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2013年10月12日

農業全書に学ぶシリーズ<プロローグ>「農業から社会を変えようとした男たち」序-2 ~素人の創造編~

前回の序-1では、農業全書が登場した江戸時代前期の日本の状況を押えていきました。今回序-2では、農業全書を作り上げた「2人の男」にスポットをあてて、農業全書ができるまでの過程を追っていきます  
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日本は古来より瑞穂の国と言われ大昔から農業国として成立していたので、江戸前期の農民たちは特別な技術がなくても、経験知によってある程度の収穫を得ることが出来ました。
しかし、農民の経験や工夫は個々に親から子へと口伝えに伝えられるだけで、農業技術の高度化や普遍化、ましてや蓄積や共有化は、全国の農民たちの間では全く成されていなかったのです。新田開発が一気に進められ、開発面積も限界だった江戸時代前期。収量を高めるために日本に残された大きな可能性こそが、全国レベルの農業技術の向上だったのです。
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農業技術向上を統合軸として追求した男、宮崎安貞
 
安貞は1623年、広島藩の山林奉行の家に生まれました。この頃は、徳川幕府が武家諸法度などの規則を作り、幕府に協力的ではない大名をつぶしたり、領土を替えたりして天領(=江戸幕府の領地)を増やしていました。ついには天領が日本全国の約四分の一にもなり、全国に武士の失業者が大量にあふれていた時代でもありました。
この状況の中、安貞は25歳の時に二百石禄米で福岡藩の黒田忠之の家臣となります。武士の失業者があふれるなか、他藩である福岡藩の山林奉行に採用されたのですから、群を抜く才能を買われたにちがいありません。それを裏付けるかのように28歳のときに安貞は、福岡藩から京都遊学の命を受けます。このとき、当時の国学だった朱子学派の大学者をたずね、講義を聞き自分も講義をしています。
ところが安貞は仕官から5年後の30歳の時、200石の禄米を捨てて、突如旅に出ます。
 
 
暫くして、九州から紀伊、伊勢などに、不思議な人物の噂が流れました。武士のように見えるけれども、腰に刀は差していません。ただ山の形や野の様子、川の水利などをせっせと写生しています。立ち居振る舞いは上品で、お米やお金についての話、日本や中国の昔話などには大変詳しい人物でした。では学者かと思えば、手には鋤(すき)や鍬(くわ)を握ったタコがある。全国各地に旅をして有名な老農を訪ねては、一心に話を聞いている。この武士なのか、学者なのか、農民なのか分からない不思議な人物。それが安貞だったのです。江戸時代も50年以上続いた寛文の頃、宮崎安貞35歳。 
 
 
旅に出た安貞は、九州を始め山陽道、近畿、伊勢、紀州の諸国を巡歴し、各地の篤農家を訪ね、その経験を聞いて種芸を学び、農の集成と中国の農業書を読み、研究を積んでいたのです。
さらに旅から帰ると、今度は刀まで捨てて志摩郡女原(みょうばる)村(現在の福岡市)に住みつき、一農民となって自ら鋤鍬をとり、農業を始めます。その間に世は元禄の時代に移りますが、安貞は、ただひたすら村民を励ましては開墾を奨励し、自分も鍬をふるって耕し、その合間を縫って中国の農業書をかたっぱしから読み、すこしでも時間があると近畿、中国、九州の各地に出かけて経験の深い老農の話を聞き歩きました。そして村に帰ると、それらを実際に自分の農地で黙々と実験を繰り返しました。誰に頼るでもなく、独学で、その身ひとつで農業技術のセオリーを追求していたのです。
 
 
%E2%97%8F%E5%AE%89%E8%B2%9E%E6%9B%B8%E6%96%8E.jpg宮崎安貞の書斎
 
藩の財政難・無職浪人の増大・度重なる飢饉・農民の困窮生活。安貞の目的は、農業技術の高度化でした。安貞は農民が技術的に水準が低く、そのために、豊かで明るい生活の道をたてられないことを嘆き、農民が豊かな生活をおくることなしに、クニ(藩)の繁栄は有り得ない。その為に何が必要か?自分何ができるか?を考え続けていたのです。
 
 
学問を統合軸として追及した男、貝原益軒
 
ここにもう一人の男が居ます。名を貝原益軒といい、同時代を生きた安貞より7歳年下の福岡藩士です。後に、江戸時代の健康本として有名な「養生訓」を著すことになる人物です。
益軒は若い頃から博識で知られ、18歳で二代目福岡藩主・黒田忠之に仕えます。ところが、忠之の怒りを買いわずか2年で職を失います。原因はよく分かりませんが、忠之自身が相当の問題児であったといわれていますから、益軒だけが例外的に怒りに触れた訳ではなかったのでしょう。けれども学問に通じた益軒が、忠之の強引な藩政に意見し、怒りをかった可能性は想像に易いと思われます。
益軒はその後、7年間の浪人生活を余儀なくされますが、この間にも益軒は自費で何度も長崎に遊学、積極的に中国文化の摂取・吸収に務め、唐通事・蘭通事とも交際しています。浪人になって追求意欲は衰えるどころか益々高まっていきました。長崎での医学修行等を経て1655年26歳の時、父を世話するために江戸へ、その時、髪を剃り号を柔斎(じゅうさい)として医者になります。
江戸では福岡藩邸内の藩士たちに親愛され、その博識と圧倒的な学問の力量は皆に認められていました。いわば独学であらゆる学問を追求し続けてきた益軒ですが、この時期から医学より儒学(思想)に力を入れはじめ、高名な儒学者らとしばしば交流していきます。
27歳の時、藩主交代によって3代目藩主・光之に福岡藩の医者として迎えられ再び仕官します。光之は文治を好んだ藩主で、学問に明るい益軒を藩費で京都に留学させます。そして益軒は10年の間、朱子学(再構築された儒教)・本草学(薬草学)・博物学、数学等を深く学んで行くことになります。益軒は、机上の知識だけでなく、現地に出向いて自分の目で見て確かめるという、当時の学者には無かった実証主義的な姿勢を重んじたと言われ、同時に数学を重視し、天文などにも興味を持っていたと言われています。
 
%E2%97%8F%E8%B2%9D%E5%8E%9F%E7%9B%8A%E8%BB%92%E3%81%AE%E5%9B%B3.jpg益軒の図
 
その当時、日本の国学であった朱子学。そこには政治の根幹として「社会秩序の基盤に農がある」という事が記されています。個人と社会は「理」と呼ばれる普遍的原理で結ばれている、これを自己修養で把握すれば社会秩序は維持できる、と考え、[個人と社会を統合する思想]として提唱したものが朱子学です。そして、その基盤に生産、すなわち農業の重要性が説かれていたのです。
在野実学の農学者、宮崎安貞39歳、学問の探求者、貝原益軒32歳。この二人の雄が、ついに京都で出会います。安貞が京都に農業視察に現れた時、京都を案内したのが京都遊学中の福岡藩士、益軒でした。
朱子学に秀で、本草学、薬物についての学問の探求者でもあった貝原益軒は、農業技術の向上によって世の中を安定させたいと願い行動する安貞と出会い、触発されると同時に「世の中のことを考え、農業を発展させたい」という同じ思いを持つ仲間として、急速に親交を深めていきます。安貞の生き様に感銘を受け、その蓄積された知識と技術を書籍にし、皆に広く伝える事を安貞に強く薦めたのもこの益軒でした。
 
 
 
運命の出会い。経験と理論の融合が生み出した「農のグランドセオリー」
 
1.幕府・藩にかかる圧力
・「いつ取り潰されるか」「いつ謀反されるか」という同類圧力の上昇
・参勤交代制度等における市場化と経済圧力の上昇
 
2.大衆側にかかる圧力
・幕藩体制からあぶれた浪人たちによる治安、秩序、雇用の悪化
・度重なる飢饉や人口増大がもたらす食料不足による生存圧力の上昇
 
 
この社会的外圧に、二人は農業技術の体系化と高度化に活路を見出します。そしてついに共認ツールとして「農業全書」の書籍刊行に取り組んで行きます。
  
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安貞の40年に及ぶ農業の実践追及、益軒の卓越した知の融合が、それまでバラバラであった農業技術を体系化し、農業の知識・心得・技術の集大成として、更には絵と平仮名を多用して、庶民にもわかる農業のグランドセオリーを作り上げます。それは安貞が藩を飛び出し、旅に出てから44年後のこと。
西暦1697年、安貞74歳、益軒67歳。安貞が生涯を費やし、益軒が心血を注ぎ込んだ日本初の農書「農業全書」が完成したのです。
 
益軒はその後84歳の長寿を全うし「養生訓」をはじめ多くの著書を残しますが、安貞は農業全書の原稿が完成した年、出版物を見る事なくこの農業全書ただ一冊をこの世に残し、74歳でこの世を去っています。
 
 
プロローグいかがでしたか? 二人の男が作り上げた江戸時代の農業の集大成・農業全書。次回からいよいよ本編がスタート☆その核心に迫ります!!お楽しみに☆ 

投稿者 kasahara : 2013年10月12日 List   

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