【コラム】江戸時代の農業政策 |
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2013年04月09日
【コラム】明治からの農政~近代化と農の崩壊への歩み~
前回の、江戸時代の農業政策に続いて、明治期から、戦前までの農業政策について、調べてみました。
そもそも、現在は、「農業政策」と呼んでいますが、明治以前は、農業に関する全体方針は、「勧農」という言葉が使われていました。
「勧農」とは、Wikipediaで牽いてみますと、こんな風に書いてあります。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A7%E8%BE%B2
勧農(かんのう)とは、主として支配者が農業を振興・奨励するために実施する行為全般を指す日本史の用語。元は中国古典に見られる『勧課農桑』という句が略されたもので、日本では律令において国司の職務とされたのが初見である。儒教的な農本主義に基づく言葉であり、秋の「収納」に対し、春の「勧農」という言葉もある。現在では、近代的な経済政策・社会政策としての「農業政策」の言葉が一般に使われている。
おおざっぱにまとめると、「勧農」は、「農本主義」に基づいて採られてきた「農業政策」と言うことになります。
では、「農本主義」ってなんでしょう?
Wikipediaで牽いてみますと、こんな風に書いてあります。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9
農本主義の思想は「農は国の本(基)」(のうはくにのもと)という短句により表現される。近世(江戸時代)において幕藩体制維持のため農業・農民の重視・保護を主張した農本思想はその前史として位置づけることができるが、明治維新以降、産業革命すなわち工業化の結果、農村社会の解体が進むと、これに対抗して農業・農村社会の維持存続をめざす農本主義が成立した。したがって農本主義は近代特有の歴史的条件のもとで初めて成立した、きわめて近代的性格をもつ思想・運動と見なすことができ、前近代の封建社会において発生した農本思想とは、厳密には異なる。農本主義の歴史は、第一次世界大戦(もしくは1920年代末期の農村恐慌)を境に、大きく2つの時期に分けることができる。
明治期以前の儒教的な農本主義と、明治以降の近代思想としての農本主義は異なっていて、当然、それによって採られる「勧農」=「農業政策」も変わっていきます。
明治になって、近代思想を導入したことによって、日本の農業は根本からその位置を変えられてしまいました。
具体的には何が変わったのでしょうか?
大きな分岐点となった政策があります。
「地租改正」です。
こちらからお借りしました。
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地租改正とは、1873年(明治6年)に明治政府が行った租税制度改革です。
律令制(7世紀末)から続いてきた、物納制(年貢)の徴税から、お金をによる徴税に切りかえた改革です。
江戸期までは、税金はお米で納め、武士(公務員?)はお米で給料を支払われ、必要に応じて換金して経済が回っていました。米本位制の経済です。
ですから、お米(農産物)が貨幣の価値を決めていると言うこともありますし、農村では貨幣があまり必要とされなかったということでもあります。
これって、幻想価値のつきにくい、絶対価値としての農産物を中心とした経済だったと言うことで、絶対価値を生み出す農業が国の基本となっていたことを意味しています。
ですから、農地はそのものが価値を持つわけはなく、耕作して生産することに価値がありました。農民は、農地の生産権を持っている意識はあっても、農地を私有している意識は薄かったと思います。それは、支配階級にとっても同じで、徴税権は持っていても、領地を私有しているとは思っていなかったと思います。
為政者の農業に対する認識は、生産や生産者そのものを対象としており、その対象をどうする?という政策(勧農)が採られてきました。
しかし、地租改正で米本位制は放棄され、貨幣経済に完全に移行します。
まず、「地価」が設定され、それに応じた(生産にかかわらず)税金が徴収されます。しかも、お金を持たない新政府が必要としたため、3%という高率でしたから、農民はたまったものではありませんでした。
それを納めるために、商品作物の生産を上げることを余儀なくされるとともに、生産できないものは土地を売ると言うことになり、大地主が発生します。
地価の発生によって土地の私有意識が生まれましたので、それまでの生産権とか徴税権とかとは違って、生産に関わらなくても利益を得ることが出来るようになったので、寄生地主という生産現場に不在の地主も成立するわけです。
つまり地租改正は、農業が市場経済に飲み込まれる転換となるとともに、共存関係にあった為政者と農民(国民)が明らかな支配・被支配関係にり、新たな資本家(地主)という支配階級を生み出す政策でした。
地租改正は、近代化の名の下に、農村(日本の国民)にもたらしたものは、「土地の私有意識」「生産<お金」「共同体の解体⇒支配体制の確立」といったものだったといえます。
類ネットに、そのことをはっきり表している投稿がありますので、紹介します。
明治維新の地租改正は何のために行われたのか?
明治維新が終わり、廃藩置県を行った政府は その矛先を国家の基礎である農村に向けた。いくら藩を廃止しても、その収奪の仕方は 幕府時代と変わったものではなかった。例えば 物納制度の廃止がある。
それまでは、年貢は米で納めさせておき 政府のほうでその米を売った代金を金に代えていた。この方法によれば、その年の米の出来具合によって 税金の額が変わってしまう。これは、予算を作成する為に非常に不便な制度だった。
政府は、これに対応する為に地租改正を行った。これに先立ち 政府は 1.田畑作物栽培の自由 2.土地売買・処分の自由 3.土地所有権の国家による確認を71年から72年と行っており これを前提として73年に発令した。具体的な内容は以下のようなものである。
1.これまでの年貢は土地の収穫の多少に応じてその何割かお年貢として現物でとったのを改め、土地の価格を政府で認定し、その三パーセントを地租として政府がとり、地租の三分の一を地方税として町村がとる。豊作凶作によって税金の増減はない。
2.元の年貢は村ごとにまとめてその石高にかけられ、村内の滞納者のぶんも五人組または村全体の連帯責任で納めたが、地租は土地所有者の個人からとる。その者が納税できなくても、だれも連帯責任はない。
3.地価は改正後五年たてば、地価により改定する。
(井上 清著「日本の歴史 中」より引用)
この中で目を引くのは 地価の3パーセントを地租として政府が取る部分である。税金の金納ということになれば 年の豊作・不作によってその必要な米の量は変わってしまう。その上 市場を操作する者がいれば その時期のみ価格を下げておいて より以上に米を放出させることも可能になった。農民にとっては、いままでの生産者としての立場から 商品流通の市場理論に勝手に組み込まれてしまったことになる。
それでなくても 明治維新により「天子様」の世の中になり 楽になるはずだった生活がかえって苦しくなってしまったのである。
その原因のひとつは地租の設定の仕方であろう。勿論、地租改正によって「土地が個人のものになった」という利点があった事は見逃せない。しかし、土地に対する地租の決め方が問題だった。以下に地租決定方法について書かれた文章を見てみよう。
「・・・しかし、実際の政府の意図は、旧貢租水準の『目標額』を上から強制的に押し付け、高額地租を確保することにあった。
政府はまず、国費の必要額にもとづいて各府県の地租収入予定額をきめ、府県はそれを各町村にわりあて、町村は各戸にわりあてた。上からの『目標額』設定、そして、それに応じて各戸の地租額が算定されたのである。
全国各地で、地価の決定をめぐって、農民と改租掛官・地方長官との間に激しい争いがおこった。高い地価にもとづいて高い金納地租を払わされることは、農民にとってまさに死活の問題だったのである。そして地方長官は、この反対を強引な形でおしつぶした。
府県の改租掛官は、各村からの上申を調査し、自己の見積によって査定して村民から承諾書をとった。この段階では、たとえ圧制になろうとも、強引に府県の査定が押しつけられた。農民側の立場に立つ戸長は被免され、総代は罰せられた。村請けの形で、村民一同が連署調印の誓書を書かされて、『目標額』を受諾させられた地域もある。あるいは『朝敵とみなして赤裸にして外国へ追放する』と脅迫した地方長官もあった。口による脅迫だけではなく、実際に投獄された例もある。いずれにしろ、政府があらかじめたてた目標達成がまず第一に優先したのである。・・・」(大島 美津子著「明治のむら」より引用)
つまり、必要とされる税金を取るため 強制的に地価を決定したのが地租改正の現実であった。しかし、地租改正の問題は ここにとどまらない。むしろ 個々の問題というよりも政府役人の考え方にあったのである。政府役人たちは、その考え方の基本から人民を保護するとか 人民のために働くとか そういった気持ちがまったく無かったのである。よく、明治の高官達は「国民の為に努力した」とか「自分の私利私欲を離れ、日本の近代化に努めた」とか言う人々がいるが そうではない。彼らは 手に入れた権力の魅力に取り付かれ、その力を手放さないように必死になっていた一種の亡者そのものだ。その彼らには 国民・農民の声は届かなかった。以下の文章を見てみよう。
「・・・彼らは勝利者、士族のエリート意識まるだしで民衆に君臨した。彼らにとって第一に優先したのは富国強兵国家建設、あるいは政府主導の文明開化であった。このためには民衆が犠牲を忍ぶのは当然だ、さらに民衆が反抗するのは文明開化の理想を理解しえない頑迷さのためであるから、そんな反抗はおしつぶすべきだと彼らは考えていた。
たとえば、明治四年(一九七一)十月、浜田県より太政官への建言には次のような一節がある。『今般広島県下ノ民庶一時蜂起 知事ノ東行ヲ遮リ陽ニ惜別哀訴ヲ名トシ恣ニ人家ヲ毀焚シ財物ヲ掠奪御高札ヲ破却シ御紋御幕提灯ヲ取除ケサセ剰ヘ耶蘇教御施行ナドノ虚説ヲ唱ヘ至仁ノ皇恩ヲ蔑視シ重大朝憲ヲ違犯シ、愚民トハ乍云全ク反逆ノ所業可憎ノ至奉存候、方今天下維新ノ際眼ヲ洗テ成敗ヲ窺フノ時節、如斯暴民共一層厳重御処置不被仰付テハ何日カ御政体ノ相立候事カ之レ有ランヤ、恭ク惟ルニ御一新依頼廟謨日ニ新ニ孜々被為求治今ヤ御事業過半御成功、当是時更ニ御政刑ヲ明カニシ、御威信ヲ示シ、勧懲ノ典ヲ挙ゲ大ニ綱紀ヲ張ラセラルルニ非ズンバ愚民ドモ蠢動野心ヲ改メズ愈方向相失シ終ニ瓦解ニ立至候モ難計・・・』(『太政類典』ニ-一四八)。・・・
・・・この世直し騒動に言及した建前には地方長官の愚民観がはっきりと示されている。この類は他にも例が多く、その際奸民、愚民、頑民などの呼び方が頻繁に出てくる。
地方に頻発する強願、暴動は、人智がまだ開けずに人民が頑愚なためであるとされ、文明富強の国家を作るためには頑愚な人民を教え諭す一方、厳然たる態度でのぞむ必要がある、というのである。個人の幸福や権利に対立する国家全体の福祉のみを重視し、天皇の手による上からの近代化をほめたたえるという、いわば啓蒙専制主義的性格がそこにはあらわに示されていた。・・・」(大島 美津子著「明治のむら」より引用-太字は筆者による)
そこには、近代社会に必要とされる自由・平等の精神のかけらも感じられない。既得権にしがみつこうとするあさましい人間の本性しか感じられないのである。
こうして、明治以降の農業は、「国の元」ではなく、市場社会の中で搾取される対象となり、農民は私益確保の主体としての「個人」「労働者」になっていきました。
それでも、戦前日本では、なんとか本来の日本の姿を守ろう、取り戻そうと、農本主義を標榜して様々な運動も起こりましたが、それも、昭和恐慌(農村恐慌)に行き着き、戦後はアメリカ支配のもとで、完全な資本主義に移行し、日本の農業は解体されていくことになります。
投稿者 parmalat : 2013年04月09日 TweetList
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