2021年11月9日
2021年11月09日
江戸の農~”いつから・なぜ”農民は百姓になったのか
江戸時代に農民は百姓と呼ばれるようになった。かつての百姓は百の姓=多くの人という意味で使われてきたが、江戸時代の百姓は意味が異なる。本百姓から水飲み百姓とその百姓にも違いがあるが、百の業=つまり何でもできる万能の民を称して百姓と呼ばれるようになった。そこには江戸時代の農業の実態、農業を通じてどのような能力を人々は求めたのかが透けて見えてくる。
るいネットに百姓について書かれた記事があった。これも参考になる。
>百姓といえば、佐藤さんの名刺の肩書にも百姓と書かれていますが、農家じゃなくて百姓なんですね。~
百姓は百の作物を作る人。米作り、野菜作りはもとより、微生物学、栄養学、気象・天文学などに通じる知恵を駆使し、土作りに始まって炭焼き、牛飼い、養蚕、大工までをこなす人間です。そうした百姓が集まり地域自給、村落共同体を再生しようと、木次の自然を大切にしながら仲間作りを続けてきたわけですが、私なぞはまだまだ未完の百姓です。
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つまり百姓は百の業なだけでなく、百の作物であり、そのためには徹底した自然への同化、追求、知恵に長けて、ゼロから有を作り出していく存在といったところでろうか。いずれにしても専門分化した現在の職業人とは全く別のベクトルを求められた万能人だったのだと思う。それが江戸時代、小農制の中で生み出された新しい農のありようだったのではないか。
江戸時代の農業の変化は市場経済への参入と技術の高度化、さらにそれを背景にした小農世帯の成立にある(リンク)
>現代は4人家族、5人家族といえば当たり前だが、この核家族という構成は江戸時代の小農世帯から始まっている。それまでは農業はムラ、大きな集団で協働で行うものだったが、江戸時代の徳川幕府による農地拡大政策の浸透、さらに農業が市場経済へ踏み込んでいく中、集団も又それまでの大規模から小規模へ、農業技術も品種改良や農業全書の普及から広く一般的に定着していった。
著書「文明としての江戸システム」の中に小農世帯の成立という記述があり、この時代の史実として紹介しておきたい。
諏訪郡の平均世帯規模は1700年には13人を超えたが、1750年には平均5人へと変化している。その後世帯規模は1850年代まで平均で4人~5人の間を推移している。
重要なことは世帯規模が縮小しただけではなく4人~5人からなる世帯の集中が見られた事である。これは市場経済化の浸透に伴って隷属労働者を抱えたり、傍系親族を同居させるなどして大規模な経営をおこなうよりも,直系家族からなる世帯を経営単位とする、労働集約的な小家族経営が有利と判断されたためである。
畿内先進地帯では17世紀初期にすでに農家世帯の人員が小規模になっていったようであるが、同じ時代に九州や信州ではまだ大規模な世帯と不均等な世帯規模の分布が残っていた。こうした事例から農業世帯の構造変化は市場経済の進展にともなって、ゆっくりと全国へ拡大していったものと想像される。
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結婚、独立、家族形成もまたこの時代に始まっていく。労働力を増やすために多産になり、持続的な江戸時代の人口拡大が起きていく。またこの時代に市場経済と共に注目すべきは農の技術革新である。様々な品種改良、農業技術のノウハウは江戸時代中期に宮崎安貞著による40巻の農業全書にまとめられていく。寺子屋同様に多くの農民に読まれたこの著は様々な栽培種を絵付きで解説し、おそらくは日本初のハウツー本として迎え入れた。
総じて江戸の農業化は小農化⇒勤勉化⇒多職能化⇒高度化。
それを支えたのは農業全書や地域の農業を中心とした人の繋がりであったと思われる。これは市場化に刺激を受け日本人の勤勉、惣村を中心とした地域連携等様々な集大成が江戸で完成したと見られる。
その中でおそらく農が日本で初めて、そして最後に商売になった。江戸の農業がどうやって市場経済に載せたか、現在とはまったく異なる視点がありそうな気がする。江戸の農とは大衆の能力革命を起こしたのではないか?=それが最初に提起した「百姓」という言葉に象徴されているように思う。
投稿者 tano : 2021年11月09日 Tweet