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2021年11月12日
『農村学校をつくろう!』シリーズ-11~現実の課題の中で、自らが主体となって動く中でしか人は育たない
前回の記事では、人間本来の潜在能力を開放する自然の力について書きました。シリーズ5で、農業の場が、人の気持ちを前向きにし、人間本来の追求心を開放したり、人と関わること、役に立つことによる充足を感じる力を解放するのと似ていますね。どちらも、自然を相手にしたとき、”しんどい””めんどくさい””嫌われたらどうしよう”などの余計なこと(観念)を考えている暇がなくなり、目の前の課題や対象(自然・人)に意識が没頭するのがポイントなのでしょう。
今回は、これまでシリーズでお届けしてきた記事の中間総括を行いながら、これからの社会に求められる農村学校とは?を改めて整理し、ポイントを抽出してみたいともいます。
■農・自然を舞台にした教育を実践する先進事例
シリーズ3~シリーズ6,シリーズ10では、農村や農を核に、学びの場を提供している事業事例を見てきました。
まずは、自然や農の場が、人間の本来の追求心や潜在能力を開放する力を持っていることがわかり、人材育成の場としての可能性が見えてきました(シリーズ5,10)
さらに、自治体が取り組む農村留学や、個人や企業が手がける塾や学校、そして、自治・企業・地域が一体で就農定住を促進している事例などを取り上げながら、本来の人材育成・地域活力再生に必要な学校のイメージを固めました。
そこでわかったことは、
農をどうする?という明確な答えはなく、常に未知課題を追求し、理論化していくことが、学びそのもの
そして
従来の学校のように「教える・教えられる」場ではなく、設立者と参加者の志が重なり、追求することが、学校の本分
ということでした。
■本来の「学び」とははにか?
シリーズ7~シリーズ9では、より根源的な「学び」とはなにか?を求めて、中世~近世の人材育成の仕組みについてまとめました。
中世~近世の子供たちは、仕事をしている大人のそばで過ごしながら真似をして遊び、その中で生きる術を身につけました。生きる上で必要な学びは「真似」ですべて身に付けているのでした。
また、江戸時代には「子供組」「若者組」「娘組」といった自治組織がつくられ、それぞれが集団をつくり、維持していくための役割を担っているのでした。生産だけでなく、生殖課題までも包括する、集団全体の課題をそれぞれが担う中で子供たちは成長していきました。
そして、そういった子供たちの活動に対し、大人や親は干渉したり管理せず、子供たちの自治に任せていること。逆に、誰に与えられるのでもなく、子供たちは自分たちの生きる場を自分たちでつくっているのがポイントです。
画像はこちらからお借りしました
ここまで見てきて、農業の場や自然を舞台にした学校は、「生きるために必要な力」を身につけるための場として非常に可能性があるということを強く感じます。
しかしながら、その場は、やはり既存の「学校」のイメージとはかなり違っていると感じています。
特に、企業や自治体といった他者が提供する「○○学校」や「○○塾」は、どうしても「プログラムを与えられるもの」になりがち。上記で見てきたように、学びの本質は「志を共にするものとの追求」です。
おそらく、(集団を作るなどの)現実の課題に向き合い、自らがその課題・集団の主体となって動く中でこそ人は育つのだと思います。
おぼろげに見えてきたのは、これから求めらる農村学校は、プログラムに参加して何かを教えてもらうのではなく、むしろその学校自体を子供たちが作っていく、もしくは、現実の仕事を担うというような創造的な場であるべきということです。
次回からは、農村学校のもうひとつの狙いである、地域活性につなげようという事例を調べていきたいと思います。
集団自治という観点から、地域に人材を輩出するということも担うことが必須と考えますが、農村学校にその可能性はあるのかを見ていきたいと思います。
投稿者 o-yasu : 2021年11月12日 TweetList
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