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2013年10月17日

シリーズ「自給期待に応える食と医と健康」①~<プロローグ>医者への不信感と自給期待

 福島原発の事故によって、食品の放射能汚染が深刻化しています。国家ぐるみで安全神話に浸かり、津波対策を怠ったことは重大な問題です。また、2011年4月には石川県の焼肉チェーン店で、169人の食中毒を発生させ、5名が死亡するという多大な被害を引き起こした事件では、厚生労働省の衛生基準が甘かったことが指摘されています。
 これらの事件を背景に、自分の健康をどう保つのか、「食」や「医」に対する大衆の興味関心が急速に高まっています。例えば、3・11以降広範に広がる気配を見せている「食抑」意識。食抑意識とは「万病の元は食べ過ぎに有り。一日2食で充分。(理想は1食)」という認識であるが、これは「一日3食」「朝食はしっかり食べろ」という医者・学者の云う常識を覆す認識でもあり、これらに関する出版物が猛烈に売れていることからも、大衆の意識が捉えられます。また、最近は「○○さん、癌治療していないんだよ。」って言葉。」にも紹介されているが、癌になっても抗がん剤を打たない人が多くいるように、これまで食や医について、医者や学者やマスコミの云うことを信用してきましたが、ここに来て、お上や医者に対する不信感が確実に広まっていると言えます
 一方、健康食品について、ダイエットと称して、違法に医薬品成分を添加した製品を売りつけ、健康被害を起こしている事例もありながら、一時の勢いは衰えたものの2012年で売上7,000億円と大きな産業として位置付けられています。
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        http://www.yano.co.jp/press/pdf/897.pdfより引用
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http://plaza.rakuten.co.jp/wellness21jp/diary/200811030000/より引用
 健康でいたいという思いは、誰もが抱いている願望ですが、何故、これほどまでに注目されてきたのでしょうか?また、これから先、我々は、健康というものをどのように考えていけばいいのでしょうか?

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1.健康ブームは1970年代から
 下表に戦後30年間の健康食品の流行をまとめていますが、こうして健康食品が注目されるようになったのは、戦後の食糧難から脱出し、食糧供給がほぼ国民全員に充たされるようになってからと思われます。例えば、クロレラは、現在では免疫機能の改善や生活習慣病の予防が期待できるといわれているものですが、当初は、タンパク質含量が高いことから、食糧難の時代に対応する未来の食糧源として注目され研究されていたようです。その後、1970年頃からは、農薬や添加物の問題がクローズアップされ、化学合成した物質は危険で、天然や自然のものは安全で体に良いというイメージがもたれ、自然食品とよばれる食品が数々登場してきました。つまり、これらの現象の登場してきた時代は、ほぼ全ての家庭に三種の神器(洗濯機・冷蔵庫・テレビ)が行き渡った1970年頃、つまり日本では物的欠乏が衰弱した頃と一致しています。
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      上表は、ドメス出版 食とからだ・こころ「医食同源」津金昌一郎著 からの引用です
 この豊かさの実現⇒私権衰弱(貧困が消滅して以降、財(金)、地位、異性(女)などの私権を求める欠乏が衰弱)の結果、人々は私権獲得に代わる充足源として、新たな可能性を求め始めたとも言えます。しかし、実態の健康食品は、低カロリーで消化吸収がよくないダイエット食品の流行など、消費者の贅沢を充たす、つまりお金と時間を使って充たされない不安を解消するだけのもの=代償充足の領域に止まっているものに過ぎません。これらの欠乏を対象化したのが現在の健康市場です。
 これらの背後には、物的欠乏の衰弱と縮小する市場に対して、政府や企業、マスコミなどの危機感からの思惑も感じられます。また、マスコミが過剰情報で不安と欠乏を扇動し、食品は、市場拡大の為に残された最後の領域とも言えます。実際には、人工物質、遺伝子組み換え、放射能、薬害等、食品汚染、環境汚染が深刻化し、「健康に良い」商品の大半はダマシである、と言っても過言ではありません。
 1970年頃から生起し出した安全・安心を求める健康志向は、本質的には数々の公害問題と環境問題を起こした市場主義への違和感であり、脱市場の流れでもあります。その人々の意識の底流にあるのは、人間本来の生き方、健康のあり方を求める根源回帰、本能回帰の大きな潮流があることを認識しなければなりません。
2.そもそも健康とは何か?
 健康が市場拡大の手段、その大半ダマシであることは、WHO憲章(世界保健機構1946 年)の次の文面からも読み取れます。
「健康とは、身体的、精神的、及び社会的に完全に良好な状態であって、単に疾病がないとか、虚弱でないというだけでない。今日達成しえる最高水準の健康を享受することは、すべての人間が、民族、宗教、政治的信条、経済・社会的な信条に関わりなく、共通に与えられている基本的人権のひとつである。」
 ここで言う「共通に与えられている基本的人権」とは現実には有りえない状態で、先にも述べましたが、個人の権利=私権を正当化するための観念であると言えます。言い換えれば、私権の欲望を開放することで市場拡大しようという意図が見え見えです。
 一方、江戸時代以前には「健康」という言葉はありませんでした。当時の農学者であった貝原益軒が自著「養生訓」で病気にならない生き方として「欲をすて謙虚に、畏敬の念を忘れずに生きる」と言っているように、個人の欲望を抑制することが「健康」を保つための基本と捉えていました。
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上図はhttp://www.100souen.co.jp/r_column.htmlからの引用
 次代が下り、明治に入ると、富国強兵と市場拡大の要請から、知識人を始めとして、私権を追求することがひいては国益につながると解釈する人が増えてきます(Ex.西周「人世三宝論」「公益ハ私利ノ総数」。Ex.長与専斎「衛生概論」。「衛生ノ事タルヤ広シ、小ニシテハ一人ノ康福、大ニシテハ国家ノ富強」)。また、この頃から西洋医学の導入が進み、「健康」や「衛生」という概念が人々の間に浸透していきます。
 さらに戦後は、日本国憲法25条「すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2.国は,すべての生活部面について,社会福祉・社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とあるように、「健康」という概念が当たり前のものとして、人々の私権追求を正当化するものとして、現在の政策(ex.健康増進法)につながってきます。
3.人々の自給期待の高まりに応える!
 人々の311以降のお上や医者に対する不信感、或いはその後の「食」や「医」に対する意識の高まりは、既存の常識に頼らず自らが「健康」について考える、或いは、「健康」を維持する為の食品や料理に関する情報を自らが掴み・選ぶといった「自給期待」の意識の高まりとも言えます。
 しかし、巷に氾濫する商品には、市場或いは利益拡大を第一とする価値感に染まった食材や、それらに関する情報が入り混じっています。そこで、本ブログでは、江戸以前の「健康」に対する考え方や、そもそも人間或いは日本人の体にはどんな食材が適しているのか、或いは、どのようなメカニズムで適応しようとしているのか、以下の視点で追及していきます。
  
先人の知恵に学ぶ
自然の摂理に従って生きる
外圧適応態として存在している人間、或いは日本人の身体機能が十全に働く状態とは何かを知る。
人類は共認充足なくしては健康とは言えない。近代の健康観念からの脱却
 これらの切り口を元に、自然の摂理に従った食材或いはそれに纏わる情報の供給のあり方、或いは、本源回帰(安全・安心、脱市場→自給期待)、共認収束の潮流に応える供給のあり方について、答えを出していきたいと考えています。
それでは皆さん、次回以降の記事を楽しみに!

投稿者 staff : 2013年10月17日 List   

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