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2009年06月14日

食糧管理法が53年も続いた理由

こんにちは
このブログでも日本農業が直面する数々の困難の様子が投稿されていますね。
いつの時代も農業に大きな影響を与えるのが「農業政策(農政)」ってやつです。
今後の農業を考える上でも、その歴史や現在の制度の「幹」を押さえておくのが大事です。
まずは日本農業を大きく規定してきた数々の農業政策を年代の近いものから順に並べてみます。
2004年~      「新食糧法」
1994年~2004年 「食糧法」
1942年~1994年 「食糧管理法」
どれも似たような名前ですが、その中身はけっこう違うのです。まあ時代によって食糧事情は異なるから、当然と言えば当然ですね。
・・・ここで「ん?」と思ったからはおられるでしょうか?
そう、実は「食糧管理法」は53年も続いているのです。第二次世界大戦に始まり、終戦、戦後の貧困、高度経済成長、バブル崩壊と時代が激変しているにも関わらず、同じ制度がずっと続いているのって不思議ではないですか?
ということで、この投稿では「食糧管理法が53年も続いたのなんで?」を追求したいと思います。
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では、食糧管理法に関する追求を簡単な章立てにしてお伝えします。
1.食糧管理法って何?
食糧管理法は、食糧の確保と国民経済の安定を目的として、1942年に制定された法律です。時代背景として、1937年の日中戦争以来、日本ははっきりと戦時体制に入っていたことが挙げられます。つまり日本が戦争遂行に必要な食糧を確保するために作られたのです。
この法律が制定されてどうなったかと言うと、国家による「食糧の一元・一括管理」体制になったのです。まず国家が年度の消費量を予測し、予想消費量に合わせて生産を計画します。そして生産された食糧は、国家の管理の下、想定された流通ルートを通って消費者に届きます。生産・流通・消費を国家が管理し、食糧を計画経済下におくための法律だったんですね。
ちなみに、ここで言う「食糧」は主に「米」を指します。当時は、現在とは比較にならないくらい「食糧=米」だったのです。なので、食糧管理法によって米流通ルートが定まった、と読み替えることもできます。
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2.戦後~経済成長の流れの中で変わった食糧状況
「国家による全面管理」と聞くと、何やら危険な雰囲気もありますが、少なくとも食糧が不足していた戦中・戦後の日本国民にとっては、ある程度安定して食糧を得られる体制でした(ヤミ米市場もあったそうですが)。ただ、時が経つにつれ、農業技術の発達によって米の収穫が劇的に増えたこと、そして日本国民の洋食化が進行してきたことにより、1970年代には「米余り」と言われる時代に突入したのです。
そこでネックになるのが食糧管理法。先述したように、その目的は食糧増産と安い食糧の供給なのです。農家に増産を促すためには国家が高めの価格で米を購入する必要があります。しかし、米が余って売れなくなってくると、当然販売価格を下げなければなりません。そして政府にとって「米の購入価格>販売価格」「逆ザヤ」状態が続くことになってしまいました。
食糧の安定供給をするための国家財政負担なら理解できます。しかし、生産過剰になっても負担し続けるっておかしくないですか?「農家の利益を守るため」なんて聞くともっともらしいのですが、「そのお金をもっと農業振興の方に使えないの?」と思ってしまいます。なぜ、食糧が不足していた頃の制度に従ってこんな矛盾のある支出を続けていたのでしょうか?
3.実は食糧管理法は政治上の理由で生きながらえていた
さて、この「食糧が不足していないのに赤字を拡大しながら管理体制を維持する」という妙な状況が続いていた裏には、「政治家達の思惑」があったのです。
まず、逆ザヤ状態が拡大したのは1970年代で、最大になったのは1974年だという事実があります。そして、当時の政治状況として、1972年末の衆議院議員総選挙において与党(自民党)が敗北し、野党(日本社会党と日本共産党)が躍進しました。その後、1974年の参議院選挙では与野党が伯仲、1976年の衆議院選挙ではギリギリ与党勝利、という流れになっています。何か動きが符号していますね。
そう、農民票を基盤としていた与党の政治家達にとって、得票のために米価を引き上げることが有効な戦略だったのです。
そもそも、日本の農村は全て、系統農協が強固な組織を形成しており、その系統農協は農水省が政策を遂行する際の末端組織でもありました。この農水省⇔農協を繋ぐ役割を果たしていたのが、食糧管理法によって形成された米の流通ルートだったのです。まだまだ日本に農家が多く、しかも農家のほとんどが米を作っていたという状況において、「米の流通を通じて日本農業を管理・支配する」という組織構造ができていたということです。ここに手を組んで確固たる「票田」を得たのが「農林族議員」と呼ばれる政治家達。この農林族・農水省・農協という協力な三位一体構造が存続するために、時代に合わない食糧管理法が維持されたのです。
以上の話を総括すると、食糧(米)が過剰になったにも関わらず、食糧管理法が維持され続けたのは、
a.農林官僚が農業・農村の管理のために協力な系統組織の維持を望んだこと
b.総合農協が、経営および農村組織化の中核になっていた米の集荷体制を崩したくなかったこと
c.農林族と呼ばれる政治家がその協力な系統組織を集票マシーンとしていたこと

が理由だと言えます。
日本の農業の運命を左右する農業政策ですが、正直言って「日本農業の将来のため」という目線で制定・維持されているかというと、そうでもなかったみたいですね・・・。
それもこれも、「政治は政治家がやるもの」という風潮がこういう構造問題に陥らせたのだと言えます。なので、国民みんなで色々と追求して、「こうすりゃいいだろ!」という声を上げていきましょう!
新しい農業は、「誰か」じゃなくて「みんなで」つくるもの

投稿者 staff : 2009年06月14日 List   

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コメント

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