転載終了

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2021年04月08日

農のあるまちづくり8~テレビマンが農業に転職したわけⅡ.農業の創造力

【農のあるまちづくり7~テレビマンが農業に転職したわけⅠ】
に続いて。

テレビマンとしての経験が、農業に「本当の”クリエイティブ”とは何か」を見出させる。

 

以下、転載(「東京農業クリエイターズ」2018著:小野淳)

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2021年04月06日

スーパーに突如現れた小さな「畑」 アジア初上陸のInfarmとは

都会のスーパーの店内に突然現れた小さな「畑」。これまでの農の常識を覆す究極の地産地消。一体これは何事だ?生産と販売が一体化された自給自足の手法。まずは、紹介記事をご覧ください。【リンク

最終更新日2021年3月23日

転載開始

最近、毎日の買い物でも見かけるようになったLEDと水耕栽培で育てた野菜。無農薬であることや、エグみの少なさ、洗わずに食べられるといった特長があり、支持する人も増えてきました。段々と定着しつつある農業のカタチ。そこに、人々の食生活を更に変えようとドイツ・ベルリン発のスタートアップ企業、Infarm(インファーム)がアジアに初上陸しました。

 

◆「とれたての野菜が買える」を都心のスーパーで実現

「スーパーマーケットの店内でとれた野菜を買うことができたら、超新鮮な状態で食べることができるな……」

少しシナシナした野菜を食べているとき、こんなことを考えたことがあります。できるだけ新鮮でおいしい野菜を食べたいというのは多くの人の願いですよね。そんな願いがとうとう2021年に東京で実現しました! 現在、紀ノ国屋インターナショナル(青山店)、Daily Table KINOKUNIYA(デイリーテーブルきのくにや)西荻窪駅店、サミットストア五反野店で、店内で栽培された新鮮野菜を収穫したその日に購入することができます。

なぜ、このようなことが可能になったのか。その理由は、Infarm – Indoor Urban Farming Japan 株式会社(以下、インファーム・ジャパン)のスマート栽培ユニットにあります。

このスマート栽培ユニットは、LED、水耕栽培、空間を縦に利用する垂直農法によって室内で野菜を育てることを可能にしています。作物ごとの育成状況に合わせて気温や湿度、照明などの環境を調整して、1つのユニットで(最小サイズ・約2平方メートルの場合)およそ畑150~250平方メートルの収穫量に値する野菜をとることができます。土壌ベースの農業よりも約99.5%少ない面積、約95%少ない水量での栽培が可能です。

この例に限らず、最近は水耕栽培で育てた野菜もスーパーでよく見かけるようになりました。では、インファームの取り組みのどこが新しいのでしょうか。インファーム・ジャパン代表取締役社長の平石郁生(ひらいし・いくお)さんにうかがいました。

 

◆究極の地産地消を求め、たどりついたのは

インファーム(Infarm – Indoor Urban Farming GmbH)はドイツの首都であるベルリン発のスタートアップ企業です。オスナット・ミカエリ氏、エレズ・ガロンスカ氏、ガイ・ガロンスカ氏の3人によって起業されました。

インファームが2013年に創業したきっかけは、イタリアのシチリア島から都会に移り住むことになったエレズ氏が、「どうすれば都会でも新鮮でおいしい、できれば農薬を使っていない野菜を食べられるのか」と考えたこと。また、生産してから消費者のもとに届くまでに約3割の農作物が廃棄ロスとなり、廃棄される農産物にもエネルギーが消費され、多くの二酸化炭素が排出される現実に問題意識を持ち、解決方法を探りました。世界の人口の約半分は国連が定義する都会とされる場所に住んでいることを踏まえ、行き着いた答えは「究極の地産地消は、都会で作り都会で消費すること」。

しかし残念ながら都会には十分な畑地がありません。そこで、人々はどこで野菜を購入しているのかを考えました。ほとんどの場合は、スーパー。それならスーパーで栽培、収穫、販売するのがベストと思いついたのがきっかけでした。この、スーパーの店内で栽培から販売までを行う点が、これまでとは違った取り組みといえます。

「水耕栽培を行っているプレイヤーは世界に多く存在しています。日本を例にとると、最大の消費地は首都圏、関西圏になります。ほとんどの場合、LED水耕栽培の生産施設は田舎の安い土地に建てられ、1つか2つの品種を栽培し、都会にトラックで輸送される。たしかに投資や運営の観点から考えると、単一の品目のみを栽培する方が効率は良いんです。これだと農薬を使わない野菜を生産することは可能になりますが、ガソリンを使って運ばれることには変わりのない状態。インファームの理念や目的は達成できません。やはり都市で生産し、都市で消費する点は他とは異なると思います」(平石さん)

安全で質の良い野菜を都市で自給し、環境負荷を低減する。これらを目指すインファームのスマート栽培ユニットは、輸送距離の約90%カットを実現しました。

 

◆アジア進出を可能にするまでの道のり

インファームのスマート栽培ユニットを日本に導入するまでには苦労もありました。アジア初展開のため、インパクトもありお客さんにも支持されそうだとは思いつつも、どれだけ売れるのかは予想がつきません。

平石さんは、首都圏にあるほとんどのスーパーとコンタクトをとりましたが、一番に手を挙げることへの抵抗感や条件が合わないなどの理由から、最初の一社に名乗りを上げるところはなかなか現れなかったと言います。

なにより販売する商品は野菜のため、まず食べてみないことには判断できないことも要因のひとつ。「スマート栽培ユニットを試しに持ってこられませんか」とよく聞かれたと言います。しかしその場合、お店にスマート栽培ユニットを設置するだけではなく、栽培する野菜をあらかじめインファームの施設で種から苗まで育てておくという工程もあり、投資が必要になることからお試しができません。 

「このような背景もあって苦労はしましたが、根気よく探し続けた結果、紀ノ国屋が最初の導入者になると言ってくれました」(平石さん)平石さんによると、紀ノ国屋のメンバーは、すでにインファームの栽培ユニットを導入しているロンドンのスーパー「マークスアンドスペンサー」やドイツの「エディカ」、パリにある業務用スーパー「メトロ」など、ヨーロッパまで出張して見学に訪れ、契約に至ったと言います。

 

◆果たして日本に導入した結果は、今後の展開は

2021年1月19日より順次、インファームのスマート栽培ユニットを使用した販売が始まりました。収穫は現在、各店舗で1週間に2回行われており、1回の収穫ごとに約60~80個の野菜をとることができます。 Daily Table KINOKUNIYA 西荻窪駅店では販売がスタートしてから毎回完売しており、お客さんから「これは何?」「いつ買えるの?」と質問されることも多々あるそうです。

野菜は根っこが付いたまま販売しているため、コップに2センチ位の水を入れて浸しておくと平均4、5日は新鮮さを保てます。1回に使いきれない野菜などは、使い勝手が良いですね。

最後に平石さんに今後の展望をうかがいました。「まずは、首都圏の皆さんにインファームについて認知していただき、食べてほしいですね。それから関西圏、札幌、仙台、名古屋、福岡、広島など、都市にどんどん進出したいと考えています。現在はスーパーのみで展開していますが、今後は飲食店業界ともタッグを組み、事業拡大していきたいと考えています。そのために、我々の生産能力も拡大していけるようにします」

以上転載終了

 

◆まとめ

この記事は先月のもので、読んで非常に戸惑いましたが、都会の自宅のベランダで栽培しているハーブ類などをもっと野菜類にバージョンアップし、これをスーパーという消費基地と野菜工場を合体し、量産化したという事になるのでしょうか?

しかしながら、この栽培と販売を一体化して商売になるというところまで実現化したというのは非常に画期的。

野菜の品質確保や採算がとれるのか?という疑問がいくつか出てきますが、発想自体は、極めて斬新で、これまでの「農」の常識を覆す革命的な手法であることは間違いありません。

今後の状況に注視していきたいです。では次回もお楽しみに!

 

 

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2021年04月01日

農のあるまちづくり7~テレビマンが農業に転職したわけⅠ

【農のあるまちづくり1~プロローグ】
に続いて。

テレビ番組制作の世界から、農業の世界へ。
彼を衝き動かしたものは。

 

以下、転載(「東京農業クリエイターズ」2018著:小野淳)

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2021年04月01日

「集落ネットワーク」の力で「小さな拠点」をつくる

農業の六次産業化という方向性が出され、今や農業を中心としたさまざまな可能性が、生まれてきている。

この記事は、2019年12月の特集記事であるが、今まさに、ひとつの村の中で、日々の生活に欠かせなかった店舗、郵便局までもが撤退する状況にあって、自ら生き残りをかけて実行に移したのだ。「小さな拠点」。今回は、その姿に迫ります。

では・・・・【リンク

転載開始

◆結節点があるからこそ小さな集落が守れる

JAの店舗やガソリンスタンド、郵便局が撤退する。むらで唯一の小売店がなくなる。小学校が閉校になる。子育て世代の若い人たちが住みにくくなって、役所のある中心集落や近隣の都市に住むようになり、人口減にますます拍車がかかっていく……。

いま、中山間の多くの地域が、同じような道をたどって、生活を支える施設や機関を失い、人口を急激に減らしている。

そこで起こる問題は人口減だけではない。昨今、台風や地震など自然災害が相次ぐなかで、山間部にある集落への道路が土砂崩れによって分断されて孤立したり、停電が続いて大変な不便を強いられたりするといった深刻な事態が全国各地で起きている。

行政や電力会社の支援は人口の少ない山間集落ほど後手に回りがちである。行政などの支援が届くまでの数日から数週間をどうやってしのぐか。中山間地域に住む人びとにとっては、文字通り死活問題になりつつある。

地域を担う人がますます少なくなるなかで、このピンチを乗りこえ、生活を維持する施設や地域活動の場を再構築するにはどうすればいいのだろうか。

かつて30~50軒ほどの家がまとまっていたころの集落なら、飲み水や用水の維持など、集落内で生活を支えるさまざまな活動をこなしていたはずだ。いまは、一つの集落だけで地域活動を展開するのは困難になっている。もう少し広い、統廃合する前の小学校区とか公民館区、言い換えれば自治協議会くらいの範囲で集落がネットワークをつくり、力を合わせて、定住の最後の砦ともいえる拠点に人材と活動を集約していくことが求められているのである。

それが「集落ネットワーク圏」であり、それをベースとした「小さな拠点」づくりである。

 

◆唯一の店が撤退 その時、どうする?

「小さな拠点」づくりはどのようにして進められているのだろうか。本誌の姉妹誌『季刊地域』2019年秋号は「小さな拠点の大きな可能性」を特集している。その記事から、実例を見てみよう。

秋田県羽後町仙道地区は348世帯、人口949人。中山間に点在する20集落からなる地区である。

この地区で「小さな拠点」づくりが動き出したきっかけは、20年ほど前の2002年、JAの支店統廃合で仙道支所購買店舗が撤退した時にさかのぼる。地元で唯一の日用品店がなくなることに危機感をもった地元有志が「店舗運営委員会」を結成、JAから店と在庫を引き継ぐことになった。地域住民から一口1万円の出資を募り、集まった131万円を元手に「仙道てんぽ」の運営がはじまった。

当初、店の経営は順調だったが、次第に設備が老朽化し、そこに小学校の統廃合決定による人口減が追い打ちをかけて、売り上げが年々減少していく。地域運営組織である「仙道地区振興会」を中心にどうしたら店舗が存続できるか協議を重ねた結果、小学校閉校の翌年2015年、秋田県の「お互いさまスーパー創生事業」に申請、「仙道てんぽ」は直売所機能や交流スペース機能を加えてリニューアルすることになる。

さらに2018年には総務省の「過疎地域等集落ネットワーク圏形成支援事業」によって、店舗の倉庫や調理室を改装し、交流サロンスペースや農産加工室を開設した。

「お互いさまスーパー仙道てんぽ」の年間売り上げは現在2000万円ほど。冬になると店の駐車場には除雪機が配備される。有償で地区の雪下ろし作業を請け負う「雪下ろし隊」が有志8人によって組織され、住民アンケートで一番の困りごとに挙げられた「雪下ろし」の解決に乗り出している。

 

◆地域の強みと弱みを「見える化」する

「小さな拠点」づくりとは、このように「小学校区など複数の集落が集まった基礎的生活圏のなかで、分散しているさまざまな生活サービスや地域活動の場などを『合わせ技』でつなぎ、人やモノ、サービスの循環を図ることで、生活を支える地域運営の仕組みをつくろうとする取り組み」(一般社団法人 持続可能な地域社会総合研究所所長・藤山浩さん)のことである。

藤山さんは「過疎対策のバイブル」と呼ばれたベストセラー『田園回帰1%戦略』の著者であり、このたび、この本をさらに具体的かつわかりやすく図解した三部作の完結編として『「小さな拠点」をつくる』をまとめた(12月刊。三部作はほかに『「地域人口ビジョン」をつくる』『「循環型経済」をつくる』)。この本には住民自身が主体となって「小さな拠点」をつくる方法が、全国各地の事例とともに示されている。

それによれば、「小さな拠点」づくり第一のポイントは、地域の強み・弱みを「見える化」することである。

藤山さんが「天気図」と呼ぶ手法では、まず、地域の暮らしを支える産業やそのための組織、施設、活動を書いたパーツをあらかじめ用意し、模造紙の上に並べていく。地域の課題が子育て世代のIターン・Uターンなど定住促進にあるとしたら、これにプラスになることに「高気圧」の、マイナスとなることに「低気圧」のマークを貼り付ける。たとえば、地域内に自然環境を生かした子育て支援施設があれば「高気圧」、雇用の場や住居が少なければ「低気圧」だ。農業生産が地域の農産加工グループの活動とうまくつながっていなければその間に「寒冷前線」を置く。

このようにして、地域にある施設・活動と交互のつながりの現状を「見える化」することで、どこに拠点をおいて、どの施設・活動をつないだらよいかが見えてくる(天気図の手法についてはシリーズ前作『「地域人口ビジョン」をつくる』に詳しい)。

ついで「小さな拠点」のプランの具体化にむけ、地域の人たちの構想をモデル化していく。藤山さんが開発したのはレゴブロックを使った手法だ。デンマークのレゴ社が開発したこのブロックは子供のおもちゃとして大人気だが、建物だけでなく、公園やさまざまな交通車両のパーツもそろっているので、地域のイメージづくりに役立つ。

ワークショップではグループに分かれて、ドローンで撮影した地区の航空写真を下敷きにし、その上に「小さな拠点」を定め、必要な施設を配置し、活動の様子もレゴで表現していく。それができたら、グループごとに「小さな拠点」がひらく地域の未来像を発表しあう。

「小さな拠点」は思いつきでできるわけではない。それまで地域で地道に積み上げてきたことを改めて掘り起こし、地域の弱みも冷静に見据える。そして、そこに何をプラスしたら弱みを克服して活動が活気づくか、地域住民自身が共通したイメージをふくらませるのである。

 

◆「小さな拠点」づくりにどこから手をつける

「小さな拠点」や「集落ネットワーク圏」づくりは国の地方創生の重要施策の一つとして位置づけられ、国土交通省や総務省などによる事業が展開されてきた。内閣府地方創成推進事務局の調査によれば、すでに全国496市町村で1723カ所の「小さな拠点」が形成されているという。もっとも、「小さな拠点」づくりは国に言われたからやることではなく、地域の衰退に危機感を持った住民自身によって各地で行なわれてきたことなのだ。

『季刊地域』のバックナンバーからいくつか紹介してみよう。

三重県松阪市柚原(ゆのはら)町地区(人口80人)では2000年代に入ってJA店舗や郵便局が相次いで撤退。そこで2007年に柚原自治会でJA支所を買い取り、日用品を扱う「みんなの店」と簡易郵便局を開設した。自治会を認可地縁団体とすることで、建物の登録や郵便事業の受託が可能となった。日用品店のほうは毎年30万円ほどの赤字だが、郵便局の委託手数料が毎年約200万円入るので、店を存続することが可能となった(2015年春号、2017年春号)。

岩手県北上市の口内(くちない)町自治協議会では、路線バスが廃止されるなかで「むらの足」を確保しようと、自家用有償旅客運送事業に取り組んだ。2009年に「NPO法人くちない」を設立、JA店舗あとに事務所兼共同店「店っこくちない」を開設し、自家用車10台とリース車1台で地区内の利用者を送迎している。店の売り上げのほか、スクールバスの運営や多面的機能支払の事務局の受託、高齢世帯の草刈りや除雪など、むらの困りごとを有償で請け負うことで収支はとんとんでやれているという(2016年秋号、2017年春号)。

この二つの例からもわかるように、「小さな拠点」では利潤を生み出す必要はなく、雇用を生み出しつつ、収支はとんとんでよい。たとえ、ある事業が赤字になっても、全体で収支を合わせればよいのである。

これが藤山さんのいう「合わせ技」であり、「小さな拠点」づくりの第二のポイントである。もともと、店舗や施設がむらから撤退していくのは、一つひとつバラバラでは人件費や受益者数がネックになって採算がとれないからだ。こうした施設やサービスを「小さな拠点」をつくることで合わせ、つないでいく。一つひとつの施設やサービスをとれば利用人数とコストの関係で割に合わなくても、いくつかの事業を束ねることで、採算がとれるようになる。「合わせ技」でむらの困りごとを束ねて解決しつつ、むらに雇用の場を生み出し、あわよくば自前の資金(地域活動費)を捻出していく。

 

◆エネルギーをまかなう力をつける

その延長で、地域の資源を活用して、エネルギーや輸送を自前でまかなう「小さな拠点」も生まれてきた。

たとえば、兵庫県朝来(あさご)市の与布土(よふど)地域自治協議会では、地区内にある温泉施設の指定管理や農家レストランの運営などで資金を捻出し、廃校となった地元の小学校の屋上に出力44kWの太陽光パネルを設置した。この小さな「発電所」は災害時の非常用電源になり、旧校舎は防災拠点の役割も担う。そして、年間150万円ほどの売電収入を生み出しており、協議会はそれを資金として遊休農地の解消や伝統行事の継承、高齢者の見守りなど、さまざまな地域活動をサポートしている(2019年冬号)。

考えてみれば、かつて多くの中山間地域の集落は、山の沢水を引き込む自家水道や、米や麦の粉を挽く水車などの動力源を持ち、各家々に木炭や薪などの燃料を蓄えていた。その頃であれば、むらはたとえ非常時に孤立したとしてびくともしない底力をもっていた。1960年頃から始まったエネルギー革命を経て、化石燃料や電力への依存が深まり、中山間集落ですら非常時への対応力を失ってきたというのが今日の姿なのである。

そうしたなかで、ソーラーパネルや小型水力発電機、バイオガスシステム、蓄電池のような現代技術も活かしながら、いくつかの集落がネットワークを組んでエネルギーや食料を自給する力を再構築する動きも生まれている。

 

◆「小さな拠点」が雇用を生み出す

非常時にライフラインを維持する対応力をつけることは、平時において地域に人々が定住し続ける仕事を生み出すことにもつながる。「小さな拠点」づくりによって新たに生み出される仕事は、たとえ一人月数万円程度の収入であっても、生活を支える助けとなるだろう。

たとえば、広島県三次(みよし)市川西地区(人口995人)の「小さな拠点」である「川西郷の駅 いつわの里」は地区に五つある町の代表11人を取締役とする株式会社組織で運営されており、社員は常勤の3人を含め31人。コンビニ(ファミリーマート+Aコープの一体型店舗)16人、加工所6人、食事施設6人である。コンビニでは子育て中の若い女性、加工所と食事施設では中高年女性が活躍している。「郷の駅」建設に先立って実施された住民アンケート(回答者706人)では「郷の駅で仕事をしてみたい」と答えた人が166人もおり、その仕事内容も販売、調理、送迎・配送など多岐にわたっていたという。さらに「郷の駅でボランティアをしたい(掃除、除草、イベントの企画・運営など)」と答えた人も92人にのぼっていた。「郷の駅」は地域で働きたいという住民の願いを実現する場となっている(2019年冬~秋号)。

先ごろ、安心な老後生活を送るためには年金のほかに2000万円程度の金融資産が必要だとした金融庁の審議会の試算が物議を醸したが、それはあくまで都会に住む無職の高齢夫婦のケースである。農山村に住み、畑で野菜を自給しつつ暮らすのであれば、年金プラス月数万円の収入であっても豊かなライフスタイルが展望できる。

その「小さな仕事」づくりは、田舎暮らしを求める子育て世代や定年退職後の家族をUターン、Iターンによって呼び寄せるための拠りどころにもなるであろう。

 

◆結節点があるからこそ小さな集落が守れる

こうした「小さな拠点」づくりは、あくまで国土の隅々まで広がる小さな集落をネットワーク化することで維持・活性化するための結節点づくりなのであって、行政の効率化のために周辺集落をたたんで中心集落にまとめる、いわゆる「コンパクトシティ」の手段であってはならない。

藤山さんは「小さな拠点」づくりを、細胞におけるミトコンドリアの働きにたとえて、次のように解説している。

「人間も動植物もその基本単位は細胞です。すべての細胞は、情報センターとしての核やエネルギーセンターであるミトコンドリアを有する自律的な循環圏となっています。細胞の中には血管も神経も通っておらず、栄養素なども異なる原理・機能・方式によって最小コストで内部循環しているのです。私たちの身体は、最初は一つの受精卵細胞を次々とつなぎ合わせ、全体としても極めて効率のよい循環システムをつくっています。やはり、まず一番基礎となる循環ユニットを形成し、それを重層的に組み合わせていくことが持続可能な循環系構築のポイントなのです。機能などは異なっていても基本構造が共通のユニットを土台にすることで、初めて相互の連携が体系的に設計できます。

数十億年の進化の歴史で選び取られたシステムは、われわれ人間社会よりも数段精巧にできています。私たちの地域社会もそろそろ『細胞』並みに進化すべき時ではないでしょうか」(『「小さな拠点」をつくる』より)。

そしてこの「ミトコンドリア」を地域につくり出すにはなんといっても、「束ねる人」や核となる組織の存在が欠かせない。

「束ねる人」は専業的な農家、安定した兼業農家でもいいし、農業法人が核となって営農だけでなく生活支援の事業を担ってもよいだろう。また、地域にはJAや役場の職員、県職員のOB、商工会や銀行の退職者など、事業計画の作成や財務・経理に長けた人材も探せばいるはずである。「小さな拠点」はそのような人や組織の力を総結集する場でもある。(農文協論説委員会)

以上転載終了

 

◆まとめ

彼らは、「集落のネットワーク」の力で、農が中心となって、これまでのやり方を変えた。

成功に至った農村に共通することは、行政主導で行われたやり方ではなく、日常の生活が滞ることを改善するにはどうしたら良いのか?を地域全体で考え、運営やルールを決めて実行に移すというもの=「小さな拠点」。

更に、一般社団法人 持続可能な地域社会総合研究所所長・藤山さん曰く

「私たちの身体は、最初は一つの受精卵細胞を次々とつなぎ合わせ、全体としても極めて効率のよい循環システムをつくっている。まず一番基礎となる循環ユニットを形成し、それを重層的に組み合わせていくことが持続可能な循環系構築のポイントである。」と・・・・

まさに、自然の摂理や体系の中で、村が存続していくためのシステムもルールもその摂理の中で営まれており、その核が「小さな拠点」。更にその中で自らは存続でき、更に事業化もできていけば、村は活性化していくと。

農の進化適応態。これこそ農業の六次産業化の核ではないか? では、次回もお楽しみに!

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2021年03月25日

農のあるまちづくり6~都市に農地はあるべき、と言い切った

新たに創られた法的基盤を、私たちはどう活かしていくか。

 

以下、転載(「東京農業クリエイターズ」2018著:小野淳)

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2021年03月18日

農のあるまちづくり5~日本の都市部で増える「農ある暮らし」の需要

世界の大都市で広がる「都市の農空間」づくり。

日本はどうか。まず、現状を整理してみる。

 

以下、転載(「東京農業クリエイターズ」2018著:小野淳)

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2021年03月16日

江戸期に学び、村の協同を再興する

今回の記事は2018年1月の農文協の主張記事である。新年を迎え、「現代の日本の農業の問題は、実は、今に始まったことではなく、江戸時代にも特に後継者難という状況は存在していた。」というところから始まる。

その状況を突破するために先人たちは、様々な仕組みを考え、村の共同を再興することを第一義とし、持続可能な「伝え継ぐ」取り組みを行ってきたと・・・・

さて、現代に目を向けると、長野県・田切農産では、その江戸時代の共同の仕組みを時代に合わせながら、自分たちの地域や農業を自ら守ろうとする協同の心・共に助け合う精神を復活させた。

これをさらにさかのぼれば、「むらと家を守った江戸時代の人々」がいる。「自己改革」の土台・源泉として、協同の心を伝え継ぐ農家、組合員とともに進める「自己発見」がいま、実現可能な形となったのである。

では・・・・リンク

転載開始

新年・2018年を迎える。『伝え継ぐ 日本の家庭料理』(農文協刊)の発行を開始したからというわけではないが、新しい年を「伝え継ぐ」年にしたいと思う。

総選挙で圧倒的な議席を確保した安倍政権は、日欧EPA(経済連携協定)の「大筋合意」に続き、アメリカを除く「TPP11」、日米FTAなどの通商交渉を、交渉中を理由にその内容や影響を公開することなく、強力に推進するだろう。

ここにあるのはグローバル化する大企業むけ「成長戦略」のみ。2014年の国連「国際家族農業年」や2016年のユネスコによる「協同組合」の無形文化遺産登録など、グローバル資本から地域、民衆の暮らしを守ろうとする国際的潮流を徹底的に無視するこの国の政府には「伝え継ぐ」べき歴史も文化もない。

2018年はJAの「自己改革」真っ只中の年でもある。政府・財界は、ここでも協同組合の歴史や文化を無視し、「JA解体」にむけた圧力を強めるであろう。

新しい年を迎えるにあたり、「伝え継ぐ」ことを考えてみたい。

 

◆後継者難に立ち向かった江戸期のむら

農家や地域、JAが伝え継ぎたいことを考えるうえで、大変示唆に富む本が出版された。農文協の新刊、『むらと家を守った江戸時代の人々―人口減少地域の養子制度と百姓株式』。著者は農業史の若手研究者・戸石七生さん(東京大学講師)。

戸石さんは「まえがき」でこう記している。

「北海道と沖縄を除いた地域で現存する集落のうち、95%が明治以前にすでに現存していた。(中略)寿命100年以上を超える『老舗』村が七万以上ひしめきあっていたのが明治維新直前の日本であった。(中略)いかにしてこのように長い間むらが持続したか」

本書によると、日本の農村が人口減少、担い手不足という危機に直面したのは現代が初めてではない。特に江戸時代の後半、日本の人口の伸びは停滞。戸石さんが実証研究の対象とした関東の農村のように、人口減少、後継者難に悩んだ地域は少なくなかった。しかし江戸の人々はこうした後継者難にただ耐えていたのではない。家と地域が一体となって立ち向かい、農家、農村の存続を目指したのが江戸時代のむらの姿だった。そこでは、有形・無形の経営資源を家族以外の者に受け渡す「第三者継承」が養子縁組というかたちで盛んに行なわれた。江戸時代の養子縁組は家だけでなく、むらにとっても死活問題だったのである。

本書では、相模国横野村(現在の神奈川県秦野市大字横野)に残るさまざまな史料などを駆使しながら、村や村うちの五人組が、「潰れ百姓」と呼ばれる生産能力を欠いた農家の出現を防ぎ、あるいは再興させるためにさまざまな取り組みを行なっていたことをリアルに描いている。

この時期の村や農家の経営基盤は、現代以上に弱く深刻で、「潰れ百姓」がさまざまなかたちで生まれた。本書ではこれを次の4種類に分類している。

①.人口の自然減によるもの:乳児死亡率の高さや、働き盛りの担い手の突然の死によって農家経営が傾く

②.人口の社会減によるもの:引越し・失踪(欠落)、都市への出稼ぎ、村内外への奉公

③.経営能力に問題があるもの

④.生産年齢人口が著しく小さいもの

 

この「潰れ百姓」の出現は年貢の納入に困難をもたらし、特に村うちの小集団、五人組にとっては、共倒れの要因となるため、切実な問題であった。そこで村は構成員の少ない農家に対して村落運営費を免除し、村も五人組もさまざまな手立てを尽くした。

①の担い手の突然の死では養子縁組などで家を守り、②の失踪や出稼ぎなどでは、いつでも村に戻れるように環境を整えておくのも村や五人組の役目であった。

 

◆むらの共済機能が働いた江戸期は「農協国家」

こうして村はさまざまな形で共済機能を発揮した。屋敷・耕地の所有と山・里山などの利用権、むらの寄り合いなどに参加するコモンズ権を保証した百姓株式(むらにおける営農権)の所持主体は家であったが、村はこれを管理し、家の構成員にも日常から注意を払い、潰れ百姓が発生しないように対策を立て、経営や担い手の状況が思わしくない場合は、ただちにその農家を潰れ百姓として認定し対応したのである。

百姓株式制度を基盤としてさまざまに行なわれた共済が、近代以降の農業協同組合の礎となったと戸石さんは研究報告(『共済総合研究』72)でこう述べている。

「『太平の世』として知られる近世の日本は『軍国主義国家』であると、政治史分野では長らく評価されてきた。とはいえ、近世日本を構成する基礎的行政単位は村であり、村は制度上、年貢=兵糧=米の供出を目的とした生産者組織であった。つまり、村は農業協同組合であり、村人はいわば農協の組合員であった。よって、被支配者である百姓から見れば、近世日本は『軍国主義国家』ではなく、『農協国家』であった」

村は、制度上は「米の供出を目的とした生産者組織」だが、そこにはむらを守りむらの持続性を維持する自律的な共済=村びとによる協同活動があり、「260年続いた『パクストクガワーナ』(徳川の平和)は百姓の仲間団体である無数の村、つまり農協組合員として組織された百姓に支えられていた」のである。

 

◆農家を減らさない―長野県・田切農産の取り組み

本書の「終章」で戸石さんはこう述べている。

「中世以降の日本の社会は団体的自治に依存してきた社会であり、団体の中でも村はその果たす役割の重要性において日本社会の基礎的な単位であった。(中略)団体的自治の文化は現代も脈々と受け継がれており、日本社会の基層を成している」

そして現代、農家の高齢化や人口減少のなかで「団体的自治」が難しくなってきたのは確かだが、だからこそ、むらの機能を現代的に再生させる取り組みが、「集落営農」などさまざまな形で展開されている。ここでは、本誌2012年7月号、2014年11月号で紹介した長野県飯島町にある(株)田切農産の取り組みから考えてみたい。

2016年、田切農産はJA全中などが主催する「第45回日本農業賞」の集団組織の部で特別賞を受賞。兼業・専業問わず地区の全農家が参画し地域一丸となった営農体制が高く評価された。

田切農産は2005年、全戸参加の田切地区営農組合を基礎とし、その二階部分の経営体として有志により設立された。農家との密接な関係を維持するため2009年には全戸出資の株式会社に移行。農地を預かるだけでなく、転作作物や白ネギ栽培の受託、畦畔・水管理の地域住民への委託、水稲の作業委託、直売所の経営など地域に利益を還元する取り組みを進めてきた。

こうして、この担い手集団への地域の期待が高まっていったが、一方では、農地利用調整などを主な役割にしてきた一階の地区営農組合の活動が停滞する恐れが生まれた。そこで、これまで任意組織だった営農組合を「地域づくりのための新しい法人」に進化させるため2015年、一般社団法人「田切の里営農組合」の設立にこぎつけた。目的は主には三つ。

「農家を減らさない」

「多様な人材を掘り起こす」

「地域の農地を一元管理する」。

目指すところは、農業を元気に続けられる人には続けてもらい、続けられない人には地域のためにできることをやってもらうことだ。代表の紫芝勉さんはこう話す。

「地域を守るためには、兼業農家をはじめ、地域住民の皆さんにしっかり活躍していただかなければならない。そのための人づくり、仕事づくりの役割を、一般社団法人田切の里が田切農産と連携しながら担っていく」

「いかに小さな利益でもみんなで分け合い、多くの人に参加してもらうことが地域づくりでは大事だ。成果を分け合うと仲間が増える。仲間が増えればいろいろなつながりができて、いろいろな仕事が始まる。それによって地域が継続していくのではないかと私は考えている」

 

◆地域のみんなが参加し元気になる協同のかたち

「田切の里」と「田切農産」が連携して進める取り組みのポイントを整理すると以下のようになる。

①「管理委託+プレミアム方式」という協同のかたち②「小さい農家を減らさない」&「多様な人材を掘り起こす」仕組みづくり③「お金の地域還元率」を増やして仕事、資源、お金の地域内循環を強める

①「管理委託+プレミアム方式」という協同のかたち

米・麦・大豆が主体の集落営農が野菜を導入した場合、「儲かるどころか赤字になってしまう」という話も聞く。田切農産も、かつては同じ悩みを抱えていた。米・大豆依存の経営から脱却するために、白ネギを導入したのだが、田切農産が采配し労賃を時給で支払った途端に経営的に立ち行かなくなるという危機に遭遇した。

こうして導入したのがネギの「管理委託方式」。圃場ごとに管理者を設置して、それらの作業を管理者に任せる。労賃はその都度の時給ではなく、一作終了後、収入から経費を差し引いた分を支払う。管理者になった人もこれなら納得してくれそうだし、赤字になる心配もない。ただし、人手のかかる作業(育苗、定植、収穫調製作業など)はみんなでやったほうがいい。作業も早く終わるし、楽しくできる。それに、地域に働ける場をいかにたくさんつくるかが田切農産の役割だと考えているからだ。こちらの労賃は時給で支払う。

さらに、圃場ごとの実績に応じた「プレミアム方式」を採用。収益の8割を基本配分金とし、2割をプレミアムに回す。努力した分が評価されるから、管理者のやる気が増す。この方式に変えてからは収益がしっかり出るようになり、作業者一人ひとりのやる気もグングン伸びた。この方式は他の野菜にも導入されている。

一方、稲作では「枝番管理方式」にした。田切農産からの委託を受けて稲作に取り組む農家は、米を農協のカントリーに出荷する際に「田切地区営農組合――○○さん」と枝番(名札)をつける。こうしてそれぞれの出荷量を把握し、米全体の売上金額から経費を差し引いて、残った分を出荷数量に応じてそれぞれに分配するので、頑張った人はそれに見合った収入が得られる。

構成員の努力や働きが生きる協同のかたちを追究する。

②「小さい農家を減らさない」&「多様な人材を掘り起こす」仕組みづくり

田切農産の社員は9名、臨時雇用で総勢40人近い地域の人にも来てもらっているが、それでも精一杯という状況になってきた。

そこで、新しく立ち上げた法人「田切の里」では、地域を守るために活動をする「作業グループ」を設け、草刈り部隊をつくった。地域には草刈りくらいならやれるという人がいる。ここでは、「多面的機能支払」交付金を活用する。作業グループのほかに、直売所グループや農産加工グループをつくり、将来的には独居老人に弁当を配達する福祉グループなどもつくる計画を立てている。

③「お金の地域還元率」を増やして仕事、資源、お金の地域内循環を強める

田切農産は地域貢献度ともいえる経営指標として「地域還元率」を重視している。

2014年度の売上高1億4000万のうち地域への還元割合は9300万・66%で年々上がってきている。内訳は共同作業等労務費、直売所で販売する農産物仕入、交付金など作付助成配当、作業委託費、支払地代などである。所得そのものよりも地域に仕事を増やすことを優先し、かつ未来への投資を考えているのである。

地元のNPO法人「伊那里イーラ」と共同で農業塾を開催しているのもそのひとつ。これには町内外から総勢35家族が集まり、米づくりコースと野菜づくりコースで10カ月間、実地で勉強する。ゆくゆくは定住に結びつけたいと考えている。ほかに県の里親制度を使った研修生の受け入れや、JICA青年海外協力隊の訓練生受け入れ、町の子育て支援センターの収穫体験、小学生の社会見学、高校生の職場体験なども定着してきている。

 

◆いま、協同の心を伝え継ぐ

こうした田切地区と田切農産の活動を、JA上伊那や飯島町がサポートし、支えてきた。田切農産は品目横断的経営安定対策事業がスタートした2006年、JA上伊那が先頭になって立ち上げた44集落営農組織のひとつとして発足した。これからは組織(集落営農組合=むらの力)がなければ上伊那地区の農業は維持できないと判断してのことである。農協全職員による集落の担当制をとり、経理、会計簿の記帳代行など全面的にバックアップするなかで、約半年の間にほぼ全部の集落で集落営農を立ち上げることができた。

この時、力を発揮したのが、JA上伊那、行政、普及センター、NOSAI、農業委員会といった各組織が連携した協議会「営農センター」であり、これを核として農地利用調整などをすすめてきた伝統である。

JAの自主的な研究会であるJA・IT研究会(会長・今村奈良臣、会員・53JA+1団体、事務局・JA全中、農文協)では先日、「協同活動をベースにしたJA改革の実践」をテーマに第47回公開研究会を開催。JA上伊那の牛山喜文専務も活動報告をした。JA上伊那の組合員の参加意識は高く、かつて取り組んだTPP反対署名はJAのなかで全国一だったという。牛山さんは、集落営農や新規就農者の支援・育成など多彩な活動を紹介、そして「協同の心」をめぐり次のように語った。

 

「明治の中ごろから上伊那地方の主たる産業は養蚕だったが、製糸会社の独占的な繭の買い叩きや不当な取り引きに悩まされた農家は、これらの搾取から自らを守る手段として零細な資本を出し合い、自らの手で製糸を開始。やがて産業組合法のもと組合製糸が生まれ、大正に入って上伊那一本の組合製糸『竜水社』が誕生、生産から販売までを担って農家所得向上に寄与した。

協同こそ弱い立場にある者の生きる道であることを先人に学びとれる。今日、上伊那全地区に組織されている集落営農組織の根底には、自分たちの地域や農業を自ら守ろうとする協同の心・共に助け合う精神が生きている」

これをさらにさかのぼれば、「むらと家を守った江戸時代の人々」がいるのだろう。

「自己改革」の土台・源泉として、協同の心を伝え継ぐ。農家、組合員とともに進める「自己発見」がいま、求められているのではないだろうか。(農文協論説委員会)

キッチンガーデンたぎり 株式会社 田切農産

http://www.tagiri-nousan.jp/

 

 

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