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2009年10月17日
新しい「農」への途(1-3)――戦後農政の超克――
◆農地解放が農村共同体の崩壊をもたらした!?
戦後日本の農村共同体は急激に崩壊していきますが、その要因を松岡正剛氏は次のように述べています。
松岡正剛の千夜千冊 第千百三十夜【1130】
高谷好一著『多文明共存時代の農業』
日本の農業共同体は、敗戦後からガタガタと崩れていくようになる。農業の機械化と経済主導の農業政策が農村をおかしくさせていった。農業にはいかに因習的であれ「字」や「村」というまとまりが欠かせないのだが、この紐帯がきづきあげた「作」や「和」の精神も、現代生活にあわない古くさいものとして唾棄されるようになった。
この変化は戦時中に農村のメンバーが戦争に狩り出され、農村が労働力を失っていったことにそもそもの兆候があって、そこに敗戦の打撃が加わったという二重の変化によるもので、敗戦後の農村からすれば機械化もやむをえなかったところもあった。
しかし、そこへもっと恐い変化が加わった。ひとつは「農村生活は封建制の遺習である」という批判と非難が高まってきたこと、もうひとつは機械の導入のためにも電化生活のためにも「現金を確保する必要」に迫られたことである。これによって一方では鎮守の杜や祭祀をともにする生活文化が壊され、他方で年一度の収穫時の収入ではなく、月給で現金収入を得るための第二種兼業農家が急速にふえた。
そこへ追い打ちをかけたのが、住宅や工場やゴルフ場による「開発」だった。農地はあっというまに虫食いになっていった。逆に、これによって土地が売れて一時的な成り金になる者たちも出てきた。が、それは農村を捨てるということだった。最後にここに政府の減反政策が加わった。田畑の4分の1に稲作をしてはいけないという政策である。コメづくりはもはや日本の農業共同体の基本ではなくなってきたのだ。
近代西洋的な価値観念と市場化の波が、そして更には、戦後農政の問題が日本の農業共同体を崩壊させた原因だとすることに、まったく同感です。
佐渡ヶ島では、「血統の親類は縁が切れても、地分け(じわけ)の親類は切れない 」といわれるそうです。日常生活上密接な関係に立ち、生産経営的、宗教上の行事も共に行うという形態を採る「同族」は、農村共同体の中核をなしていたと思われます。それを矮小化したものが、家父長による家制度というわけです。
共同体構成員の紐帯を温存するために、めったなことでは土地を分与することがなかったのでしょう。にもかかわらず地分けしてくれる親類は50年以上にわたって不義理はできないというのが、佐渡ヶ島の話のようです。それ程に、農地を分与してくれるのは有り難いことで、かつ農地の私有化は自己完結性を高めることになった、という意味で、同族(農村共同体)の解体を促したのは、他ならぬ戦後の「農地解放」だったと云えそうです。
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◆農地転用を所得保障の原資としたことが、農地が虫食い状態にさせた原因!?
そして、農業を犠牲にすることで、農家や農協の利益を守った!?
自民党は、補償金で農家の面倒を見るという選挙公約で1969年の総選挙に勝利しました。農家は、1970年に本格的な減反政策を打ち出した農政に反発します。農協は、全国一律1割減反案を提示し、10アール当たり4万円以上の補償金を要求します。大蔵省原案は2万1000円でした。そこで、時の自民党幹事長:田中角栄は、補償額を3万5000円にアップする一方で、
財政負担を抑えるために、減反規模を150万トンから100万トンに減少させ、
残る50万トン分の米生産に相当する面積の農地を宅地等に転用させて消滅させる
ということで、決着させました。(「農協の大罪」山下一仁著 P.54)
田中角栄が「日本列島改造論」を打ち出したのは1972年ですが、その直前に減反政策の穴埋めに農地転用という“禁じ手”を農協や農民の票欲しさに使ったということは、 『食料安全保障に不可欠な農地資源を減少させ、農業を犠牲にすることで、農家、農協の利益を守ったのだ(山下一仁氏)』という指摘が的を射ている、と云わざるをえません。
◆無理やり成長のタネ地提供のための農業政策!?
公共事業等などにより121万ヘクタールの農地拡張を行ったのにもかかわらず、1961年に609万ヘクタールあった農地の4割を超える259万ヘクタールが耕作放棄や宅地転用によって消滅し、2005年現在の農地面積は469万ヘクタールです。戦後の農地改革によって、当時の小作人に開放された農地は194万ヘクタールだと云われますので、それをはるかに上回る農地が潰されてしまったわけです。
▲「土地改良事業における国と地方との適切な役割分担(農水省)P.19」より
黄緑色の折れ線グラフ:耕地面積
水色の棒グラフ:耕地の拡張面積
桃色の棒グラフ:耕地のかい廃面積
—————————————-
貧困と食糧難、そして敗戦処理という多重困難課題の中で断行された「農地改革(=小作人の農地私有化)」でしたが、1954年には MSA協定 を締結して米国の余剰農産物である小麦粉の輸入を受け入れ、あっさりと食糧自給を放棄? してしまいます。不可解なのは、減反政策による「耕地かい廃面積」を急激に増大させながら、もう一方では「耕地の面積拡張」を続けていることです。これら全体を矛盾無く解釈できるのは、
1970年代には貧困圧力を克服し、物的需要は頭打ちになった。
にも拘らず右肩上りの経済成長を実現するためには、建設需要のタネ地を供給し続ける必要があった。
だからこそ、農地転用を可能にするための耕地面積拡張をし続けた。
圃場整備と称した農業土木工事も、官需創出のための言い訳でしかなかったのではないか?
と云えそうです。
つづく by びん
投稿者 staff : 2009年10月17日 TweetList
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コメント
投稿者 バーバリー トレンチコート : 2013年12月2日 04:18
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