食糧問題の背後にある問題とは!? |
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2009年10月10日
新しい「農」への途(1-2)――戦後農政の超克――
前回(http://blog.new-agriculture.com/blog/2009/10/000996.html)に次ぐ第2回目です。
◆農地改革は、日本側の自発的な意思で着手された
マッカーサー連合国軍総司令官は幣原喜重郎首相に、民主化のための五大改革を要求しました。そのは、①女性の解放、②労働組合の結成奨励、③学校教育の民主化、④秘密審問および民権を制限する司法制度の廃止、⑤経済機構の民主化ですが、「経済機構の民主化」の中には農地改革をイメージしていなかったようです。
にも拘らず、農地改革がいち早く実現されたのは、日本側の自発的な意思として着手されたから、と云われます。それは、日本経済全体にとっても農村社会にとっても、地主制の見直し・解体が日本の近代化には避けて通れない問題という認識が戦前からあったからに他なりません。
敗戦の処理・対応という極度の外圧が加わった時でさえ、一方的な強制圧力だけでは追共認は成立し難たく、内政的な課題意識があったらばこそ、国内の合意形成を可能にしたということではないでしょうか?
▲1945年11月14日毎日新聞の一面記事
農林省の農政課長だった東畑四郎(のちに農林事務次官)は、11月12日にGHQ天然資源局(NRS)に赴き、まだ閣議にもかけていない農地改革の農林省原案を説明したら、「特に異論はない」という回答を得たことに気を良くしました。その帰路に外国人特派員に呼び止められ、彼との質疑応答内容が翌日の毎日新聞の1面を飾ったスクープになったそうです。
この場面でも、新聞記者による一方的な「出し抜き」ではなく、東畑にとってみれば政治的な局面を突破するために「リークした」という匂いを感じます。このスクープ記事が事態を急変させたわけですから・・・。
◆幻の第1次農地改革
農地改革を実行するための最初の農林省事務当局案は、遡る事10月13日にはまとめられていたといいます。東畑がGHQ天然資源局(NRS)に説明した農地改革の要綱案は、11月16日の閣議にかけられました。
不在地主の土地は平均3町歩(北海道は12町歩)にするという原案が、閣議では在村地主の小作地保有限度を5町歩に修正されたにも拘わらず、農地調整法改正案は12月4日に提出されますが、地主側の勢力が強い旧憲法下の議員たちの抵抗にあって予想通り難航しました。
このままでは審議未了に終わることが必至とみられていた12月9日、マッカーサー連合国軍総司令官が「農地改革に関する覚書*」を発表し改革の早期実現を促したので、事態は急変します。GHQの権威は絶大で、農地改革(第1次)要綱はわずかな修正だけで18日に貴族院を通過し、22日には成立します。
しかし、GHQの担当者たちは、日本政府の改革案、特に在村地主の小作地保有限度を5町歩としたことや、小作地を国が直接買収しないことなどを農村民主化に十分なものとは認めず、幻の改革として挫折します。そして、改革第幕の主役はGHQに移ります。
◆第2次農地改革は、連合国対日理事会へ付託される
連合国対日理事会は、米国の委員である連合国軍総司令官を議長とし、ソ連、中華民国、英連邦の委員各1名から構成されていました。GHQは英連邦委員の豪州人マクマホン・ボールの提案をもとに改革案をとりまとめました。その主な内容は以下の通りですが、第1次改革よりはるかに厳しく、その後の日本農業に計り知れない影響を与えることになります。
(1) 在村地主の小作地保有面積は都道府県平均1町歩、北海道4町歩を限度とし、
不在地主の小作地保有は認めない。
(2) 自作農の農地所有面積は都道府県平均3町歩、北海道12町歩を限度とする。
(3) 以上の限度を超える農地は政府が強制買収して小作人に売り渡す。
(4) 改革は1945年11月22日現在で実施する。
(5) 改革は連合国軍総司令官が法案を承認してから2年間で完了する。
(6) 第1次改革に盛り込まれた小作料の金納化は承認する。
農林省幹部は、NRSへ頻繁に通い説得に努めました。その結果、自作地が3町歩を超えても「農業の発達上好ましくないもの」以外は買収対象にしないことなどを例外として認めさせます。実質的にはGHQ案ですので、もはや改革を妨げるものはなく、第2次農地改革は7月27日に要綱を、8月6日には法案をそれぞれ閣議決定するというスピードぶりでした。そして、自作農創設特別措置法案と、地主・小作関係の調整を主体とする農地調整法改正案は国会会期の最終日である10月11日には成立します。
◆終戦当時の社会情勢
1,000万トン収穫されていたコメは、戦時の国家総動員体制によって農の担い手が減少し、生産基盤もダメージを受けていたので、終戦の年には590万トンにまで低下していたといいます。コメの配給量は年を増すごとに減っていたので、政府は、農家に強制供出を実施していました。物資不足と終戦処理のための紙幣乱発によるインフレと、食料不足という深刻な社会不安を払拭し、経済再建を進めるのが時の政府の役割でした。
▲国会議事堂前も芋畑【共同通信】 ▲新橋駅前に闇市【共同通信】
▲日本人が知っておくべき事 ▲戦後の広小路(名古屋市広報課)
◆農地改革のもたらしたもの
確かに農地の私有化は、農民の農業生産意欲の向上をもたらし、農家経済の改善に寄与しました。しかし、それは、零細農家を大量に創出し、日本農業の生産性向上の妨げにもなりました。戦地からの引揚者(=潜在的な失業者)の受け皿となり、食料増産を実現したとは云え、それとは引き替えに失ったものは、甚大でした。
稲作は、水利や道路の開発・管理などの「普請」や、田植え・除草・稲刈りなどの共同作業や屋根の葺き替えなどの場面で「結い」が機能する地域共同体による営農を基本としていました。単に生産場面にとどまらず、沖縄の「ゆいまーる」などは生活や教育・娯楽までまでも包摂したものでした。
農地改革後程なく、農地転売所得に対する元地主の不満が生じて、元地主に無利子の国債交付(最高100万円)で決着した、といいますから、即座に土地成金問題が発生したということです。それは、地域共同体が虫食い状態になったということを示しています。
「共同体的な所有」を蔑ろにするこのような変化は、『農的関係社会』に致命的なダメージを与えた、という意味で見逃せない問題ではないでしょうか? 所有権設定と利用権設定の違いは図りしれないものとなりました。今後、「新しい『農』のかたち」を考えていく上では、この点を肝に銘じておく必要がありそうです。
次回は、「農協問題」にも触れつつ、さらに戦後初期農政の問題をみていきたいと思います。
つづく
投稿者 staff : 2009年10月10日 TweetList
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