ODA、世銀、IMFは途上国の農業・社会を破壊している? |
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2007年03月30日
市場を考えることなしに 農薬問題は見えてこない!?
農薬の是非については、使用量についても含め、常に水掛け論にしかなりませんよね。
なかなか問題が鮮明にならない。(ネット上では常にこうなってしまう・・・)
そもそも農薬は必要なの? 🙄
まず単純に、除草や防虫に農薬が使われる前は、全て人の力で行なってきた、という事実があります。
昔は雑草は手で毟り、害虫は人が田に分け入り追っ払ってました。
日本では、その昔、いわゆる「虫追い」、「虫送り」といって、農家がみんなで太鼓、半鐘、たいまつ等をもち、声を出しながら田んぼのまわりを歩き、稲に付く虫を追い払ったといわれています。
(農林水産省HP 農薬コーナー )
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(皆で 虫追い祭り)
虫を追っ払う という作業。子供から老人までが世代を超えて互いに期待を掛け合い、役割をもち、皆が集まって一つの課題に取り組む。辛い肉体作業も 歓びに昇華し、深い充足の伴う「祭り」になっていったのでしょう。
(全国各地の農村で、この虫追い祭りは継承されています。今や継承すること自体が目的となって、本来の意味とは変わってきてるようですが。苦笑)
自分達の村で収穫した分を互いの顔が見える関係で消費している分には、生産量としては充分だったろうし、たまにの虫を追い作業も 村の皆の労働力を借りたらいいわけです。
しかし、戦後の農村から都市への人口が流出するにつれ、地域や家族は分断され、そうした人手は期待できなくなりました。
さらには流出した人々による大量消費により、人手が減っていく中で生産量を増やしていかなければいけない、おかしな事態になりました。
(一人で 農薬散布)
結局、「農薬」が「虫追い」に取って代わりました。
戦後、日本社会が市場経済に飲み込まれた結果、農業が変わり、農薬が大量に使われるようになったのです。
ですから、市場の存在について考える事なしには、農薬の問題自体も鮮明になってこないのだと思います。
市場を超えてたところで “新しい農のかたち”も見えてくるはずです
「感謝」は最高のご馳走だし、みんなで食べればうまい!(共食)や、「自作した作物は旨い」というのもありましたね。
農・食の「実質価値」は「生かされている感謝の充足」というところでしょうか?
( 顔の見える農業に脱皮する 「市場社会構造の組み替えがはじまった。」 )
投稿者 pochi : 2007年03月30日 TweetList
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