2009年10月31日

2009年10月31日

新しい「農」への途(1-5)――戦後農政の超克――)

新しい「農」への途(1-4) の続きです。
今回は、農協問題をみてみます。
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★近代日本史は、政党や官僚勢力の拡張競合の歴史
「日本の近代史は、政党や官僚勢力が、いかに「地方」へと影響力を拡張させるかの競合の歴史。」と云われます。戦前期に最大の農業者団体であった「系統農会」も、国と農業者をつなぐ回路であり続けました。
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1899年、農会法により、農会が町村・郡・府県に系統的に設けられる。
1910年、系統農会の中央機関として帝国農会が法制化される。
1922年、新農会法の施行によって、会費の強制徴収が可能となる。
1943年、産業組合などの農事諸団体とともに農会は農業会に統合される。

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◆帝国農会は、内務行政とは独立した農林省のパイプ(1899年~1922年)
農会が目的としたのは、直接経営農民の農家生産の安定そのものでした。農林省は、「個別の農家の経営・生活の改善にまで踏み込んで指導する」ことを国家的事業と位置付けました。両者の意図を具体化するものが、技術員指導網でした。
1922年の新農会法の施行によって会費の強制徴収が可能となるや、[帝国農会]―[道府県農会]―[郡市農会]―[町村農会]の系列からなる技術員指導網が一元化して成立する契機となり、系統農会は、国家と農業経営者をつなぐパイプとしての方向性がより強調されました。
系統農会は、技術員網を張り巡らせることで、内務行政とは独立した系統組織を確立することに成功しました。それは、農林省の指導網が整備された、ということでもありました。
◆農家経営改善の終焉と内務行政の巻き返し(1922年~1943年)
1920年代には、「農家経営改善をすることこそが『公益』であり『国家的機関』のなすべきこと」と位置づけられてきました。ところが、戦時期には、「農家の経営改善は『私経済』の改善に過ぎず、増産要求という『公益』の前には「私益」に過ぎない」とされました。
系統農会は、その根底が覆されて系統的な技術員網を維持することができなくなります。1943年に実現した農業団体統合の過程で、内務省系統の統制の下に、農業団体は組み込まれていきます。
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▲映像はここからお借りしました
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★農協はその生い立ちから食管制度に組み込まれていた
———————(Wikipedia)——————-
1900年、産業組合法により、産業組合が設立される。
1906年、産業組合法が改正され、兼営(信用・購買・販売・利用)が可能となる。
1933年、農村負債整理組合法公が布され、
    国庫からの低利融資の受け皿として集落単位の負債整理組合が設立される。
    その大半は産業組合が担った。
1943年、農農業団体法が成立した。
    →中央では帝国農会・産業組合中央会などが解散し、中央農業会・全国農業経済会に再編された。
    →地方においては農会・産業組合などが解散、市町村・道府県単位で農業会に再編され、
     協同組合から戦時統制団体へと転換した。
    産業組合中央金庫は農林中央金庫に改称した。
1945年、中央農業会など農業会の全国組織は、戦時農業団として統合され、全国農業会と改称。
1948年、農業会はまでに農業協同組合へと移行した。

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>JAの前身である戦前の産業組合は、当初地主や富裕農家を組合員とする信用(金融)事業のみを行う自発的な組織だったが、昭和の農業恐慌に対処するため、農林省により全ての農家を組合員とし信用事業だけでなく資材購入、農産物販売等の事業を総合的に行う組合が全国に設立された。
>さらに、終戦直後食糧難で米等の政府への供出が緊急課題だったため、政府は戦時中産業組合と地主階級の政治団体を統合して作った全戸加入の統制団体を農協に衣替えさせ、食糧供出機関として利用した。
>こうして、農民の自発的組織という形をとりながら、全国各地に地域の全ての農家が参加し、農業・農村についてのほとんどの事業を担当する、世界にも珍しい、“官製”の“総合”農協が誕生した。(山下一仁氏)

(さらに…)

投稿者 staff : 2009年10月31日