2022年10月7日
2022年10月07日
【これからの林業を考える】シリーズ5~「自然の力を使いながら山を管理」していく、江戸時代の林業が最先端である理由~
※画像はこちらからお借りしました。
これまでの投稿で紹介してきたように、日本の林業は、奈良時代より「はげ山」と「植林」の歴史を繰り返してきました。
日本の林業の起こりは江戸時代にはじまり、それまでの大量伐採と禁止ではなく、「森林資源の保存」という認識が生まれたのもこの時代です。
江戸や大阪などの大都市で人口が急増し、木材の需要が増大し、大量の森林が伐採されることで、江戸幕府は持続可能な森林資源をつくっていく動きを強めていきます。
そして、幕府主導で森林資源の枯渇、災害等の課題が深刻化、幕府主導で「留山制度」、「諸国山川掟」を制定していきます。
また、伐採を禁じるだけでなく、区画ごと順々に伐採を行う「輪伐」、成熟していない樹木を伐採しない「択伐」などの制度も整備し、現代の林業の源流を築いていきます。
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今回は現代と江戸時代の林業の違いについて整理したいと思います。
江戸時代の林業には、大きく捉えると以下の2つの違いがあります。
◯江戸時代の林業技術
江戸時代と現代の林業の大きな違いに苗生があります。
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現代の苗木は「樹木を早く成長させる」ことを目的としているために、根を切って細かい根を出させる『直根』の苗を利用しています。
直根の苗は成長が早いのが特徴ですが、根が細く、短いため地震や大雨の際に土砂災害を起こしやすいという欠点もあります。
それに対して、江戸時代の苗は天然の『実生苗(みしょうなえ)』を使っていました。
実生苗は根が長く太いので、成長に時間がかかりますが、地面に強く根付きます。
実生苗から育てる樹木は200~300年を掛けて樹木を成長させていく必要がありますが、時間を掛けている分、木の目が細かい良質な樹木を育てることができます。
(現代でも吉野杉は時間を掛けて成長させるため良質な樹木を育てることができています。)
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江戸時代の樹木は「木1本で家族が一年暮らせた」のに対して、現代の樹木は「1本数万円程度」でしか売れないという差はそこからも生まれています。
江戸時代の林業は商業を目的としていないため、人工的ではなく『自然の力を使いながら山を管理』していく、そのような思想のもとで山を創っていっています。
だからこそ、江戸時代にはいい樹木が育ち、災害にも強い山を作ることができていました。
◯江戸時代の山守
現代と江戸時代の違いのもうひとつは、江戸時代には山を所有する「山主」だけでなく、山の樹木を管理する「山守」が存在していたことです。
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山守は藩から配置され、複数の山主の山の管理を行うだけでなく、山を見回って盗伐を防いだり、集落がどのように樹木を利用しているのかを監視したり、山だけでなく樹木がその後どのように使われていくのかまでも管理していました。
地域の山を守る役割を担い、人々の生活と密着した形でどのように山を維持し、使っていくのかを考える役割が存在したのです。
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現代でも奈良県の吉野地域でも、担っている役割は変化していますが、江戸時代から続く山々の管理を担う山守が仕組みとして残っています。
人々の生活と林業を繋ぐ役割がいることで、江戸時代は災害に強く、品質の高い森林をつくっており、現代でも良質な林業が続いている地域ではそのような役割が遺っています。
◯戦後の商業的な林業が日本の林業衰退を招いた
「自然の力を使いながら山を管理」するという思想のもとで、林業技術も、役割も存在していました。
商業的に山を利用するのではなく、地域の人々に求められる樹木、どのように伐採していくことで環境を守ることができるのか、山林資源を維持できるのか、そういったことを追求する人が山には存在していたのです。
しかし、明治に森林法が制定されて国有林が生まれ、戦後に全国的にはげ山になったことで国策として日本の山々は商業的な側面が強まっていく過程で日本の山の品質は下がり、林業が衰退していきます。
今回は江戸時代と現代の林業における大きな違いに絞って紹介しました。
次回は江戸時代以降の林業の変化について触れていきたいと思います。
【参考ページ】
林業の歴史を振り返ろう、日本の森林整備を巡る歴史紹介
江戸時代の林業が山を救う!? 300年続く「山守」に会ってきた
自伐化する山旦那──江戸時代の山守制度が残る奈良県吉野地域からの来訪者たち
江戸時代の森林と地域社会
名古屋城をつくった木のおはなし
投稿者 tiba-t : 2022年10月07日 Tweet
2022年10月07日
24節気シリーズ4~日本人は「月」に何を見ていたか?
前回の記事では、暦について扱いました。月・地球・太陽の動きと一体となることそのものを「つきよみ」→「暦(こよみ)」とし、二十四節気も宇宙や大自然と同期、調和していくためのツールとして取り入れたのではないかと考えられます。
日本では、明治時代になって太陽暦が広く使われるようになるまで、新月から満月を経て新月まで(29.53日)を1ヶ月とする太陰暦が用いられていました。
古来の日本人は「月」に何を見ていたのか。今回は、そこから日本人が見ていた世界観・自然観に同化してみたいと思います。
■月の満ち欠けと人々の生活
沖縄や奄美大島など、漁業が盛んな地域では、潮の満ち引きに密接に関わる「月の満ち欠け」をもとにした旧暦が現代の生活にも根付いています。江戸時代まではどの地域でも、太陽太陰暦=旧暦が用いられていました。
そもそも「月」と「潮の満ち引き」にはどのような関係があるのでしょうか?
満潮・干潮という言葉を耳にしたことがあると思いますが、「月の引力」と「地球の自転で生じる遠心力」によって起こる現象です。
月の満ち欠けのリズムは、私たち人間の体にも様々な影響を与えていますね。例えば、女性の月経周期や出産など。
人体は60~70%が水分でできており、これは海が地球の面積の約70%を占めているのと同じで、人体と水分の関係は、地球と海のような関係とも言えるのではないでしょうか。
■「月待ち」に見る日本人の自然観
中秋の名月にお月見をしたり、夜道の帰りに月を見上げたり、月は現在でも私たちにとって憧れや祈りの対象となっています。(海外ではわざわざ月を見る習慣はないんだとか。)
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昔の日本人は月をどのように捉えていたのか、それがよく分かる「月待ち」について紹介したいと思います。引用元:https://www.fujingaho.jp/culture/traditional/a57661/moon-171004/
「『月待ち』とは、特定の日に特定の形の月が現れるのを待つ風習です。1872(明治5)年の改暦で西暦が採用されるまで、日本人は月の満ち欠けをベースにした太陰太陽暦に基づいて生活していました。『十五夜』や『十三夜』の月が尊ばれるのは現在でも同様ですが、そのほかにも『三日月』や『二十三夜』、『二十六夜』など、特定の日の月が信仰の対象にされていました。昔の人は現代人とは比べものにならないくらい、月の形に敏感だったんです。」
(中略)
月と日本人の関係を考えるとき、重要なポイントが3つあると志賀さんはいいます。「まずは光。照明のなかった昔は、夜間の活動を可能にしてくれる月光がとても重要でした。たとえば赤穂浪士の討ち入りは太陰太陽暦の『十二月十四日』ですが、十四日の月は満月も近く、朝方まで出ている明るい月。その光は夜討ちの助けになったはずです。次に、月を見ると誰かを思い出したり、何かを願う気持ちになるという意味で、月はメディアでした。『万葉集』の時代から、月を詠んだ歌がたくさんあることがそれを示しています。そして、満ちて欠ける月は、生と死の象徴であり、再生のシンボルでした。現代の日本でも重要な祭祀の儀式は、夜を徹して行われるでしょう? 月は特別な存在であり、本来夜は神聖な時間なのです」
冒頭に書いた通り、月の満ち欠けと人の体はリンクしています。
「月待ち」という行事からも分かるように、古来から日本人は「月」を見て自然界の大きな流れ・動きを感じ、そのエネルギーと一体になることで、調和しながら生きてきたのではないでしょうか。
そう考えると、「人間は自然の一部であり、人間の体の中にも自然界と同じ構造がある」と捉えていたようにも思います。
今回の記事では、日本人が「月」に何を見ていたかに同化してきましたが、日本人と暦にはもっと深い関係がありそうです。次回は月と密接に関わる太陰暦について、追求していきたいと思います。
<参考>
二十四節気に合わせ心と体を美しく整える・村上百代
旧暦に見る2014始まりの新月
https://juttoku.jp/blog/2014/incense-life/0331_1149
投稿者 k-haruka : 2022年10月07日 Tweet