2021年05月27日

農のあるまちづくり15~都市農業を次代に残す「第3の道」Ⅱ

【農のあるまちづくり14~都市農業を次代に残す「第3の道」Ⅰ】
に続いて。

企業が「農」と向き合うための心得。

 

以下、転載(「東京農業クリエイターズ」2018著:小野淳)

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

続きを読む "農のあるまちづくり15~都市農業を次代に残す「第3の道」Ⅱ"

posted by noublog at : 2021年05月27日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List   

2021年05月21日

農地の多様な生かし方 「あなたのしていることは農業なのか」に答えを出す

農業とは何か?

悩んだ挙句、彼の出した答は、「生き物を育てて生活に役立てる仕事が農業」と位置付けた。ところが、この従来の農(農産物の栽培)とは異なる「農的な活動」を実践した結果、いろいろな人との繋がりが広く深くなっていったのだ。

今回は、「農のあるまちづくり」を目指すNPO法人、くにたち農園の会の紹介である。

では・・・・リンク

転載開始

作物を育て、食料を供給するのは田畑の大切な役割だ。だが農地にはもっと多様な価値がある。人々がそこに集い、憩うことのできる空間としての価値だ。「農のあるまちづくり」を目指すNPO法人、くにたち農園の会(東京都国立市)の理事長の小野淳(おの・あつし)さんに都市農地の意義について聞いた。

 

◆東京でコミュニティー農園やゲストハウスを運営

「四季折々、ここでさまざまなことができる」。小野さんは自ら運営するコミュニティー農園「くにたち はたけんぼ」で取材に応じながら、足元の地面に敷き詰めたおがくずを掘り始めた。出てきたのは、カブトムシの幼虫だ。どこかで捕ってきたり、買ってきたりしたものではなく、自然に卵を産んでいったものだという。しかも、その数は年々増えている。周りを住宅に囲まれた場所に驚きの光景。都市農地の魅力を垣間見ることができた。小野さんは現在、46歳。テレビ番組の制作会社に勤めていたときに環境問題や農業への関心を強め、2005年に大手外食チェーンが運営する農場に転職した。さらにレストランや貸農園の運営会社を経て、2013年から都市農地にかかわる活動をスタート。2016年にくにたち農園の会を立ち上げた。

手がけている事業は多岐にわたる。「くにたち はたけんぼ」では田んぼや畑に囲まれた場所で0~2歳の子どもが自然に親しむ機会を定期的に設け、小学生を対象にした放課後クラブを運営している。畑は団体向けに貸し出しているほか、田植えや稲刈りなどさまざまなイベントも開いている。古民家「つちのこや」も、子育て支援が活動の中心。ほかの地域から引っ越してきた母親などを対象に、育児に関して相談を受ける場を設けている。専門の講師がケガや病気への対処法を教え、童謡や絵本を一緒に楽しむ。空き家を活用したゲストハウス「ここたまや」は、近くにある一橋大の学生に維持や管理を任せている。以前は海外からの観光客の利用が中心だったが、コロナ後は留学や旅行に行けなくなった日本人の学生が多いという。ではこうした活動は、どこで「農」とつながっているのだろうか。

 

◆「農的なもの」を自問して出した答え

「農的なものとは何か。そのことをずっと考えてきた」。農業との関わりについて質問すると、小野さんはそう話した。コミュニティー農園を開いて以降、「あなたのやっていることは農業なのか」とずっと聞かれてきたからだ。導き出した答えは「生き物を育てて生活に役立てる仕事が農業」。ふつう農業という言葉でイメージしそうな「農産物の栽培」よりも広い定義だ。小野さんはその発想の延長で「農的な空間」についても考える。古民家の庭には草や木が生え、池にはたくさんのオタマジャクシが泳いでいる。そこから歩いてすぐのところにゲストハウスがあり、活動の核となるコミュニティー農園もある。「同じ地域の中に、田んぼや畑や家がある。それが農的な空間。かつての里山のようなものを想像するとわかりやすい」と小野さんはいう。

農園ではさまざまな野菜を育てているほか、ポニーやアヒル、ウサギを飼っている。地面を掘ればカブトムシがいる。その中で子どもたちが遊ぶ。古民家で子育て支援を受けている親子が、農園のイベントに来ることもある。ゲストハウスに泊まった人が、農園でピザを焼いて食べることもある。すべてどこかで農園とつながっている。小野さんはそれを踏まえたうえで、「どれも自分たちで運営していることが大事」と話す。小野さんを中心とするチームがすべてを手がけているからこそ、個々の活動が結びつく。念頭に置いているのは、農作業からわらじ作りなど1人でこなしたかつての農民の姿。活動の範囲を広げることで、「農的な空間が生活の中にある状況を作り出す」。それが「農とは何か」を自問し続けて見つけたテーマだ。

 

◆テレビ番組の制作会社をやめ、農業を始めた理由とは

かつて小野さんがテレビ番組の制作会社をやめ、農業法人で働き始めた動機についても改めて聞いてみた。返ってきたのは「いまの都市の暮らしのあり方に疑問を抱いていた」という答えだ。「野菜を作るのが好きということではなく、野菜を作る場所が身の回りにあることが大事だと思った」という。そうした思いは、くにたち農園の会を立ち上げる前、貸農園の仕事をしていたときに確信に変わった。「いろんな人が来て、すごく喜んで帰っていく」のを目の当たりにしたからだ。「需要はすごくある」という手応えを得た。その需要の背景にあるものは何か。「都市では商業施設や幼稚園など場所ごとに決まった役割を演じるよう求められる。立ち居振る舞いの見えないルールがある」。そう話す小野さんが目指すのは、そんな役割から人を解放することだ。「何か目的を持ってここに来る必要はない。ただ来て過ごしてくれればいい」

田園風景を楽しんだり、作物を栽培したりするため、都市から農村を訪ねていくのではない。都市に残された田畑を身近に感じながら、のんびり自然体でいられる時間を過ごす。小野さんが提供しているそんな空間は都市農地に新たな光を当てるとともに、農業そのものの再評価にもつながると思う。

以上転載終了

 

◆まとめ

近代農業は、専門特化し、効率的な栽培を希求した結果、先人たちが作り続けてきた昔の農の生活環境(共同体)は、徐々に消滅していった。

そして、本源的な自然との繋がり、人と人との繋がりは、ますます薄くなっていき、生物本来の外圧を感じる機能、共認機能までもが、全く役に立たないところにまで、追い込まれている。

その中にあって、今回紹介したコミュニティー農園「くにたち はたけんぼ」は、大きな可能性を秘めているのではないか?

彼らの主張には、農園の役割として、「人を解放すること。何か目的を持ってここに来る必要はない。ただ来て過ごしてくれればいい」と言い切る。

共同体社会(意識)の復活の萌芽。全ては、実践するところから始まる。都市農業の新たな手法。農業そのものの問い直し。まさに先端を突っ走っているかもしれない。今後の彼らの活動に注目。それでは、次回もお楽しみに。

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

続きを読む "農地の多様な生かし方 「あなたのしていることは農業なのか」に答えを出す"

posted by noublog at : 2021年05月21日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List   

2021年05月20日

農のあるまちづくり14~都市農業を次代に残す「第3の道」Ⅰ

農的空間を都市部で守り育てていく、その方策について。

 

以下、転載(「東京農業クリエイターズ」2018著:小野淳)

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

続きを読む "農のあるまちづくり14~都市農業を次代に残す「第3の道」Ⅰ"

posted by noublog at : 2021年05月20日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List   

2021年05月13日

「継業」で自給生活圏を創りだそう―「自営的働き方」が生きる地域社会

村に一件ある豆腐店。確かに、昔、自分の田舎には、なじみにしていた豆腐店があった。それも、いつしか近所に大手スーパーが開店し、消えていったのを覚えている。
その一軒の豆腐店が、その村で収穫された大豆を使用することで、自給生活圏を創り出せていたのだ。
今回の主張は、生産と消費が地域に根差し、紡いでいくことで、生きた地域社会が形成できていくというもの。自給生活圏の創造であり復活。

戦後、労働と生活は分離し、衣食住から娯楽にいたるすべてが商品化された。農家や商人、職人といった自営業者は大きくその比率を減らし、サラリーマン的な働き方が当たり前の社会になった。
更に、便利な生活という幻想を希求するあまり、自給自足の生活が切り離され、村の過疎化に拍車がかかったことも事実。
今回は、農業から自営的生き方、働き方に挑戦し続けている人たちの紹介である。しかし、これは、彼らの廻り、しいては、我々の生き方・暮らし方の改革を同時に行っていくことが不可欠であろう。では・・・・リンク

 
転載開始

 
◆自給率を家計から見る視点
いまから48年前、本誌にこの「主張」欄ができたばかりのころ、「新しい自給生活を創り出そう」というタイトルの論説が掲載された。1970年、大阪万博が開催され、世は高度経済成長の真っ盛り。その一方でこの年から減反が開始され、農業は「曲がり角」といわれ、輸入圧力や食料自給率の低下が問題にされていた。
この論説はいま読み直してもなかなかおもしろい。ちょっと長くなるが紹介してみたい。
論説はまず読者に、日本の食料自給率(主食用穀物・重量ベース)が低下して80%を割ったのなんのと騒がれているけれども、国の自給率の前に「農家の食料自給率」はどうなっているか考えてみようと投げかける。農家生計費調査の数字をみると、農家の食料自給率は80%どころか18%まで低下しているではないかと。

さらにこうたたみかける。

「食料だけではありません。井戸は水道に、マキはプロパンに、衣類はほとんど仕立て上がりの購入になりました。まことに農家一戸一戸の自給率は急激に落ちているのです。全国平均の農家生計費は1年に72万円、このうち現金部分が約60万円、つまり自給分を換算した金額は12万円です。5人家族の米の家計仕向けは約9万円だから、米以外の自給は3万円相当しかないのです」
食料だけでなく、燃料や衣料を含めた暮らし全体が、買ったもので賄われるようになったことを問題にしている。
生産と生活を切り離して農家の購買力を上げ、生活を近代化するという立場からすれば農家の自給率低下こそが「生活の近代化」であり、「自給生活は古くさい」ということになる。論説はこうした当時の時代の風潮に抗して「新しい自給生活」の創造を提唱する。そのポイントは三つある。

①自給が苦しい労働であった時代は過去のものとなった。むしろ趣味と考えられる。
②新しい自給生活は必ずしも一戸一戸の自給ではない。むしろ、「自給生活圏」をつくることにある。
③生産と生活をすっかり切り離してしまうのではなく、積極的につなげることによってはじめて経営も生活も守っていくことができる。

昔とちがって、「自給しないと食えない」からしかたなくではなく、「買えば買えるがあえて買わない」。いわば積極的な自給。一戸の農家で完結するのではなくて、自給する農家同士が連合し融通しあい、そこに非農家も参加して「自給生活圏」をつくろうというのである。

◆自給率アップのターゲットを定める
なぜ、半世紀近く前の論説をいまさら持ちだしたかといえば、いままさにこの論説が提案した「自給生活圏」が求められる時代になったからだ。そこには時代状況の大きな変化がある。まず農家の意識が変わった。食べものでもなんでも買ったもののほうが高級だというとらえ方はもう古い。いまでは、ほとんどの農家が買ったものより自分で育てた野菜、手塩にかけた味噌、漬物こそ価値があると考えるようになった。消費者意識も同様で、「地場の旬の野菜がいちばん」と言う人が多くなった。
さらには流通も変わった。「地産地消」という言葉がすっかり定着し、地元産の少量多品目の農産物や加工品を扱う直売所も爆発的に増えて、いまやその店舗数は1万6000を超えるといわれる。それにともなって地場野菜や地域の特色ある農産加工品の見直しもすすんできた。直売所だけでなく、ほとんどのスーパーマーケットに地場野菜コーナーが設けられるようになった。
「自給生活圏」をつくる条件は48年前よりずっと整ったが、地域の人々の購買実態はどうだろうか。
過疎地域での人口安定化対策として、人口の約1%分だけ定住者を増やす方法を提唱した『田園回帰1%戦略』で脚光を浴びた藤山浩さんと研究仲間が続編を出版した。その本、『図解でわかる 田園回帰1%戦略』シリーズ第1作『「循環型経済」をつくる』のなかで、福井県池田町(人口2678人)での家計費調査の結果が紹介されている。

それによれば、福井市の通勤圏にある池田町では、食料購入額の73%は町外の店からの購入で、町内購入率は27%にすぎない。さらに町内産となるとその3分の1のわずか9%だった。町内購入率を品目別にみると「米」、「粉もの・穀物」を除けばすべて30%以下。町内産購入率でいえばさらに低く、米の4割以外はすべて20%以下で、0%の食品も少なくないという。

しかし考えようによっては、その分だけ自給率(町内購入率、町内産購入率)を伸ばす余地があるということだ。池田町だけでなく、いま多くの地方の市町村では、補助金や年金などの形で地域に入ってきたお金が、食料費、燃料費、教育費などの形で地域の外に「だだ漏れ」している。その「だだ漏れバケツ」の穴をふさぐことで地域にお金が残り、新たな定住者を養う経済的基盤ができる。食料費、燃料費など、町内購入率、町内産購入率が低いものほど、取り戻せるお金も大きい。
自給生活圏づくりでまず大事なことは、家計費というミクロレベルの経済を見直し、地域内循環のウィークポイントをつかむこと。そこに所得取り戻しのターゲットを定めることだと藤山さんはいう。読者のみなさんの地域でもこの本を参考にして、食料や燃料をどれだけ地元の店で購入しているか、そのうちどれだけが地元内で生産されているかを調べてみてはどうか。
「自給生活圏」づくりは、まずそこからはじまる。

◆「むらに1軒」豆腐屋がある意味
こう書くと、「地元で食料品やガソリンを購入しようにも、うちの地区ではとっくの昔に農協支店が撤退し、商店も閉店してしまった」という声が聞こえてきそうである。たしかにかつては、こうじ屋、鍛冶屋、炭屋などなど、「むらに1軒」あると便利な店があって、そこで農家の暮らしと寄り添いながら「むらの職人」が生計を立てていた。こうした店は燃料革命や他の大きな店との競合、後継者難などの理由で次々と廃業に追い込まれている。

このような職人を地域でバックアップしながら、うまく引き継いでいくことはできないだろうか。本誌の姉妹誌である『季刊地域』最新号(33号)は「むらに1軒」あるといい店の「継業」を特集している。

たとえば岐阜県白川町佐見地区は人口1050人、世帯数785戸のむら(昭和の合併前の村)だが、かつては地区内に3軒も豆腐屋があった。豆腐屋がなくなって久しいなか、9年前に「佐見大豆加工研究会」が豆腐づくりを復活。その後、町も出資する第3セクターの「株式会社佐見とうふ豆の力」となって、白川町内の集落営農組織が生産する大豆で豆腐や油揚げなどをつくって販売している。いまでは町内の集落営農組織が生産する大豆40~45tのうち20tは「豆の力」で加工されているという。ほかにも町内で消費される大豆がさらに5tくらいあるから、あわせれば地元産大豆の6割強は地元で消費されている。地元産100%の豆腐づくりは、かつての3軒の豆腐屋があった時代もできなかったことだ。
加工施設に隣接して2017年には農家カフェもオープン、豆乳と卵のフレンチトーストやおからサラダ、豆乳プリンといった大豆づくしメニューのモーニングサービスが好評である。「豆の力」では現在30~60代の8名の女性が働いているが、研究会時代からのメンバーは1人だけ。豆腐づくりの技術は後代に引き継がれている。

◆「継業」で移住者の仕事を生み出す
「むらに1軒」の「継業」はIターン・Uターンなど移住者が暮らしていくための仕事も生み出す。同じ『季刊地域』に新潟県小千谷市真人地区で「地域おこし協力隊」後に定住した坂本慎治さんが紹介されている。

真人地区では、1997年に地元有志10人が50万円ずつ出資して「真人健康食品生産組合」を設立、豆腐づくりの経験のある職人1人を雇用して豆腐を生産していた。ところが坂本さんが地域おこし協力隊員として着任した2013年末には職人が引退することになっていた。「むらに一軒」の豆腐屋のピンチ。しかし、それは協力隊の任期終了後、むらに定住しようと考えていた坂本さんにとっては「渡りに船」だった。坂本さんが後継者として手を挙げると、工場の建物、機械設備、配達用の保冷車は無償譲渡され、顧客もそのまま引き継げることになった。市役所も継業後3年間は技術継承を含めて手伝い期間とみなし、協力隊の職務として給与を支給した。

こうした手厚いバックアップの甲斐もあって、坂本さんは協力隊同期の香奈子さんと結婚して定住し、豆腐屋を営んでいる。坂本さんがつくる豆腐の一番人気は「真人とうふ」(木綿400g、税込220円)。1丁当たり130gと通常の豆腐よりずっと多くの大豆を使う。大豆の仕入れ量年間6tのうち2tは提携する小千谷市内の転作組合の大豆を使っている。坂本さんがつくる木綿豆腐は年間3万丁ほどだから、1万丁ほどは地元産大豆でつくった豆腐という計算になる。

「それでも現在、小千谷市の人口が3万5000人、3人に1人しか100%地場産の豆腐を食べられないと考えると、まだまだ大豆が足りない」と坂本さんはいう。妻の香奈子さんのアイデアで豆腐を使ったスイーツの開発もすすめ、市内中心部に2号店兼スイーツ工場もオープン。パート2人を雇用し、年間の売り上げは1000万円を超え、継業する前の2.2倍にのぼる。
もし、移住者が自己資金で豆腐屋を新規開業しようとしたら、大きな負担となる。その点「継業」なら、前任者の設備や顧客をそのまま引き継ぐことができ、初年度から事業を軌道に乗せることも可能だ。「継業」には農業における「第三者継承」と同じ強味がある。地元にとっても、店が残り、地元の農産物の売り先ができて、定住増につながるのだからメリットは大きい。

◆地元にお金が落ちる消費と落ちない消費
地域のなかでお金が回り、仕事が増え、移住者を呼び込む。そんな「自給生活圏」づくりを事業として進めるうえで、欠かせない視点はどれだけ地元にお金が落ちるかをしかと見極めることだ。先に紹介した『「循環型経済」をつくる』ではパン屋を例にわかりやすく説明している。

1000円分のパンを買う場合、地域外で買ったら、地元には1円も落ちない。地元スーパーマーケットから1000円分、大手パン会社のパンを買えば、スーパーの人件費分110円だけ地元に落ちる。それが地元のパン屋が焼いたパンなら、スーパーの人件費110円+パン製造の人件費270円=380円分が地元に落ちる。さらに原料も地元産でまかなえば、小麦粉やバターなど原材料を生産する農家の所得80円が加わり460円が地元に落ちることになる(人件費率は著者たちのサンプル調査に基づく)。このように、どこでどんなパンを買うかによって、1000円のパン代のうち地元に落ちるお金は0円から→110円→380円→460円と、大きく違ってくる。
さらに地場産小麦パンや地元産大豆豆腐のおかげで地域内の小麦や大豆の生産が増えれば、水田活用の直接支払いや数量払いの補助金も入ってくるから、地元に落ちるお金はもっと増える。その分だけ、新しい定住者を養う地域の経済力(世帯扶養力)が強まる。「消費の質」(お金の使い方)が問われる時代なのである。

「自給生活圏」づくりには流通業者の協力も欠かせない。『「循環型経済」をつくる』では島根県益田市に本社があるスーパー「キヌヤ」の実践を紹介している。島根県西部から山口県の日本海側にかけて21店舗を展開するこの地方スーパーは、「ローカルブランド」と呼ぶ地元産品の売上を2割にする目標を立てている。各店舗とも正面入口近くに野菜を中心として「地産地消コーナー」を設置。生産者は15%の手数料を払えば、出荷することができる。加工食品では、地元業者との共同開発にも乗り出している。こうした取り組みの結果、食品部門123億円の売上のうち「ローカルブランド」は19億円、15.8%を占めるまでになり、地元からの仕入れ金額も16億円にのぼるまでになった。

◆いま見直される「自営的生き方・働き方」
このような「自給生活圏」づくりは、地域に住む人々の働き方、暮らし方も変えていくだろう。
冒頭で紹介した論説から約半世紀。この間、労働と生活は分離し、衣食住から娯楽にいたるすべてが商品化された。農家や商人、職人といった自営業者は大きくその比率を減らし、サラリーマン的な働き方が当たり前の社会になった。それで生活の質は高まっただろうか。

東京から福島県二本松市東和地区に地域おこし協力隊員として着任した高木史織さんは、東京と東和での「おサイフ事情」を比較してみた。東京では月15~16万円の給料のほとんどが生活費(家賃6万円、食費1~2万円、交際費2~3万円など)に消えていた。東和では家賃は2万円、野菜はほとんどもらうので食費は5000~1万円、合計月7~8万円と半分の生活費で済む。それでいて住まいも食事も東京よりずっとレベルアップしている。2017年5月に協力隊の任期を終えた高木さんは、その後も東和地区に住み、二本松市内の農業支援団体と福島市内の編集デザイン会社に勤務しながら東和の地域づくりにかかわり続ける道を選んだ(『〈食といのち〉をひらく女性たち』農文協、4月中旬刊より)。

哲学者の内山節さんは、いま「働き方と暮らし方がリンクし、双方の充実が図れる”自営的ライフスタイル”が見直されている」という(『ディスカバー・ジャパン』2018年3月号)。その魅力は自分のペースで仕事ができることで、それは労働と生活が密接に結びついているからにほかならない。農業はまさに自営的生き方そのものである。そして自営的生き方の世界には、農家を核としながら、地域の生産と暮らしを支える自営的な人々――パン屋、豆腐屋、搾油所、燃油スタンドといった「むらに1軒」の自営業だけでなく、それらのパッケージやホームページのデザイナーなどのなりわいが近接して分厚く形成されていく。今回は数字の話から「自給生活圏」づくりにアプローチしたが、その数字の向こうには人々の生き方・暮らし方の改革がある。

「田園回帰1%戦略」の核となる「自給生活圏づくり」は、そのような地域と共にある「生き方・暮らし改革」につながる。その条件はさまざまに生まれている。それを生かせるかどうかは、農家、営農組織、地域運営組織、JAなどが、そこにどれだけ知恵と力を結集するかにかかっている。(農文協論説委員会)2018年5月

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

続きを読む "「継業」で自給生活圏を創りだそう―「自営的働き方」が生きる地域社会"

posted by noublog at : 2021年05月13日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List   

2021年05月13日

農のあるまちづくり13~都市農家とつながろうⅡ

【農のあるまちづくり12~都市農家とつながろうⅠ】
に続いて。

自ら地域の”ハブ役”となっていくことが、「都市農家」の生き残り戦略。

 

以下、転載(「東京農業クリエイターズ」2018著:小野淳)

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

続きを読む "農のあるまちづくり13~都市農家とつながろうⅡ"

posted by noublog at : 2021年05月13日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List   

2021年05月06日

カマキリとテントウムシで無農薬レモンを作る!?

今回は、愛知県豊橋市で天敵昆虫を使いレモンの無農薬栽培を手掛けている農業家の紹介です。

彼は、レモンそのものに同化、その中身について徹底的に追求し、構造化。レモンが真直ぐ本来の姿で生育できるように自然の力(生態系の力:カマキリやテントウムシ)を借りて健全に育てている。

更には、その収穫したレモンの味を引き出せるように、二次加工を手掛ける仲間を見い出し、彼らと徹底的にすり合わせを行いながら、最高の製品を作り出しているのだ。

最終的には、そのレモンのおいしさを伝搬できる「食のビジネス」までに広げる活動を行っている。現在の農業6次産業化の最先端を走っているのではないだろうか?

では・・・・リンク

転載開始

今年(2019年)2月、日本農業賞「食の架け橋の部」で大賞に輝いたのが、愛知県豊橋市で天敵昆虫を使いレモンの無農薬栽培を実践する河合浩樹さんだ。日本農業賞は、農業技術や経営面で優れた実績を挙げた農家や団体に贈られる賞で、その大賞ともなれば国内最高レベルの証しになる。河合さんは、カマキリやテントウムシなど、害虫にとっての天敵昆虫を駆使して無農薬でレモンを生産する独自の栽培法でよく知られている存在だ。しかし、今回の受賞は、生産技術だけでなく、無農薬レモンを核に異業種の人たちを巻き込み地域の食ビジネスを立ち上げたり、優れた農産物を生産できる腕利きのプロ農家集団を作ったりしてきた実績が評価された。河合さんの取り組みは、地域と農業の振興を考える関係者にとって絶好のお手本になる。

毎年2月に発表される「日本農業賞」は、国内農業関係者にとって最も権威ある賞と言えるだろう。3つの部門ごとに大賞と特別賞が選ばれ、特に大賞はそれぞれの分野で国内最高レベルの取り組みを実践している農家や団体の証しだ。受賞者はNHKの全国放送で何度も取り上げられるので、番組や記事を見たことがあるという人は多いのではないだろうか。

~中略~

受賞者の中で、今回、ひときわ異彩を放つ生産者がいる。その人こそ「食の架け橋の部」で大賞を受賞した河合浩樹(かわいひろき)さんだ。河合さんは、農業生産が盛んな愛知県豊橋市の東、静岡県境近くで果樹園を営むみかん農家の5代目。河合さんはこの地でそもそもの家業であるみかんのほか、カマキリやテントウムシなど、害虫を捕食する天敵昆虫を使って無農薬でレモンを生産している。無農薬レモンの生産者はほかにもいるが、30種類以上もの天敵昆虫を自在に駆使する農家はほかに例を見ない。関係者の間では“知る人ぞ知る”異色の柑橘(かんきつ)農家なのだ。

「虫たちは仕事のパートナー。私は彼らを外部採用したり配置転換をしたりしながら活躍してもらっています」と笑う河合さん。カマキリやテントウムシを部下として使って無農薬レモンを作る……、なんとも驚きの生産方法だが、今回、河合さんが大賞に選ばれた理由は、実はそのユニークな生産手法だけではない。そうして作った無農薬レモンをベースに異業種の人たちや同業者農家たちと連携してきた実績を評価されてのことなのだ。

◆「初恋レモンプロジェクト」で地域振興

主な受賞理由となったのは河合さんが作った「初恋レモンプロジェクト」だ。河合さんは自らの果樹園を舵取りしながら、リーダーとして10年以上にわたってプロジェクトを運営し、地域の食ビジネスを盛り立ててきた。さらに、このプロジェクトから少し遅れて立ち上げた農業者の集まり「豊橋百儂人」(とよはしひゃくのうじん)の活動も評価された。

「初恋レモンプロジェクト」のメンバーは河合さんが生産する無農薬レモンを使って、洋菓子や和菓子、パン、餃子などの商品を作って販売する食品店・食品会社の経営者や、無農薬レモンを料理の食材に使うホテルの総料理長などから構成される。プロジェクトのリーダーである河合さん自身も、無農薬レモンのストレート果汁やレモネード、マーマレードなどの加工品を販売する。

河合さんが初恋レモンプロジェクトを作るきっかけは、無農薬レモンの生産が安定してきた2006年の秋ごろのこと。河合果樹園のレモンを皮ごと使ってメロンパン風のパンを作りたい、という申し出があったところからスタートした。

その後、地縁・人縁のつながりで、様々な人が河合さんのレモンを使った商品開発に取り組むことになる。プロジェクトの設立は2007年。たまたま酒席で出会った人からの縁をはじめ、「不思議な出会いに恵まれた」と河合さんは回想する。こうした出会いと、河合さんの無農薬レモンには高い市場価値があるという確信、そして、地域でもっと普及させたいという強い思いがつながった。この後も別のメンバーを巻き込みながら、プロジェクトは育っていく。その後も様々な魅力的な商品が生まれ、「初恋レモン」という名前は、今では地域ブランドとしてしっかりと定着するまでになった。

◆次代の農業者を育成する試み

もう一つの組織、「豊橋百儂人」の方は、「初恋レモンプロジェクト」から少し遅れて2009年に河合さんが中心となって立ち上げたもの。今年で設立10周年になる。この集まりは、参加メンバーが農業生産者として個々のレベルアップを図りながら、豊橋を中心とする東三河地域の農産物のブランド力や競争力を高めることを目指している。この地域に受け継がれてきた農業の先達たちの知恵と技術を生かし、食と農に関する文化を次世代に手渡していくという志を掲げている。

豊橋百儂人では、定例会で様々な議論を繰り返し、切磋琢磨していく。ただ、それだけなら、普通の情報共有をしながら技術を学ぶ農業者のグループと変わらない。百儂人のユニークなところは、参加メンバーを160を超える評価・認定基準に基づいてランク付けしているところだ。

この評価は、自分の評価だけでなく、公認サポーターからの客観的な評価などからなり、ネットに掲載される。百儂人に参加する農業者の中には、こうした評価付けに耐えられずやめていく人もいた。今も参加し続ける農業者は競争の中に自らを置き、客観的な評価の中で自分の立ち位置を知る。絶えず自己革新を迫られることで、さらに次のステップに進めるという考えだ。

農業者として自分を律しながら、栽培・生産・経営の技術を磨いていくプロ農家集団とでも言えばいいだろうか。河合さんはこの集まりの中から、高い技術力を持ち、自らの農産物や市場に対する深い理解と先を読む洞察力や情報発信力を備えた若い農業者が出てくることを期待している。

◆「語る力」の大切さ

一般に地域ブランドを作ろうとする場合、一人の生産者が単独で切り盛りすることは難しい。成功例は、ある程度規模の大きな団体や法人が中心となっていることが多い。

なぜ河合さんは個人経営の生産者として、大きな動きを作れたのだろうか……。残念ながら、こうすればできるというような単純な答えはない。プロジェクトがスタートする前の段階で、無農薬レモンで河合果樹園の名前は広く知られるようになっていた。つまりブランディングはできていたことは一つの素地になるだろう。それでもさらに「成功のカギは?」と聞くと、河合さんからは「とにかく深掘りしていくことです」という答えが返ってきた。

「例えば、初恋レモンプロジェクトは、昨年末から新しいステージに入りましたが、11年目からはメンバーの皆さんにセリングポイントをどれだけ言えるか。つまり、レモンのいいところを100見つけましょうという訓練をしています。実際にやってみると、いいところを100見つけるのは至難の業です。このためにはレモンについて深く知らなくてはなりません。栽培やレモンの木、葉、花などレモンそのものを徹底的に深掘りしていく。それだけではなく歴史や文学など周辺の話についても知っている必要があります。不思議なことにこうやって深掘りしていくと、いろいろなものにつながっていく。私は、最近ではレモンについて深掘りの余地が少なくなってきたので、初恋の部分を深掘りしています」と河合さん。今では、島崎藤村の「初恋」の詩や俳句などで初恋や恋心についての深掘りを続けているという。

つまりは、河合さんがプロジェクトを成功に導いている理由は、プロジェクトの中核にある無農薬レモンのことを様々な面から徹底的に深掘りし、そこで得られた知見や情報を周囲に対して熱く語っていくことにほかならない。情報の「深掘り」と「語る力」、そして周囲との密なコミュニケーション。この3つが河合さんのプロジェクト運営の要諦と言っていいだろう。

実際、河合さんの情報発信力は実に高い。レモンについても、他に手掛けている柑橘類にしても、何かを聞けば即座に的確な答えが戻ってくる。話題も途切れることがない。こうした「語る力」もレモンについての「深掘り」がベースにあるからと納得できる。

河合さんに対するプロジェクトメンバーの信頼は絶大なものがある。主要メンバーの一人、ホテルアークリッシュ豊橋で総料理長を務める今里武(いまざとたけし)さんもその一人。「河合さんが語ってくださることは、僕らの武器になるんです」と今里さん。

今里さんは河合さんとのコミュケーションの中で得た無農薬レモンについての知識を自分の中に深く落とし込む。そして、料理の形で表現する。出来上がった料理は、単なる地産地消の食材を使った美味しい料理ではない。そこには何かプラスアルファの価値が加わっている。

「われわれのホテルのレストランでは、お客様にとって美味しい料理を出すのは当たり前です。しかし今はネット社会。お客様は素材についていろいろな情報を知っています。われわれはそこに上乗せして何かを伝えていかないといけない。作り手もサービスの人間もお客様にそれを伝える責任と義務があります」と今里さんの目は真剣だ。

河合さんとのコミュニケーションからは、次々と新しいメニューも生まれている。河合さんからの提案を受け、今里さんはレモンの葉を使った料理やレモンの花のつぼみを使った料理など、新しいメニューを開発している。

◆理念をすり合わせる

河合さんとプロジェクトメンバーのコミュニケーションは、様々な新商品を開発する際の原動力にもなっている。そうやって生まれた商品の代表例が「初恋レモン餃子」だ。

この餃子は、プロジェクトの中核メンバーの一人、さくらFOODS代表取締役の北澤晃浩(きたざわあきひろ)さんが、河合さんからの提案を受けて創り出したまったく新しいタイプの餃子と言える。さくらFOODSは、地元の食材にこだわり、安全にこだわった餃子の製造・販売をしている企業だ。

「初恋レモン餃子」では、無農薬レモンを皮ごと具に練り込み、ひき肉には国産の鶏肉を使っている。北澤さんは、レモンを使った餃子を作ってみないかという河合さんからの提案に「最初は戸惑いました」と笑う。しかし、鶏肉料理にレモンをかけることを思い出し、作ってみたところこれが大人気となり、県のグルメランキングでグランプリを取るほどのヒット商品になった。今では、「さくらFOODSの看板商品」(北澤さん)というまでに育った。

北澤さんはプロジェクトの役員として河合さんを補佐しながら運営していくメンバーでもある。メンバーは定例会で密なコミュニケーションを続けながら、河合さんの考え方を共有しようとしている。

「最近、プロジェクトが新しいステージに入ってからは参加メンバーで河合さんの哲学を理解して共通の理念を作ろうとしています。これだけ明確に理念を持って情報発信できる方は少ないし、非常にわかりやすい。最近では、河合さんの理念が私の会社の経営理念にもなってきている感じですね。プロジェクトは自分にとっても会社にとっても大きな糧(かて)です」と北澤さんは語る。

◆根本にあるのは農業経営力

みかん農家の5代目でもある河合さんが無農薬レモンを志し、レモンのハウス栽培を始めたのは1993年のことになる。そこから四半世紀以上、数え切れないほどの試行錯誤を繰り返し、レモンについての知見を一つずつ重ねてきた。豊橋の気候にあったハウス内での栽培方法や天敵昆虫による害虫駆除の方法論も、一朝一夕でできるものではない。まさに農業技術そのものの深掘りをしてきた結果だ。

レモンだけではなく、もともとの家業であるみかん栽培についてもアプローチの手法は変わらない。減農薬栽培、無化学肥料栽培、無農薬栽培、自然栽培など、さまざまな栽培法を試行錯誤を繰り返しながらノウハウの深度を深め続けている。河合果樹園の規模は、レモンのハウスで45アール、みかんのハウスが25アール、露地みかんが170アールと柑橘農家としてはかなり大きなものになる。これだけの大規模で、多彩な栽培法を手掛けながら、さらに進化させようとしているところは他にないだろう。

河合さんの豊かな情報発信力もコミュニケーション力も、こうしたプロ農家としての栽培力・経営力に裏打ちされたものだ。河合さん自身も今回の受賞について、「連携を評価されての受賞ですが、私の取り組みの最大の背景は、多彩な品目を組み合わせ一年中出荷できる体系を整えた農業経営にあると思っています」と語っている。

1つの農作物を地域の特産に育て、異業種との連携をしながら食ビジネスを作り上げていくためには、根幹にあたる農業の部分が本物でなければ持続的な成長などあり得ない。

河合さんは「今は、なんちゃって農家が増えていますが、それでは何かやろうとしてもせいぜいもって3年がいいところです。それ以上は続きません。深掘りを重ねて本物のプロにならなければダメです」と断言する。

河合さん自身は、プロジェクトで走り回り、周囲に対して様々な情報を発信しながらも、決して根幹となる自らの農業技術の改革を怠らず、さらに深く広く進化させようとしている。ここ数年、レモン生産への参入が増えていることを感じ、市場の動向を予測しながら、レモンの次のエースとなる品種の栽培も進めているという河合さんの次の一手から目が離せない。

川合果樹園

日本農業賞・大賞に輝いた「地域特産物の作り方」とは 2019.05.27文=高山和良

以上転載終了

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

続きを読む "カマキリとテントウムシで無農薬レモンを作る!?"

posted by noublog at : 2021年05月06日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List   

2021年05月06日

農のあるまちづくり12~都市農家とつながろうⅠ

近くにいながら、あまり知られていない。

「都市農家」の生態について。

 

以下、転載(「東京農業クリエイターズ」2018著:小野淳)

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

続きを読む "農のあるまちづくり12~都市農家とつながろうⅠ"

posted by noublog at : 2021年05月06日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List   

2021年04月29日

自然農から命の道を 

2000年6月、自然農の実践者:川口由一氏の 安曇野自然農塾のホームページ ”いのちの祭り2000年”に寄せられた文です。この記事は21世紀を迎えた20年前の文章ですが、彼は現在も、まさに生命原理、自然の摂理と一体化した農法を追求~実践し続けています。

彼の底辺に流れる志は、これまでの文明発祥の農法を即刻止めなければ地球は滅ぶ。

人類は、正しく適応し続けることは必ずできる。そのためには、次の文化・文明に繋がる自然農法がひとつの活路になると・・・・ では。【リンク

 

転載開始

私達人類は、一万年前後の農耕生活の歴史を重ねてまいりましたが、ここ数十年間においては化学する知恵と高度の技術能力により、飛躍的な変化発展をいたしました。それが自然から、あるいは生命の営みからの遊離ともなり、自然法則への支配を深くしてゆくものとなりました。

多種多量の化学肥料、農薬の開発使用、多量のエネルギーを消費しての大農機械化農業、大地から離れての水耕栽培、さらには遺伝子や染色体を操作して新品種の開発、あるいは一つの細胞を取りだし培養、増殖させての利用…等など、人間の都合や人間本位の思いと判断から、生命誕生までに手を出しての化学農業へと大変化であります。

この大きな変化、発展が真の変化かどうか、私達人間に本当に幸福をもたらしてくれるものであり、この地球上でいつまでも平和に暮らし続けてゆける農業であるのか問わねばならぬものでありました。しかし、心配をよそにこの流れはヨーロッパからアメリカ、日本、アジアの国々に及び、さらに世界の各地に…とその勢いは急であり、地球上のあちこちにこの化学農業が大きな強い勢いで広まっております。

本当に人類はこれで大丈夫だろうか、宇宙の法則を極めること出来ず、生命あるものとしての生き方を悟ること出来ず、生命の本体を観ず、識らずして自然から遊離し、人間本体の浅い狭い、愚かな思慮分別で、自然界の一部である私達人間だけが、欲望のままにこんなに愚か事を重ねてのこの発展は許されるのだろうか、と心ある人々が危惧するところであり、生命からの不安をいだくところでありました。やはり宇宙生命根源の働き、天地自然の摂理や、自然界の法理法則や掟、個々の生命の営み等など、最も大切な生命の法を見失ってのこうした人間の行為は、無限大の働きをする素晴らしい地球自然界といえども許容してくれるものではありませんでした。

早くから化学農学の栄えたヨーロッパにおいてその弊害が現れ、一部の人達からその誤りとゆきづまりに気付き始めました。大地の荒廃、水や空気や土の汚染…等などの環境破壊は生命あるあらゆるものの存亡にかかわるものであることに気付きました。多大のエネルギーを必要とする農業やハイテク農業は有限のこの地球において永続できるものではないことにも気付きました。さらには人体や食べ物に直接、農薬、化学肥料からの毒物が混入、侵入するという恐ろしいことは私達人間の生命に直接危害をもたらすものであることにも気付きました。人間のこうした行為は地球生命圏の大調和を乱し狂わせて、人間はもとよりあらゆる生命の生存を脅かすものであり、自らの内には精神の荒廃を招き、魂を曇らせ、心を病ませ、生命を衰退させる病気に対する抵抗力を亡失させ不安に陥るものであります。

もちろん農業のみならず、私達人間生活総ての方面から招いている問題であり、危機であります。農業からもたらすもの以上にはるかに恐ろしい破壊力を持つ原子力の利用や強大な武器の保有…等などのことを思うと、あらゆる方面における私達人間のやっていることの根底からの問い直しをひとり一人が迫られています。

自然とは生命自ら然らしむるところです。

自然界すべては生命自らの営みによって現出しているものです。生命の成せるものです。大いなる一つの生命の成せるものであると同時に個々個々の生命の成せるものです。総ては生命の中の生命達の出来事であり、何もかもが生命自らです。自然が向こう側にあるのではなく、私達人間も自然であり生命そのものです。お米しかり、野菜、草々虫達しかり、田畑全体、地球生命体しかり、何もかも何もかもしかりです。生命の道がそのまま私達人類の道であり、生命あるもの総ては生命の道に添う以外に道はありません。地球はもとより宇宙の楽園です。この楽園を壊さない生き方を必要としております。

自然農はこの楽園を一切損ね壊すことのない栽培農です。耕さず、肥料農薬を用いず、草や虫を敵としないところに私達の生命体は約束されています。

ところでこのような生命の道、人の道、農の道が明らかでありましても今日主流の化学農学、諸々の人工の生活から生命の道への移行、変革は政治による制度の改革や、一人の人間のかけ声によって、成るものではありません。政治がいかであれ、他がいかであれ、自らの気付きと目覚めによるひとり一人の内からの変革が不可欠であり、一歩一歩の実践によって初めて現実してゆくものです。政治に待つことなく、他にたのむことなく、自らの目覚めと実践が大切であり基本であります。

いろんな背景、いろんな事情があって時が流れ、人々が生きてきました。今日もいろんな人々がいろんなことをして生きています。やがて巡りは二十世紀から二十一世紀へと大きな生命の展開です。ここまでに至った私達人類ですが愚かではありません。生命からの目覚めと意識の変革がひとり一人の中で少しづつ、確実に始まっています。

主に都市生活者の中から始まりました。ほとんど生活を観ず、識らず、生命のあることすら識らずに、便利さに、安易さにと突っ走ってきた人工の都市からの目覚めです。やがては都市と農村の別なき目覚めともなってまいりました。

この新しい息吹は生命からの欲求であり選択です。数の多少を越えて尊く、生命の素を晴らしてゆく素晴らしいものであり、大切にしていかねばならぬものであります。生命の大切さを悟り目覚めからさらに実践へと一歩踏み出す、あちこちにおける確かな流れは物欲の世界を越えて生命に価値の中心を置くところの新しい文明・文化の萌芽です。砂上に栄え続ける虚構の文明はすでに退廃期に入り、崩壊に向かってなお暗闇のなかで発展へとひた走る他方で、すでに次への時代の覚者であり創造者である人々の誕生は大いなる希望です。この素晴らしい精神を宿した今はまだ小さくひ弱な人達がいかに育つかどうかでありますが、生命の始まりはもとより総て小さくひ弱です。それが誠の生命であり、真理に通じる誠のものならば必ず時の巡りと共に誤ることなき成長を自ずから いたしてまいります。

一つの生命は生まれ育ち死に、生まれ育ち死にと巡り、一つの文化・文明も誕生発展崩壊、誕生発展崩壊へと変化をくり返し巡り続けてまいります。そして生命界は死の前にすでに次への生命は用意され、崩壊の前に次の文化・文明を用意しております。環境破壊と共に人類の滅亡の予言も飛び交う今日ですが、決して人類はここで滅亡するものでない事を静かに感じさせられます。

”いのちの祭り2000年” この機にさらに多くの人々が、種々の分野において生命に価値の中心を置く生命の道なるよろこびの歩みとなることを願いこの行事の成功をも祈ります。(2000年6月16日)

以上転載終了

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

続きを読む "自然農から命の道を "

posted by noublog at : 2021年04月29日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List   

2021年04月29日

農のあるまちづくり11~良質なコミュニティ存続の秘訣

地域活性にはコミュニティが必要だ、とよく言われるが、

では「どんな活性を実現させるために、どんなコミュニティが必要なのか」
と、具体的に詰められているケースは少ない。

組織と仕組みをつくるだけでは成り立たない。
良質なコミュニティ存続の秘訣について。

 

以下、転載(「東京農業クリエイターズ」2018著:小野淳)

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

続きを読む "農のあるまちづくり11~良質なコミュニティ存続の秘訣"

posted by noublog at : 2021年04月29日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List   

2021年04月23日

現代の若者宿をつくろう・・・・宮本常一に学ぶ「自然とともにある“開かれた村”」

今回の紹介は、民族学者:宮本常一氏の活動の紹介である。(この特集は、7年前の農文協の特集記事)

農業の6次産業化を推進した今村奈良臣氏から30年前、宮本氏は、当時の多くの農村を訪れ、「開かれた農業・農村」では、活力が生起し、その結果、生み出された農村主体の様々な営みは、新しい生き方(=産業)に繋がるという事を当時の若者と接しながら実現したのである。

農業の6次産業化の神髄。前回紹介した 江戸時代の農学者:大蔵永常から更に繋がる形として 地域とそこで活動する若者の力の可能性。そこには「自然と共にある開かれた村」というまさに自然の摂理、生態系に同化した姿、そして人間の営みの地に足のついた姿を見ることができる。

今回は、少々長くなりますが、事例を交えながら、現在の農業改革にも繋がる可能性として、発信したい。では・・・・【リンク農文協2013年11月号 

転載開始 

◆民俗学者宮本常一のもうひとつの顔

宮本常一――瀬戸内海に浮かぶ山口県周防大島に生まれ、戦前戦後、日本の農山漁村をくまなく歩きまわり、地域の生業や文化、人の生きざまや村のありようをつぶさに記録し、膨大な著作を書き残した民俗学者。生涯に歩いた距離は地球4周に及ぶといわれる「歩く巨人」。

その宮本常一には別の顔がある。実践者としての顔だ。

「宮本は離島振興に情熱を傾けるオルガナイザーであり、すぐれた農業技術指導者でもあり、地域芸能の発掘、育成を通して地域活性化をはかるプロデューサーでもあり、既成概念にとらわれない手づくりの組織で若者たちに生きがいを与えたユニークな社会教育者でもあった」(佐野眞一『宮本常一の写真に読む 失われた昭和』平凡社)。

このたび農文協から発刊された『宮本常一講演選集』(全8巻、9月から隔月刊行)からはこうした多面的な実践者としての顔を読みとることができる。宮本は乞われるままに全国各地で講演をし、手ごたえのある地域は繰り返し訪ねて、その地域の振興に深くかかわっていた。昭和30年代から50年代にかけての講演を収録した本選集からは聴衆を時に笑わせ、時に叱り、時に鼓舞する――そんな生身の人間としての宮本常一が浮かび上がってくる。

なかでも第2巻『日本人の知恵再考』に収録された「現代の若者宿を求めて」(昭和51年の講演)には農業の革新や、若者の育成、農業をベースにした地域振興についての考え方がよくあらわれている。講演の筋を追ってみていこう。 

 

◆明治の農業改良は農家のネットワーク力で実現した

宮本はまず幕末から明治時代までさかのぼり、村社会がけっして閉鎖的ではなかったことを説き起こしている。

「日本の農村社会の大きな特色は、隣の村とはあまりつき合わないが、遠くへは出ていくことなのです。(中略)ひとつの部落をとって三代前くらいまでさかのぼって調べてみると、樺太、北海道、満州、東京へ行っている。つまり部落ひとつが、ずいぶん広い社会につながっていることがわかりました」

なかでも年間400万人もの人が移動した伊勢参りは民衆の交流の機会であり、農家は道中、農業や暮らしの革新につながる何かをつかんで、お土産としてもちかえった。

明治の老農として知られる奈良の中村直三は伊勢参りの人が行きかう参道近くの田んぼでさまざまな品種のイネを育て、それを見て感心する農家に種籾をもたせてやった。知り合った人のいる村に出かけて「農談会」を開き、ファンたちによる試作田が全国にどんどんできていく。こうして、奈良の小さな村の片隅から始まったイネの品種改良運動が大流行し、明治の農業を根本から変えていく。

一方、福岡の林遠里は抱持立犂を開発し、勧農社という私塾を起こして犂を使える人を育てては、それまで犂耕が発達していなかった東日本にせっせと送りだした。この犂が有効に使える田んぼに改良するために耕地整理法ができて、日本の水田の乾田化がすすめられていった。

「犂の改良は、林遠里の弟子たちが郷里の福岡で一生懸命に研究して、新しい短床犂を考えつくのです。ところが東のほうでも長野県の松山原造という人が床の短い犂を考えつくのです。ぜんぜん別のところから同じようなものがちゃんと起こってくる」

農業技術には伝播性があり、また、農家の共通の願いを背景に同時発生的でもある。これに対して、農商務省が直輸入したプラウはウネを立てることができなかったために、北海道には入ったが、本州では普及しなかった。硬直的な官製技術は大して役に立たなかったということだ。

「日本に短床犂や二段犂などが広がっていったのは、日本政府の指導ではないのです。民衆の知恵なのです。そういうことは、皆さんが勉強される書物にはあまり触れられていません。全部役人の功績になっている。日本の米が今日のように増えてきたのは、このように民衆がそれぞれの土地に合うものをみんなで話し合ってつくり出していったということがあったからなのです。けっしてひとりが自分の知恵を押しつけたわけではないのです。なんとかして、わたしはそういう歴史を書いてみたいと思っています」

 

◆現代の若者宿は可能か

さて、ここからがいよいよ若者宿の話。じつは宮本自身が同じように農業技術を伝える役割を果たしていた。

「わたしが全国を歩きはじめた頃には、そういう例がいたるところに見られました。だからわたしなども農業技術を通して村々を歩くことができたようなものなのです。こちらで新しい農業技術を勉強して、あちらに行ってそれを伝える。そしてうまくいくと『あれは偉い先生だ』ということになる。しかし、わたしはちっとも偉くないのです。伝書鳩みたいなものなのです」

その「伝書鳩」が大きな役割を果たせたのは、西日本では若者宿が形を変えながらまだまだ生き残っていたからだ。若者宿がなかったところ、廃れたところでも、若者に活力があれば、それを生み出す動きが生まれてくる。

佐渡の羽茂町(現新潟県佐渡市)では村農会技師・杉田清が八珍柿(「おけさ柿」・平核無)の普及をすすめており、宮本はこれを全面的に支援していた。ところが柿をすすめたいのはおやじ世代で、納屋を借りてエレキギターを夜通しかき鳴らしていた若者たちは酪農をやりたいといい出して、世代間の大論争になる。宮本は「両方やってみたらいいではないか。若い者は若い者でやってみたらいいではないか」と助言。結局酪農は続かなかったが、次に宮本が講演に行ったときには若者が130人も集まったという。

「みんな百姓するのか」と聞いたら、「やる」という。できれば開墾して経営規模を拡大したいという。だがおやじたちは「いまどきの若い者は腰抜けで百姓する気なんかありはせん」と、はなから相手にしない。そこで宮本がどれくらいほんとうに百姓をやる気がある者がいるのか、アンケートをとってみると、300をこえる若い人たちが百姓をしたいと思っていることがわかった。それだけ多くの若者が集まるとなると納屋ですまなくなって、町長にかけあい、公民館を建ててもらうことになった。その後、羽茂では柿が米の生産額を追い越すほどの主産物になっていく。

一方、隣町の小木町(現佐渡市)宿根木は70戸ほどの集落だが、宮本の提案で、大正9年に建てられた宿根木学校の校舎を活用し、3万点もの農具、漁具など民俗資料を集めた民俗博物館(現・佐渡国小木民俗博物館)ができた。宮本たちに感化された村の若者たちが、家々で眠っていた民具を持ち寄ってつくった手づくりの博物館である。

そんななか宿根木の5人の若者が若者宿をつくろうということになって、民家を借りた。いなかの家なので広いスペースがあり、ここに民俗博物館を訪れた全国の若者などが泊るようになり、交流が生まれていく。

「そんな具合にして、そこでごちそうになってしばらくしたら、『先生、帰ってくれ、邪魔になる』と言われ、わたしは民宿に行って泊ったのですが、彼らはそこで夜を明かしているのです。そのとき、これはおもしろいなと思いましたのは、そこで使う食器は彼らのなかのふたりがロクロをまわして自分たちでつくっている。いいですね。下手くそだけど。悪口が言えるから具合がいい。百姓は百姓だけしかやってはならないということはない。ロクロをまわしたり竹細工をしたりするのは、いいじゃないですか。そのときも若い者が竹細工をやりたいと言っていましたが、そんなふうにして若者が集まる場所ができると、いろいろな知恵や計画がいっぺんに発酵してくる」(傍点引用者)

宿根木の若者の一人は宮本によくかみついてきた人だが、「君がひとつのことに突っ込んでいったらすばらしいことができる。ここは漁具がたくさんあるから、それを集めて解説するくらいになってみろ」と励ますと、佐渡の南海岸を歩いて、古い使わなくなった漁具などを千数百点も集めた。その民具は「南佐渡の漁撈用具」「船大工道具」として国の重要有形民俗資料に指定された。

若者は「おれでも“国宝”をつくることができる」と驚くとともに自信をもち、その後は佐渡の新しい特産品開発に意欲を燃やすようになったという。

いまや佐渡を代表する農産物となった八珍柿と観光資源ともなった民俗博物館は、宮本がかかわり現在まで続く成果としてよく知られたものだ。 

 

◆“開かれた村”には若者が発酵する場所がある

この講演から学ぶことは何だろうか。ここには、地域で暮らしをつくっていく若者、そしてそんな若者を育てていく人々への熱いメッセージが込められていると思うのだ。

日本の村はもともとけっして閉鎖社会ではなく、外に向けて開かれており、自主的・自営的に農業技術や暮らしを革新するネットワーク力をもっていた。そのような革新の原動力ともなる若者の発想を押さえこんではならない。若者宿とは昔から若者が羽目をはずしながら、結束力を高め、その発想を豊かに“発酵”させていく場所である。そのような場所を、現代農村においてどうつくるかがいま、問われている。

その際、宮本が講演した時代とちがって、現代では「村の若者」というものをもう少し幅を広げてとらえる必要がある。家から離れて暮らし、ときどき帰ってくる息子や娘、Uターンや定年退職で村に帰り農業を始めた人、Iターン、地域おこし協力隊、集落支援員などよそから移り住んできた人、これらの人はみな「村の若者」である。そしてまた「村の若者」はみな優れた「伝書鳩」としての資質を備えている。

こうした「村の若者」を「新規就農者」というような狭い枠に押し込んではいけない。それでは所詮、産業競争力会議の面々のいう「企業の農業参入」以上の発想は生まれてこないからだ。宮本はこの講演の冒頭でこう述べている。

「いま、わたしが折にふれて若い人たちにいっていることは『就職するな』ということなんです。とにかく就職しないで暮らしてみると、なんとか食えるものなんです」

「大きな機構のなかのひとつの機能として動いておれば、自分の給料は上がっていくのですから、社会が完全に官僚化してしまう。官僚というのはなにも役人だけではないのです。会社がそうなっているといえるのではないでしょうか。現在そういうきざしが見えておりますけれども、そういう時代から次の時代に変革するのに、わたしは2世代かかると見ています。いま育っている人たちの時代でも駄目。もうひとつ次の世代の人たちによって、ほんとうのものがつかまえられるのではなかろうかという感じがします」

いま農家のあとをつぐ若者や農村に入っている人は、ほとんどは役所や会社の歯車になりたくないという人ばかりだ。まさしく「ほんとうのものがつかまえられる」世代が、いま農村に育ってきているのである。 

 

◆自然の側から人間を見る 「柔社会」としての自給社会

それでは、宮本のいう「ほんとうのもの」とはなんだろうか。それをひと言でいえば、「自然の側から人間の暮らしを見る」ということだ。この点は本選集の「生活文化研究講義」(第1巻収録)に詳しい。そこには日本の生活文化や伝承技術の根幹にかかわる知見が凝縮されている。

たとえば「繊維と染織」では、日本人の生活文化の基本を「茎皮繊維」というキーワードでダイナミックにとらえていく。衣についていえば、貴族は早くから絹を利用しているが、庶民はずっと藁、麻、カラムシなどの茎皮繊維を身にまとい、それは江戸時代に綿が入るまで続く。茎皮繊維で住もまかなった。稲の茎である藁は蓑や藁靴、草履、草鞋など身にまとうだけでなく、壁土、筵と藁蓋、畳など、住まいやインテリアのあらゆる場面で使われている。

この講演録を読んだ法政大学教授の田中優子氏は「自然の側から人間を見た人」と冠し、「宮本常一は布を藁の話から始めた」という書き出しで、この講義のエッセンスを簡潔にまとめている。

「人間の衣類を食べ物と切り離してはならないし、それは道具や住まいとも、素材において同根なのである。人間は本来、自分がいる環境から恵みを得て生きてきた。それを食べてきた。食べ物を栽培あるいは育成するようになったとき、食べられない部分があれば、それを棄てずに着る物や住まいや生活の道具にしてきた。衣食住を同時に育てるのである。これほど合理的なことはない」

自然の側から考えるとは、食をベースにして素材を生かす技をはりめぐらせ、自給社会を実現することだった。その素材とは米食日本では藁であり、肉食ヨーロッパでは皮革となる。しかし、皮革とちがって藁は加工に刃物を必要としない。そのことが闘争的でない「柔社会」のもとになり、技術の伝承に特別な師弟関係を必要としないことが、日本人の器用さのおおもとになっていると宮本は考える。

「日本の村構造の基本において、たいへん柔軟なものを持っておったことが、日常生活のなかにそのまま出てきて、自分の手でできるものは自分らでつくり上げていくという、いわゆる自給社会が成立していた。自給社会というものはそういう柔軟な社会の環境がないと出てこないものなのです。誰かに統一せられている社会では、むしろ逆のものが生まれてきます」(「柔社会を生み出したもの」第1巻収録)

日本の村社会では、明治の農業技術の伝播でみたように、地域自然を生かす方法を、他の地域の人から学んでいた。イネの品種も犂耕も、他の地域と交流しながら自分の地域に合うようになじませていく。そのような開かれた柔社会でこそ自給が実現するのだ。それを現代技術をも駆使して衣食住で展開することが、「百年後の人たちに誇りうる真の文化」の創造につながるのである。

 

◆外とつながり、価値と雇用を生み出す

震災からの復興や地域再生も、このような自給に基づく文化の創造と切り離して考えることはできない。

佐渡の羽茂町と並んで、宮本が繰り返し講演に出かけたのが山古志村(現新潟県長岡市)であった。本選集には昭和53年に4日間にわたって行なわれた講演が収録されている(「活気ある村をつくる」第5巻収録)。そこで宮本はこう述べている。

「現在村を支えている青年層や壮年層の人々が中心になって、息子や孫の時代の基礎づくりをする」

「山古志は恵まれた自然、錦鯉、牛、文化財など、観光あるいは産業として発展させることができる要素をたくさんもっておる。これらの地場産業をいかに発展させていくか、お互いに関連づけ、雇用の機会を増やし、それによっていかに自分たちの生活向上に役立てていくか、そういったことを、『核』つまり共通の目的をもった仲間をつくって問題に取り組んでいくことが、今の山古志では大切なんです」

----------------------------------

宮本はこの講演でさまざまな具体的な提案もしている。畜産は濃厚飼料に依存せず、飼料自給の基盤をつくること、安易な工場誘致をしないこと、錦鯉を生産するだけでなく、錦鯉の文化を日本に広め、「錦鯉の里」として山古志の名を売ること、模型づくりや民具の保存によって山古志の風土と文化を見直すこと、山や農業の資源に誇りをもち、それを価値化して観光とつなぐこと、その観光の基礎には風景と特色ある食があること、などなど。いずれも思いつきではなく、長年通い続け、住民と膝をまじえて話し合うなかで形にしてきたことだ。

山古志村はこの講演が行なわれた26年後の平成16年10月23日、中越大震災に見舞われ、全村民避難を余儀なくされる。その山古志村が多くの困難を乗りこえて、牛の角突き(闘牛)や棚田での米生産や錦鯉生産を復活させていったベースには、宮本が繰り返し説いたふるさとの自然と文化への誇りと、それを「息子や孫の代に引き継ぐ」強い意志があったに違いない。

以上転載終了

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

続きを読む "現代の若者宿をつくろう・・・・宮本常一に学ぶ「自然とともにある“開かれた村”」"

posted by noublog at : 2021年04月23日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List