2010年8月6日

2010年08月06日

類農園の農産物を徹底PR☆~おまけ 八咫烏神社と日本のはじまり物語~

こんばんは 本当に暑い日が続いています。夏ばてには気をつけましょう!
今日は、
類農園の農産物を徹底PR☆~大和野菜編 のおまけで、八咫烏神社と日本のはじまり物語をご紹介します。
八咫烏神社は、類農園の後ろの山がご神体です。そして社務所や集会所を自然体験学習教室の夏合宿の宿所や農業体験の方の宿所として利用させてもらっています。
宇陀の歴史・・・興味は尽きません 😀
八咫烏神社HP/より
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【日本のはじまり物語 一 】
 遠い昔、日向国(宮崎県)にお住まいになっていた神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレヒコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに「どこへ行けばもっと良く葦原中国(日本国)を治められるだろう」と相談したところ「東の方に青い山が取り巻いた良い土地があるという。そこが、天下を治めるに良いだろう」ということになり、早速、舟軍を率いて日向国を出発しました。
 そして筑紫国へ向かい、豊国の宇沙(大分県宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作り食事を差し上げました。さらにそこから移動して、岡田宮で一年過ごし、さらに進んで阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で七年、吉備国の高島宮で八年を過ごしました。
 そして浪速国の白肩津(大阪府東大阪市附近。当時はこの辺りまで入江があった)に停泊すると、登美(奈良県奈良市)の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が軍勢を起こして待ち構えていました。ナガスネヒコとの戦いは、たいへん激しいものでした。
 そのさなか、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまいます。
イツセは「我々は日の神の御子なのだから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言い再起を誓いましたが、紀州半島沿いに南の海へ回り込み、紀国の男之水門に着いた所でイツセは亡くなってしまいました。
 失意の中、荒れ狂う海路に翻弄されながらもイワレヒコは何とか熊野まで辿り着くことができました。その安堵感も束の間、突然、大熊が現われてすぐに消えるではありませんか。するとイワレヒコを始め兵士全員が気を失って倒れてしまいました。熊はこの地に住む荒ぶる神の化身だったのです。
 この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってやって来ると、イワレヒコはすぐに目覚め、その太刀を受け取ると同時に熊野の荒ぶる神は太刀の不思議な力に切り倒されてしまいました。そのおかげで、倒れていた兵士たちも気絶から目覚めることができました。
 イワレヒコは、タカクラジが太刀を手にここまでやって来た経緯を尋ねました。
 彼の説明によると――
 夢の中に天照大御神と高木神が現れ、この二神が武甕槌命(タケミカヅチ)を呼んで、「葦原中国はひどく騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じました。しかし、タケミカヅチは「平定の時に使った太刀があるので、その刀を降ろしましょう」と答え、そしてタカクラジに「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とし入れるから、天津神の御子の元に持って行きなさい」と言いました。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして持って来たのです
 ――と説明しました。
 ちなみに、その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと称えられており、現在は石上神宮に鎮座しています。
 また、天照大御神をはじめ高木神の命令によって八咫烏が遣わされ、その案内のおかげで熊野から大和の宇陀に至ることができました。

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投稿者 nara1958 : 2010年08月06日