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2009年01月15日

【書籍紹介】『貧農史観を見直す』-新書・江戸時代③

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むしろ旗を立てて一撥を繰り返す“貧しき農民たち”は事実か?
年貢率、生産力のデータを検証し、江戸期の「農民貧窮史観」を覆す。

「2009年を農業再生元年に!」という訳ではないのでしょうが、るいネットでも農業に関する話題が増えていますね。
我々の農園でも、色んな可能性を探り実現していく為に、まずは勉強!ということで、「1分間勉強法」を取り入れ、特に農業関係の成功事例を中心とした本を集め、みんなで読んでいます。
今回は歴史本になりますが、講談社新書から、
『貧農史観を見直す』-新書・江戸時代③ 佐藤常雄+大石慎三郎 著
を紹介したいと思います。
最近は、江戸の社会を見直そうという動きが盛んなようです。江戸時代の社会の様子や庶民の生活を紹介したり、検証するような書籍やネットの記事をよく目にするようになりました。
江戸時代(に限りませんが)の農民といえば、朝から晩まで身を粉にして働いたにもかかわらず、収穫物のほとんどを年貢として持って行かれてしまい、領主に盾突くことも許されず、常に貧しく暮らしていた、というようなイメージがありますよね?学校ではそう教えられてきませんでした? 🙁
でも、それって事実なんでしょうか? 🙄
江戸時代の農業の生産力や年貢率などのデータを検証し、「貧農史観」そのものを見直していきます。
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「るいネット」より。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=197105

1.「慶安の御触書」は、農民を締め上げるためのものではなかった
「慶安の御触書」の内容は、倹約・節約を奨励し、家族仲良く健康に留意してきちんと一定の年貢を納め、少しでも豊かになるよう農作を工夫し、しっかり働くように、と当たり前のことをいっているだけで、この法令を守れば、百姓たちはだんだんと身代も良くなるうえ、米や雑穀やお金もたくさん持つようになるはずである。
ただ一つの条件は年貢を納めることである。規定の年貢を納めさえすれば、後はいくら豊かに、気ままに暮らしても、それは百姓の思うままであるから、よくよく「御触れ」に挙げた様な事柄に気を配りながら生活をするように、ということなのだ。江戸時代に成立した独立小農は、規定の年貢を納めれば、後は自由に豊かに生活ができるようになっているわけである。

2.江戸時代の稲作の生産力水準は、決して低くない
従来の研究史によれば、明治30年代に確立したとされる「明治農法」は、日本の農業生産力を飛躍的に発展させた近代農法として位置づけられている。しかし、坪刈帳の分析によれば、明治30年代は確かに日本における稲作生産力の発展過程ではひとつの画期をなしているとはいえ、江戸時代中期から明治20年代までのいわゆる在来農法と格別の段階差が存在しているわけではない。
坪刈帳の一坪籾収量が明治30年代に下落したり、昭和初年になって稲作生産力の画期を迎えたり、あるいは江戸時代中期から戦前までの一坪籾収量がほぼ同一水準にある事例も少なくないのである。むしろ江戸時代の在来農法の生産力水準を、積極的に評価すべきだろう。

3.農民は貧しかったのか?
●ムラに領主は立ち入らない
江戸時代の封建制社会を最も端的に表している社会システムは、在(村)と町(都市)の分離である。江戸時代の農村には、原則として武士は存在していなかった。江戸時代のムラは、領主のいない純粋な農林漁業者の生産者集団なのである。少なくともムラは日常的に武士の武器による暴力的支配からはまぬがれていた。また幕藩領主は、ムラの内部にまで立ち入って、生産者である個々の農民を直接に支配したわけではない。彼らは間にムラという社会組織を介在させることによって、農民支配を貫徹させたのである。
●農民は貧窮していたのか?
江戸時代における在来農法の生産力水準は、近代農法と比べても決して見劣りしてるわけではなく、一定の農業生産力を確保していたことが史料から読み取れる。むしろ、飢饉の問題の本質は、幕藩領主の支配領域が錯綜していたことにある。つまり、幕藩領主の農民救済策や藩外への穀物の移出を禁じた津留などの制度上の側面、さらには輸送手段の不備、情報不足などといった農作物の流通のあり方に求められるのである。
●農民は重税に苦しめられたのか?
農民の年貢負担あるいは年貢の重さは、六公四民、五公五民など、一般に年貢率で表される。これは検地で設定された「村高」のうち、6割が幕藩領主の取り分、残りの4割が農民(ムラ)の取り分という意味である。しかし、この村高は、必ずしも年々の農民(村民)所得を表したものではない。
村高は、検地によって計測したムラの土地面積から算出したものであって、検地が行われなくなった18,9世紀においては村高は一定となってしまっていた。さらに検地以降の生産性の上昇、収益性の高い作物の導入、農産加工物の進展、賃銀収入などといった経済条件がこの「村高」には反映されないのである。史料から類推すると、実質的な年貢率は10%~30%で、江戸時代の農民が重税に苦しめられていたとは、決して断定できない。
●倹約令とは?
17世紀後半から18世紀初頭にかけてのムラの休日は、正月・小正月・盆・五節句・産土神祭礼の休日と、苗取り・田植え・稲刈りなどの農作業が終わった後の農休みを加えた、20日前後から30日以内が一般的であった。ところが、18世紀後半以降になると年中行事の内容が変化して、祭礼日・農休みという性格よりも、娯楽性の高い遊び日として意識されるようになった。年間3,40日台から場所によっては60日以上、最大80日まで増加したムラもあった。
地方の幕藩領主は、若者組みの解散を命じたり、農休みの過度な遊興化の禁止や平日の遊び日化を阻止する為に、しばしば倹約令を発布した。倹約令は決して農民生活の悲惨さを意味しているのではなく、逆に農民の豊かな暮らしぶりの一端を表しているのである。

4.農書が語るもの
江戸時代における農業の発展と農民の知的水準の高さを最も適切に表している歴史的事実は、農書の成立に他ならない。農書とは前近代社会において、農業とりわけ農業技術を中心に記録された農業技術書である。農書は日本農業における伝統技術の世界である。
幕末期に成立した農書の中で、稲の害虫を分類し、その生態を観察して総合防除を主張した羽後国の高橋常作の「除稲虫之法」や、下野国の田村吉茂の「農業自得」などは、その自然観に明らかな近代科学への芽生えを読み取ることができるのである。彼らは江戸時代の支配者たる武士でもなければ、農学者でもない。農村に居住した民間の農民である。
農書の著者たちは農業技術に精通した人物であることはもちろんのこと、絵心・歌心をもった江戸時代の農村の知識文化を代表する人物でもあった。絵農書は決して日本絵画史の主要な地位に、あるいは高価な美術品として位置づけられるような存在ではない。しかし、絵農書は江戸時代における農業の物質的生産を側面からささえた絵画史料であり、江戸時代の農民文化を最も的確に体現している作品なのである。歌農書もまた同様である。
これまで江戸時代農民の生産と生活は、肉体を酷使した過重労働と生活費を切り詰めた過少消費という、ふたつの側面で表現されてきた。ところが、絵農書に描かれた農民の姿は、きつい農作業であっても老若男女がそれぞれに等身大の労働を行い、農作物と家畜に精一杯のいつくしみをそそぎ、収穫時には満面に笑みをたたえて鎌を持つ手に力が入り、農休日には十分に骨休みを行い、四季の祭りを存分に楽しんでいる。そこにはいつも豊かな実りへの願いがこめられている。
江戸時代の農書の世界は、江戸時代という枠組に限定されているわけではなく、日本農村ではつい最近まで、そこに描写された情景が広く存在していたのであり、それは昭和30年代前半までごくありふれた日本の農村風景であった。 それが高度成長にともなう農業の機械化・近代化の中で急速に解体されてしまったのである。

農業の再生のためにも、まずは人々の頭の中にある「貧農史観」という固定観念を覆していくことは、とても大切なことだと感じさせれました。
(小松)

投稿者 komayu : 2009年01月15日 List   

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コメント

農業に関わっていない人はあまり良く知らない内容ですよね・・・。
やっぱり日本の自給率低下には法律も関わっているんですかね?気になります。

投稿者 ぽにょ : 2009年7月22日 11:36

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投稿者 hermes so kelly bags : 2014年1月30日 05:32

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