『都市型直売所の可能性を探る』4~消費者に「本物の価値」を届ける先端事例~ |
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2014年09月23日
『都市型直売所の可能性を探る』5~生産(農)と交換(商い)の歴史<始原・縄文・古代・中近世>~
・1.都市と地方をつなぐ直売所の拡大。その原動力とは何か?
・2-1.鮮度とは何か?追求潮流<流通技術編>
・2-2.鮮度とは何か?追求潮流<生命力編>
・3.生産者を組織化し、本物の野菜をつくるには?
・4.消費者に「本物の価値」を届ける先端事例
これまでの投稿では、現代の意識潮流を押さえ、最先端の直売所の分析を行い、生産者・消費者の組織化(共同体化)というキーワードが見えてきました。
今回の投稿では、時代のレンジを大きく広げ、「商い(交換)」の歴史・意味について考えていきたいと思います。
農村部では、戦前までは基本的に自給自足を行ってきましたし、現在でも自分たちでつくって食べることが基本の地域も多いでしょう。食は、「人類(生物)が生きる上で必要不可欠なもの」であり、「期待・応合に貫かれた共同体性・信認ネットワーク」が集団を支え、物資の交換もそれが下支えにあったとも言えます。
画像はこちらからお借りしました。
今回の投稿では、外圧 ⇒ 生産と交換 ⇒ 集団形成の関係について歴史的に整理し、現代の意識潮流につながる土壌を紐解いていきます。
■①始原人類:分配と精霊信仰
・人類史500万年の99%以上は、想像を絶する様な過酷な自然圧力・外敵圧力に直面していました。自然界では明らかに弱者であった人類は、常に腹をすかし、生きるか死ぬかの飢えを凌いで極限状況を生き抜いたと考えられています。
・洞窟内の集団は数人~数十人の小さな単位で住んでおり、他の同類集団と接することなく、その集団内で生産・消費・充足・生殖など、生活のすべてをまかなっていたと思われます。
・外的から身を守るため、日中は洞窟の中に隠れ住み、夜になるとひっそりと森の中に出かけ、他の動物が食べた後の骨髄を、あるいは木の根を食べ、飢えをしのいでいました。
・男たちが餌を取りにでかけ、その得てきた食べ物を洞窟で待つ母や子、仲間に分け与えたはずです。すなわち、生産も分配も消費もすべて自集団で賄い、そこには当然、交換という概念はなく「全員で分け合う=分配」が原点であったに違いありません。
・また人類は、本能では適応できない不整合な現実を前に、共認機能を自然に対して作動させ、未知なるもの=自然を徹底的に対象化し、その背後にみた精霊との交感(精霊信仰)が、食(生きとし生けるものをいただく)の原点にあります。
洞窟で暮らし、夜に餌のために出歩く(画像はこちらからお借りしました)
自然を対象化し、背後に精霊を見る(画像はこちらからお借りしました)
■②原始縄文:贈与ネットワーク
・1万年前、弓矢を発明し、狩猟技術を身に付けた人類は、生存圧力を一定克服することができました。
・そして、四季豊かな日本では採取生産が可能であったため、「定住」が可能となり、安定して集団の食糧を確保することができるようになりました。
・集落規模は数十人で、人口増加すると単位集団(集落)に分割されました。それゆえ、単体で独立していた集団も、人口増と行動域の拡大により、やがて互いの集団同士が近接することになり、同類集団間の緊張状態が生まれるようになります。
・そしてこれまで遭遇したことのない同類圧力に対し、互いの緊張を緩和するための方法として「沈黙交易(贈与)」が生まれます。
・贈与する物は、自集団にとって貴重な物・価値ある物であり、命がけで入手した交易品は贈り主の「マナ(霊的な力)」が宿っていたとされ、「贈与は集団維持のための神聖な行為」であったと考えられます。また、この贈与ネットワークは日本全国に広がっており、単なる緊張緩和に留まらず、贈与を通したゆるやかな集団間のつながり、すなわち「共同意識」「信認関係」のネットワークを形成していたことが読み取れます。
・参考:贈与の意義
・参考:「贈与」に何を学ぶべきか!~2、縄文人の集団間の関係は?
・参考:「贈与」に何を学ぶべきか!~7.贈与の意義とは・・・
採取生産により、定住を実現(画像はこちらからお借りしました)
縄文ネットワークを全国的に発達(画像はこちらの冊子からお借りしました)
■③古代~中世~近世:農村と惣村
・古代になると、栽培技術の発達により生産力が上昇し食糧の「余剰」が生まれます。これにより、自集団内の備蓄あるいは他集団との交換が可能になり、律令国家による徴税制度も開始されます。
・全国的に統制がひかれるものの、日本の農村は、縄文時代から続く「村落共同体」による自治集団が基本骨格であったことに変わりありません。
・水耕農業などの村落は、成員の大半が農業を行う自給自足が基本です。村が共同資産(入会地、鎮守の森など)を持ち、共同耕作や共同備蓄の取り決めや、裁判権も持ち、自治組織形態を取っていました。また、農業用水の配分調整や水路・道路の普請(修築)、大川での渡し船の運営など、日常生活に必要な事柄もすべて村の合議制のもとに成り立っていました。
・ここには私有という考え方はなく、すべては共用(集団)のものであり、個人や家族では成立し得ない農業生産の基盤には共同体精神が深く根ざしていたと言えます。
・参考:東洋と西洋~日本:農村の自治 『惣村』~
・参考:日本の農村は、世界でも稀な『共同体』だったのはなぜか?
村落共同体を形成(画像はこちらからお借りしました)
共同で行う農作業(画像はこちらからお借りしました)
■④古代~中世:市の誕生
・交換、すなわち市場(いちば)の原型は、3世紀魏志倭人伝に始まります。
ただし、取引関係としての市ではなく、「神と人間が交歓する神聖な場所」として定められていました。「品物にはそれを作った人の魂が込められている」と考えられており、したがって他の人の所有物にするには、その魂を入れ替えねばならない。そのためには、人と神とが交歓できる聖なる場所、すなわち、川や湖や海と陸路の境界や、寺社の門前、虹が出る場(あの世とこの世の架け橋)であり、このような聖なる場として「市」が誕生でした。祭りのような、いわば「儀式としての交換」でした。
律令国家時代の官市では、市による交換の収益は神仏のお礼として支払われ、一種の交易税・年貢的な役割も果たしており、当然、取引関係は成立していませんでした。市で行われた交換は、共同体という集団を超えた「生きとしいけるものからいただく行為」「神・精霊を喜ばせるための交感の場」であり、精霊信仰に通ずる精神性の元に行われていたことが分かります。
・参考:「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー 手工業・商業の発達
・参考:日本の市場 ~都市的な空間の原型~
境界領域に設置された中世の市(画像はこちらからお借りしました)
三斎市(画像はこちらからお借りしました)
■⑤中近世:都市と市・座
・近世(安土桃山・江戸)、国家統合体制の強化、さらに徴税制度により人・物の往来が盛んになることによって、「都市」と「農村」という関係が発生しました。「楽市楽座」に代表されるように商取引が活性化し、私権拡大の可能性が開かれた時代です。
・特に江戸時代、大規模化・農具・肥料などの技術が発達。農民も利益獲得のために、農閑期の余力を使って手工業を行う者、都に出稼ぎに行く者、すなわち農業生産を行わない「町人」が多数現れました(士農工商は、身分ではなく、生産力保持のための規範として存在)。
・そして、町人による商工業者を中心とした町、すなわち城下町や門前町、宿場町などが生まれます。この町においても、農民の集まりと同じように、「座」と呼ばれる同業者組織がつくられ、自治が形成されていました。また、都市では、振売、立売は子供・高齢者・障害者に限られ、行商は大原女などの販女が担ったことからも、都市における共同体規範があり、それに基づいて商いの役割が分化されていたことが分かります。
・また、村と町は、強いつながりを持っており、農民は原料生産や都市住民のための様々な食料や生活資材を生産して、都市へと出荷していました。当然、仕事を通じての結びつきも強く、そもそも両者は職業上の結びつきだけではなく、婚姻や養子を通じた血縁関係も一体であり、共同体意識がその基盤にありました。
・参考:「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー 近世身分社会の真実
・参考:「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー 商業的農業の展開
人情味あふれる江戸時代の町(画像はこちらからお借りしました)
江戸時代の宿場町・小田原(画像はこちらからお借りしました)
★歴史的に一貫して、他人あるいは他集団との「交換」は、信認・信頼関係に基づく共同体的なものであり、集団維持のために誕生・規範化・発達しました。
★私権拡大の可能性が開かれた近世以降、市場(しじょう)経済が拡大しつつも、その基盤をなす集団統合原理は共同体そのものであり、村と町の集団を超えた「共同体ネットワーク」の発展形が、日本に根付いた「商業」「市」のかたちだと言えます。
それでは、次回は引き続き、近代以降の外圧の変化と人々の意識潮流、そして、新しい地域ネットワークの萌芽についてみていきたいと思います。
投稿者 noublog : 2014年09月23日 TweetList
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