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2013年04月19日

【シリーズ】日本の農業政策から、今後の農を考える  2.日本の農業政策を探る

みなさんこんにちは。
花の盛りもすぎ、日中は少し汗ばむほどの季節となりましたが、みなさま如何お過ごしでしょう
前回シリーズで追求した農業政策の仕組みに続き、今回は日本の農業政策を探るをテーマにみんなで追求しました 😀
まず【農業政策の仕組み】について。

・政策決定は、民意に基づくものではなく、特権階級である官僚が行っている。
・現状の政策では、農業の問題は解決していかない。
・みんなの期待と大きくずれてしまっている。
【シリーズ】日本の農業政策から、今後の農を考える 1.農業政策の仕組み

政策を決める仕組みそのものが、みんな(国民)の期待とズレている事が分かりました 🙁
さて、今回の本題に入る前に現代で起きている農業の大きな問題を捉えましょう
①耕作放棄地の増加
②後継者不足
③TPP問題
④安価な農産物(儲からない)
⑤人々の食生活が変化
これら以外にまだまだ農業の問題があります。
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画像はコチラからお借りしました。
現代の農業問題と今まで推進された農業政策は、深~く密接に繋がっています。
さらに、日々の生活の中にも大きく関わっている中身なのでぜひお読み下さい
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ありがとうございます。
今回テーマの【日本の農業政策を探る】では(江戸時代)(明治時代)(戦後~現代)の3つの構成でまとめました。
1.江戸時代の農業政策のまとめ

江戸時代では国(=幕府)の農業政策と言うようなものはなく、藩や村落が共同体自主管理により自らが農業政策を決定し、実施する時代であった。まさに、本質の民主の時代であったといえるのでは無いだろうか。
★江戸時代の貧農史観はやはり、改めた方が良い、みんなの生きる場をみんなで創っていた時代なんだと思います。
【コラム】江戸時代の農業政策

2.明治時代の農業政策のまとめ

明治以降の農業は、「国の元」ではなく、市場社会の中で搾取される対象となり、農民は私益確保の主体としての「個人」「労働者」になっていきました。
それでも、戦前日本では、なんとか本来の日本の姿を守ろう、取り戻そうと、農本主義を標榜して様々な運動も起こりましたが、それも、昭和恐慌(農村恐慌)に行き着き、戦後はアメリカ支配のもとで、完全な資本主義に移行し、日本の農業は解体されていくことになります。
【コラム】明治からの農政~近代化と農の崩壊への歩み~

3.それでは【戦後~現代】の農業政策を追求していきましょう。
【※今回は特に重要な農業政策を扱いました】
①農地改革について。

1945(昭和20)年8月15日、終戦を迎えた日本は、復興に向けて全精力をなげうって再建を試みた。ものすごいインフレと失業と食糧不足の深刻な状況の中、社会不安を払拭し経済再建の一歩を印すのが、時の政府の役割だった。
その役割の優先順位は、まず一番に食糧の確保におかれた。国民の胃袋を最低限保証し、人力によって経済社会での全体的な生産性を上げていくというものだ。
 一方、GHQ主導の占領軍は、アメリカの極東政策が色濃く反映された占領政策を打ち出し、その基本を軍国主義の除去と民主化の促進においた。
 軍国主義の基盤にもなった財閥は、経済の民主化を進める意味でも弊害とされて解体。
 それと同時に地主・小作制度が日本全体の民主化を妨げるものだとして【農地改革】も実施された。
 復興政策と民主化政策は、農業協同組合法や労働組合法の制定など、次々と発せられるGHQ(アメリカ)の指令で基盤整備され、主権在民・戦争の永久放棄・基本的人権尊重などが盛り込まれた日本国憲法の公布(1946年11月3日)に至った。
一方、農民は農地解放により自作農化され、水を得た魚の如く農業の大地に立って生産意欲を高め、増産に汗を流していった。
引用元はこちらー>『農業政策』さんから

それまであった大地主・小作制度が農地改革により解体され、村落はバラバラの個人に解体されました。
一方、農民は自作農化され活力が一時的に上昇した政策だったと言えます。
バラバラになった農民を支配する為に作られたのが、次に繋がる農協の設立です
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画像はコチラからお借りしました。
②1948年(敗戦から3年)【農協が設立される】

●農協が誕生した背景には、GHQと政府の利害調整の末にできあがった協同組合
GHQによる農地解放は、日本に旧くから残っている封建的な土地の所有関係を一掃し、実際に働く農民自らが土地を持ち、民主的な農村をつくることを目的として実施された。
そしてさらに、農地解放によって土地を地主から取り上げて自作農化しても、そのまま放置していたのでは、どんな勢力が地主に代わって農村を包囲し、支配するかもわからない、という事から、未然の防止策として、農民が結束して自分たちの利益を守る協同組合をつくることが最良の方法だとGHQは考え、農業協同組合の設立を促した。
GHQの指令に基づいて具体案をつくった農林省は「すでにある農業会を民主主義の方向にそって部分的に手直しして農協に改編、これを職能協同組合組織とする」とした。
しかし、農業会そのものは、戦争中の統制経済体制の中から誕生した食糧供出を強要する封建的な統制団体で、いわば民主化の敵。
これを排除するのがGHQの方針であり主張でもあった。
・つまり、農協とは農民自らの自主的な協同組合ではなく、設立当初から農水省の下請け機関として出発した。
そして、一町村一農協と言われる程全国に張り巡らされた農協組織が出来上がり、次第に農家は肥料や農薬などを農協から購入する様になり、農協なしでは生きていけない農家が大多数を閉め、農協は絶大な威力(支配力)を持つ事となりました
農協(JA)って何?

③1954年 アメリカからの「余剰作物処理法」の影響で日本の食生活が洋食化に誘導される。

・戦後GHQは余剰作物処理法に基づいて小麦やミルクが定着し、粉食を取り入れた食生活を日本国民に浸透させる為、キッチンカーを使って全国200万人の参加者を動員する大キャンペーンを行なった。
・アメリカは必ず小麦と大豆を用いるように指示があったが、国民にはアメリカの文字が表に出る事はなく『白米を食べ過ぎると頭が悪くなり、早死にする』と言った米飯批判も起こった。

④1954年 【MSA協定】をアメリカと日本で結ぶ。

MSA協定は1951 年にアメリカが制定した相互安全保障法のことです。
非共産主義国家(=自由主義諸国)に軍事援助を与えることを目的とし、援助を受ける国は反ソ・反共産主義国として防衛力強化の義務を負うものです。
1953年にアメリカで法改正後、1954年に日本がアメリカと結んだMSA協定は、軍事目的以外に余剰農産物購入協定・経済措置協定・投資保証協定も締結され、「MSA4協定」とも呼ばれています。
欧州諸国が自国で経済を回し始めた結果、アメリカの交易が上手くいかなくなりアメリカの穀物が余り始めます。
そんな時に結んだのが、日本との改正MSA協定です!
アメリカは処分するにもお金の掛かる余剰小麦を、日本への支援として安くで売りつけました。
日本はたまたまこの年、水害のため米は100万トン、麦は150万トンの輸入が必要だったこともあり、日本政府はMSA協定を受け入れ農業政策を大転換し、米麦を中心とした増産対策(食糧自給)の放棄と小農保護政策を転換していきました。
日本の農業と法体系との関係シリーズ ~MSA協定って何?~

・こうして、アメリカは日本に余剰作物を輸入させる為に長期戦略を計画し、日本人の食生活を洋食化させ、日本はアメリカから食料を頼らざる得ないような環境を作り上げ、さらにアメリカの支配力が強くなりました。
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画像はコチラからお借りしました。
⑤1970年 『減反政策』について

【何故こんな愚かな政策をとったのか?】
背景には
①食の洋食化による米余り(一人当たり120kg/年から70年で約100kg/年、現在は60kg/年に。)
②都市労働者と農業従事者との賃金格差の拡大。
③上記②を是正するための消費者米価吊り上げ要求。
④上記③を農民に代わって要求する農協の高米価維持による利益の拡大。
⑤農協組合員(約36万人)、農協会員(約990万人)の選挙票がほしい自民党族議員による農政への圧力。
⑥主食である「米は一粒たりとも入れない。」という輸入禁止イデオロギーの存在。
がありました。
欧米では、食糧増産のため生じた余剰を農家への直接支払いによって消費者価格を引き下げ、さらに輸出補助金まで付けて他国に売りさばくことによって国内の農業を保護したのに対して、日本がそれが出来ずに減反(生産調整)で対応せざるを得なかったのは、族議員、農協、農家それぞれの利益追求と保身という、集団自我の温存に最大の問題があると思われます。
戦後農政の超克ー【減反政策は歴史上最悪の政策】

「麦・大豆などの自給率を上げる為」と言う名目で始まり従来の耕作地に「麦・豆・牧草・園芸等」の作付けを行なった農家に補助金が下りるが、すでに安価な輸入麦や大豆が大量に出回っていたため、減反のかなりの部分が転作される事無く耕作放棄地が拡大しました。
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画像はコチラからお借りしました。
⑥現代と戦後時の農業人口の比較

戦後時の農業従事者は1.167万人で日本の人口が約7311万人でした、実に日本人の7人に1人が農民でした。
一方、現在(平成24年度)の農家人口の586.4万で、日本国民総人口が約1億2751万人なので21人に1人が農家の現代です。
さらに、現代の農業人口の205.8万人は65歳以上と言う現実で、当時は現代よりも遥かに農業が盛んだった事が伺え、現在の後継者不足の問題は深刻化しています。

⑦まとめ

江戸時代の農業は幕府(支配者)も農民も含めたみんなの物だったので、当事者意識に基づいて各農村で自主管理をしていた時代だった。
次に、明治から昭和戦前までは近代化によって、農業は政府(官僚)によって支配(搾取)される事となり、その為の政策がとられた時代。
戦後~現代ではアメリカによる日本支配が鮮明になり、その為の政策がとられ、農業においては農村共同体の完全崩壊に繋がりました。

次回は、じゃぁ現在はどんな農業政策があるの?を追求していきたいと思います

投稿者 agrisensi : 2013年04月19日 List   

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