2021年11月18日

2021年11月18日

【農の歴史】第9回 江戸の生産革命を支えた組織体制「五人組」とは

前回の記事「江戸の農」より、江戸の農は小農化→勤勉化により、生産性を大幅に伸ばしたことが分かってきました。
これを「勤勉革命」と言いますが、この言葉は西洋の「産業革命」と比較して、経済学者の速水融氏によって提唱された言葉です。

こちらの記事に言葉の意味が紹介されています。

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・産業革命のお膝元イギリスなどの場合、技術発展の方向は、資本を絶対的にも相対的にも増加させ、逆に労働の占める比率を低下させるという方向ですすんだ、つまり、一単位当り投入される資本/労働の比率を高める性格のものであったが、日本は逆に、資本ではなく、より多くの労働力を投入して長時間激しく働く方向に進んだという。速水は、この日本式の「より多くの労力を投入して生産量を増大させた」方式を、道具による改革である産業革命になぞらえて、「勤勉革命」と名付けた。

「勤勉革命」の特徴は、なによりも、その労働が強制されたものではなく、農民たちの自発的な意志によって進められたところにあるとしています。つまり、年貢などの負担が大きいためではなく、農民がより多くの収穫を目指して自発的に勤勉になっていったというわけです。

この結果として、農民は隷属的な身分から解放され、農業経営に対して自身が責任をもつシステムになり、農業経営はもっぱら勤労によって維持・発展されてきた「このような経験は工業化に際して大きな利益として作用した」と述べ、「一国の国民が勤労的であるか否かということは歴史の所産であり、日本について言うなら、それは17世紀以降、現在に至る僅々数百年の特徴なのである」(同)とまとめています。
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では、江戸の農民はどのように勤勉革命の要となる「自発性」を高めていったのでしょうか。それを支えた要因の1つとして「組織体制」があります。
江戸の農家は小農化に進みました。その中で生まれた「五人組」という制度について、最近の研究で明らかになりつつある内容を紹介します。

画像はこちらよりお借りしました。

五人組の実態についてこちらのページで詳しくまとめてあります。

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・深谷自身は、「しかし近世では、卓越した富裕 者の富の社会還元のほかにもう一つ、「民間」の世界が持つ自己救済力としての居村の内の 相互「助合」をあげなくてはならない」とし、近世日本の「百姓成立」は被支配者相互の共済によって支えられていたことも重要視している。

要するに、村や家は「共済組織」であると 深谷は言いきっているのである。こうした村の共済を支えていた制度の一つが、4~8軒の家から構成される五人組である。五人組は 日々の生活扶助や労働交換や村に対して年貢の納入責任を負い、また組の構成員の寄合の 出欠にも責任を負った。教科書では幕府によって相互監視のため農民に押し付けられたとされる五人組であるが、実は農家にとって生活を営む上で必要不可欠な存在であった。五人組は公権力によって強制された形式的なものにすぎないという従来の通説に対し、最近の研究では五人組の評価は大きく変わっている。

渡邊忠司は近畿の村で耕作用の牛を共同保有する「牛組」が中世から近世にかけて存在し、またその牛組が五人組とオーバー ラップする場合が多かったということを指摘している。つまり、5戸程度の農家による相互扶助のための組織は地域社会にもともとあったシステムであり、政策によってトッ プ・ダウン方式に農家が組織されたと側面だけを強調する従来の研究史の認識には無理があると言っていいだろう。五人組はトップ・ ダウンの運動によって作られたものではなく、地域社会に中世から存在したボトム・アップの運動の成果を公権力が巧みに利用したと解釈する方が妥当なのではないだろうか。

本稿の読者であれば、誰しも「村八分」という単語を一度は耳にしたことがあるだろう。村落共同体による、村のルール(「村掟」 「議定」)を破った個々の農家への制裁のことである。通説では、「村八分」は家族ぐるみ公私にわたる一切の交際を絶たれ、葬式や火災に際しても村人の助力を得られない状態を指す。煎本増夫は「五人組を除かれると農業経営が不可能になるほど、五人組が村落生活に欠くべかざる存在になっている」とし、五人組が相互扶助組織として機能していたことを主張している。要するに、五人組は農家が経営の安定を計る上で、村よりも直接的に必要不可欠な組織であるというのである。煎本は相模国足柄下郡堀之内村(現在の小田原 市大字堀之内)の寛文二年(1662)の「五人組定書」の条文に「五人組の入申さず候者、 郷中に置き申すまじく候事」とあるのを紹介し、日本近世においては、その「村八分」は「組はずし」、つまり五人組からの除名と同義であったとする。「組はずし」が制裁になりうるためには、五人組が実際に機能し、相互扶助や安全保障の組織として農家経営の安定化に寄与していなければならない。古い通説のように「五人組制度が頗る形式的なものに過ぎず」、「五人組の編成も殆ど帳簿上のことだけであり、実際問題としては、ほとんど意義をなさなかった」のであれば、「組はずし」は制裁になり得ない。
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まとめると、

・「五人組」は教科書に書かれているような「お上から”相互見張り”のため強制的に組まされたが、ほとんど機能しなかった」組織ではなく、百姓自らが自主的に組み立てていった制度である

・また、その中身は、〝見張り”というより、“共済”の色合いが強かった

・“共済関係”から外れるような行為や態度に対しては厳しい処罰(村八分など)が設けられ、そうなれば農業を営むことができなくなる

 

これらのことから、五人組とは一言で、「助合」の精神を基礎とした、自我を許さない強固な自治組織だったと言えるのではないでしょうか。
そして「農業全書」のようなハウツー本も初めて流通し、技術力も格段に向上しました。

江戸時代とは、資本によって産業革命を果たした西洋と並び、五人組のような自治組織が社会を支えた、高度な生産力を持つ時代だったのです。

投稿者 ideta : 2021年11月18日