2007年12月6日

2007年12月06日

「黒ボク土」って、何?(3)稲作の広がりを阻んだ”黒ボク土”

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最後に、水田稲作の伝播と土質との関係から、興味深い考察がありましたので、抜粋、要約します。

日本の最も古い水田の遺跡は、九州北部の玄界灘沿岸の平野に集中していますが、これは、土の性質との関係が極めて深いのです。すなわち、九州北部のこの地域は、朝鮮半島から近いということもありますが、この地帯の土は火山灰の影響が少ない玄武岩や花崗岩の風化した土であり、水稲が作りやすい土なのです。
九州北部の、水田に適した土は、国東半島で途切れてしまいます。これより南は、火山灰の堆積が多くなって、「黒ボク土」という当時の水田稲作には適さない土となるのです。
宇佐まで到着した水田稲作は、それより南下することを阻まれたため、海を渡って瀬戸内海へと展開していったのでしょう。花崗岩や水成岩からできたケイ酸質の土からなる瀬戸内海両岸の平野は、黒ボク土がなくて、初期水田の定着のための絶好の条件を備えていたということです。このため、瀬戸内海の平野部では次々と開田が進んで、稲作はすみやかに東進して、今の大阪府、奈良県付近まで短期間で到達したと推定されています。そして、畿内地方もまた黒ボク土はなく、ケイ酸質の土が広く分布していたため、水田稲作はこの地に定着して、大和朝廷が樹立するための基礎となったと考えられます。
また、さらに東進した水田稲作が、静岡付近でかなりの長期間にわたって停滞したことが知られていますが、静岡東部の平野から北には日本列島に横たわる大きな黒ボク土の壁があります。この壁に阻まれて、水田稲作の拡大はここで停止し、関東地方やそれ以北への伝播が遅れたと考えられます。
最近の調査では、北陸地方や東北の日本海側にも古い水田の遺跡がいくつか見つかっています。しかしこれは、九州北部から対馬海流にのって直接北へ伝播した水田稲作であろうと推定されています。そして、この地方もまた、稲作に適するケイ酸質の土からなる平野が広がっていたため、稲作はすみやかに定着しながら裏日本を北上していったものと思われます。
(土と人のきずな/新風舎刊より抜粋、要約)

     by馬場
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投稿者 sbaba : 2007年12月06日