2021年11月23日
2021年11月23日
「農の歴史」シリーズまとめ~歴史に学ぶ農の可能性と危険性
(最初に立てたテーマの構成)
1.農業の起源
2.林業・漁業の起源
3.日本への農業の輸入
4.村落共同体の起源
5.江戸時代、農民は百姓と呼ばれた。
※6.戦後大きく変わった農業生産と共同体。その変遷と現在を見ていく。併せて林業、漁業の現状にも触れて、次の世代の可能性を考えていく。(このテーマは次回)
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この間、11の記事で「農の歴史」を追求してきました。様々な疑問にチャレンジしてきました。
・そもそもなぜ農業は始まったのか?なぜ縄文時代には農が普及しなかったのか?
・それがなぜ、どうやって日本に定着したのか?
・農の中でも中心的な稲、麦とは何か?
・農によって日本人はどのように移り変わったのか?
・稲作を中心とした日本人の気質はいつどのように作られたのか。
・江戸時代に拡大した農業の実態とは何か?
以上から見えてくるのは急速な寒冷化と人口圧といった気候変動と集団の関係の中で農業は登場し、常に戦争や搾取の圧力と集団をどう作るかという課題の中で存続していきました。日本の農業が成功したのかどうかは歴史を見るだけでは結論は出ませんが、一時(とき)江戸時代の農業と自然、集団のありようは農の一つの成功事例であり、今後の農を考える可能性の緒かもしれません。たった11の記事で農の歴史が紐解けたとはとてもいえませんが、農を考えるきっかけをいくつか提供できたかと思います。農に限らず、いかなる追求もまず歴史構造からという意味でこの最初のシリーズを終了させていただきます。
※下記に全記事をダイジェストで紹介します。詳しく読みたい方はぜひタイトルをクリックして読んでみてください。
人類が農耕を始めたのは、1万5000年程前(人類史でいう、「後期旧石器時代」)から始まる「ヤンガー・ドリアス寒冷期」がきっかけとされています。しかし、寒冷期と人口圧の増加は、周囲の環境を一変させ、深刻な食糧不足に人類を追い込んでいきました。そこでやむを得ず始めたのが「農耕」というわけです。
土地を読み、天候を読み、時間を管理する「農耕」は凄まじい追求力と観念体系を人類にもたらしたでしょう。しかし人類にとって農耕はいいことばかりではなかったようです。
農耕は、「備蓄」や「保存」を可能にしました。そして年代が進むと、人類はついに牧畜を行うようになります。そこで初めて生まれた意識が「私有意識」だったのではないでしょうか。「私有意識」はやがて集団同士に亀裂を生んでいきます。もし農耕が戦争を引き起こすと知っていたら…「労働」制度が生まれ、余暇が失わ農耕は人類にとって進んでやりたいことではなかったのかもしれません。
農業、林業と比べて漁労の歴史は格段に古い。その意味では漁労とは農業や林業とは全く異なる歴史を辿って来たと言える。
漁労とは狩猟、採取、漁労という3つの枠に入る人類で最も古い生産様式の一つを引き継いでいる。ところが漁業となると農業が1万年前に比べるとかなり歴史は浅く、せいぜい1000年前、つまり市場の歴史が漁業の歴史でもある。しかし、一方で漁業やそれに従事する漁師がその後に発生した工業や商業と比べて本源性を維持し、漁業という集団を自治し、海や川という境界のない世界で互いにルールを決めて自制していた事は特筆に値する。市場に巻き込まれながらも近年においてさえその制限を守り、海に入るときには古くから入会という独占を制限する習慣を有していた。
地球上のあらゆる産業が際限なく発展し、自然を破壊し、自らの生きる場を改悪したのに対し、海で生きる漁師はそれに抗い、自然の摂理の中で生きることを知っていた。
一般的に小麦は乾燥地帯にも適応できる強い作物。稲は十分な水を要する作物とされています。それが民族ごとの労働観に繋がっているという指摘があります。小麦は水が少なく、傾斜した地でも育てることが可能です。そのため、どれだけ耕地面積を増やせるかが生産性に直結します。一方稲は、多量の水が必要で、平らな場所でないと育ちません。日本の原風景である美しい棚田も、傾斜な土地を平らにして水を張っていますね。
簡単に言ってしまえば、稲の方が手間が掛かるのです。個人で土地を平らにして、水を引くのは至難の業で、周りの人との協力が欠かせません。また、定期的な水の入れ替えや苗代づくりや雑草刈りなど…生産意欲がなければ、とてもやっていけません。
これらのことから、小麦作の地域では「個人主義」や「奴隷制度、機械化」が定着していくのに対して、稲作の地域は「相互依存性、集団意識」や「勤勉」が重要な規範となったという分析があります。
江戸時代の始まりは日本中の山々は殆ど禿山でした。樹木を得るために既に本州には木がなく北海道まで遠征した。結果北海道の山まで殆ど禿山になった、現在の日本の風景とは全く異なる日本があったそうです。
禿山と林業、大いに関係があるようです。つまり林業とは木を切って売る業ではなく木を植える植林がはじまりでありその本質のようです。
植林の始まりは室町からと言われていますが、実はもっと昔、奈良、平安時代から植林は進められており、676年森林伐採を制限した法制ができた辺りからかと思われます。自然の資源は限界があり、取りすぎない、循環の中で恵みを得るという発想は元々縄文時代から我々日本人のDNAに組み込まれており、江戸時代になぜ国家事業として成し得たのかは、徳川の力というより、縄文体質を持った徳川が日本人の本来持っていた価値観に訴える事ができたからではないかと私は思います。
【農の歴史】第5回 縄文人は農耕をなかなか受け入れなかった?
狩猟採集民は自然に対して常に「何が起こるか分からない、未知の存在」として認識しています。時には恵みを与えてくれる感謝の対象であり、時には災害をもたらす畏れの対象です。人々はそうして常に変わり続ける外圧に「今」「どうする?」をひたすら考えているのです。あくなき自然への同化追求=一体化追求が意識の根底にあるとも言えます。
それに対して、農耕民族にとっての自然は、(未知は未知なのですが)ある意味「こうあるべき(こうあってほしい)」という「正解」を探る対象です。ここで言う未知とは、「あるべき理想との差」のことであり、追求とは「あるべき正解に正す」行為と言えるかもしれません。
余談ですが、農耕牧畜は私権意識⇒略奪戦争の起源という説がありますが、この、「自然を人間のために“正す”」という意識は、自然を支配し、破壊する近代科学につながっている可能性もありますね。
【農の歴史】第6回 日本農業の歴史~、農業は渡来人支配の歴史でもあり、共同体温存の歴史でもある。
農業の始まりから拡大まで~
稲作を中心とする農業とは渡来人の縄文人支配の為の道具であり、それを受け入れた縄文人もまた舶来思考、受入体質故に、そのやりかたに巻き込まれていった。そこに巧みに神社を使い稲を神格化していったという歴史がある。つまり稲作の歴史とは支配から始まっている。しかし、一方で大衆側(縄文人)は決して搾取という意識では捉えておらず、ありがたい恵みとして稲を迎え入れていく。その後 縄文人集落は農業によって惣村という形で共同体として温存されていき、農業は支配の歴史の裏返しとして日本人の共同体温存の歴史でもある。
【農の歴史】第7回 惣村の歴史は農村の歴史~日本独自の村落共同体の原型
鎌倉後期から自生した惣村は後に江戸時代まで続き、さらに明治以降も農村自治はこの惣村の延長によって続いていきます。
惣村の原理とは・・・
・「一致団結」
・自衛集団から自治集団へ
・リーダーによって構成される宮座という祭祀集団に依る運営
・寄合が最終決定で全員参加が原則
・全てのルールを自ら決めていった
・目的は戦乱や犯罪から村人の命や財産を守る
・団結を守るために村内の掟である惣掟を定め掟を破ったものは厳しく処罰された。
惣村そのものが、政治の三権を全て担って自らの生きる場を自ら作っていった、まさに縄文時代の共同体が農と中世の危機によって復活していったのです。このような事例は世界でもおそらく日本だけです。農業にその力があったのか日本人の本来持つ縄文体質(協働性)にその力があったのか、議論が分かれるところですが、水田稲作というのは麦作文化と違って奴隷根性や労働管理された中では生産性は向上しないということの現れだと思います。後に江戸時代に惣村の最小単位が家族単位まで分割された小規模農業は最大の効率と品質を上げていきます。
【農の歴史】第8回 江戸の農~”いつから・なぜ”農民は百姓になったのか
百姓は百の業なだけでなく、百の作物であり、そのためには徹底した自然への同化、追求、知恵に長けて、ゼロから有を作り出していく存在といったところでろうか。いずれにしても専門分化した現在の職業人とは全く別のベクトルを求められた万能人だったのだと思う。それが江戸時代、小農制の中で生み出された新しい農のありようだったのではないか。
総じて江戸の農業化は小農化⇒勤勉化⇒多職能化⇒高度化。
それを支えたのは農業全書や地域の農業を中心とした人の繋がりであったと思われる。これは市場化に刺激を受け日本人の勤勉、惣村を中心とした地域連携等様々な集大成が江戸で完成したと見られる。
その中でおそらく農が日本で初めて、そして最後に商売になった。江戸の農業がどうやって市場経済に載せたか、現在とはまったく異なる視点がありそうな気がする。江戸の農とは大衆の能力革命を起こしたのではないか?=それが最初に提起した「百姓」という言葉に象徴されているように思う。
【農の歴史】第9回 江戸の生産革命を支えた組織体制「五人組」とは
江戸の農は小農化→勤勉化により、生産性を大幅に伸ばしたことが分かってきました。これを「勤勉革命」と言いますが、この言葉は西洋の「産業革命」と比較して、経済学者の速水融氏によって提唱された言葉です。
江戸の農家は小農化に進みました。その中で生まれた「五人組」という制度について、最近の研究で明らかになりつつある内容を紹介します。
・「五人組」は教科書に書かれているような「お上から”相互見張り”のため強制的に組まされたが、ほとんど機能しなかった」組織ではなく、百姓自らが自主的に組み立てていった制度である。
また、その中身は、〝見張り”というより、“共済”の色合いが強かった。“共済関係”から外れるような行為や態度に対しては厳しい処罰(村八分など)が設けられ、そうなれば農業を営むことができなくなる
これらのことから、五人組とは一言で、「助合」の精神を基礎とした、自我を許さない強固な自治組織だったと言えるのではないでしょうか。
【農の歴史】コラム 古代から受け継がれる焼畑農業~農業を森の生態系に組込む仕組み~
【農の歴史】コラム 共同体持続の鍵となった水田稲作~自然と人に“開かれた”自給システム~
農ブログは近日中にまた新しいシリーズを3つ立ち上げます。ご期待ください。
投稿者 tano : 2021年11月23日 Tweet