【世界の食と農】第9回 中国~「量から質へ」舵を切った、農業大国~ |
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2022年02月17日
『農業と政治』シリーズ10:柳田國男が指摘する農業の問題構造
柳田國男が農政を志す起点となったのは、当時の農家が置かれた厳しい生活環境の直視。
「何故に農民は貧なりや」
(なぜ農民はこんなにも貧しくなってしまったのか)
という問いかけから始まった彼の追求は、厳しい現実を生み出した二つの要因をあぶり出していきます。
…そして問題の本質は、100年経った今も何ら変わっていないのではないか?
●生きるために兼業せざるを得ない零細農家
この時代(明治時代)の農民が貧しかった理由は二つある。
その理由の一つは、農民の経営規模が極めて零細だったことである。収益率が低くても、大規模に経営しかつ大量に生産していれば、それなりの収益は得られる。
当時、自作農が農業だけで生活できると考えられた耕作規模は2~3ヘクタールだった。しかし、五反百姓という言葉があるように、現実の農家はわずかの面積(0.5ヘクタール未満)しか耕していなかった。
農地からの生産だけでは必要な生計費も得られない零細な農家は手工業や運搬業などの兼業を行うしかなかった。柳田によれば1900年頃、農家の3~4割が商工漁業を兼ねていたという。
終戦前の1943年で兼業農家の戸数は全農家の2/3、兼業の比重の方が高い今でいう第二種兼業農家は1/4を占めていた。
現在でも、農家のほとんどは兼業を行っているが、現在の兼業米作農家は、機械がほとんどの農作業を行ってくれるので、サラリーマンが本業で、田んぼで週末少しの時間だけ働くという裕福な農家である。これに対して、戦前の農家は、一年中水田で働いても、本業の農業で食べていけないから、農外に仕事を求めざるを得なかったのである。現在とは、兼業の位置づけが正反対である。
●地主制と小作人
農家が貧しかったもう一つの原因は、小作問題である。戦前の農村は地主と自作農、自小作農(自作地を持ちながら小作もする農家)、小作農で構成される社会だった。
そして地主階級が農村を支配していた。しかも小作料は物納(米で納めた)で高額だった。明治初期の小作料は収量の68%、1885年で58%、1941年で52%である。
自作農の場合は、米の販売額からコストを引いた収益がそのまま所得になる。しかし、小作農の場合には、収穫量の半分が小作料として地主に取られてしまうので、自作農と同じ収入を得ようとすると、その倍の面積を耕作しなければならないことになる。しかし、所得は収入からコストを引いたものであるが、コストは小作料を納めるために作付する水田でも負担しなければならないので、小作人が自作農並みの所得を得ようとすると一層大きな農地を耕作しなければならなくなる。
自作農が2~3ヘクタールで生計を立てられるとすれば、小作農では6~9ヘクタールの農家規模が必要になる。
「何故に農民は貧なりや」
(なぜ農民はこんなにも貧しくなってしまったのか)
という問いかけから始まる柳田の追求は、上記二つの原因分析に行き着く。
しかし彼の主張・指摘は、当時の社会で受け入れられることはなかった。
なぜか?
●推奨された「貧農」
小作料が高く、農家規模も小さいので農家が農業だけで生活できないことは、製造業の発展にとっては好都合だった。農村部から、きわめて低い賃金で働く労働力の供給を受けることができたからである。
零細な農家を維持することが製造業の発展に貢献すると主張する農商務省の高官もいた。農民は貧しいほうが良いというのである。
農村から出稼ぎに出てくる労働者は、家族は農村にいて農業などで生活しているので、その労働者だけが生きていくだけの賃金さえ与えればよい。都市に住んでその家族全員を養わなければならない労働者よりも賃金を安くすることができるので、製造業にとっては好都合だといういうのである。
他方で、農民が農村だけで生活できれば、わざわざ都市の工場に働きに出てくる必要はない。農民が出稼ぎに出ざるを得ないようにするためには、農業など農村での収入は低くなければならない。農業だけで生活できないような零細規模の貧農を維持することによって、都市の工場は農村からの安い労働力を提供を受けられ、工業の発展につながるという考えである。
この論理からすれば、農民が豊かになると工業の発展も阻害されることになり、好ましくない。このような考えを持つ農商務省の高官たちが、柳田國男の主張を受け入れるはずがなかった。
引用元:「いま蘇る柳田國男の農政改革」(著:山下一仁)
投稿者 negi : 2022年02月17日 TweetList
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