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2013年05月21日
食と日本人の知恵シリーズvol.6~お茶の伝来と変遷
今日本人に親しみのある「お茶」
ご飯のときには必ずお茶が飲みたくなりますよね
実は私たちがこうやって今お茶が飲めるのも深い訳があったのです
今回はそんなお茶の歴史について探っていきたいと思います 😛
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①【お茶の起源】~もともとは薬だったお茶~
中国の神話によると、今から約5000年も昔、神農帝という神様が、山野を駆け巡り、人々の為に、食べられる草木と、食べられない草木を自ら食し、調べ分けたと伝えられています
もちろん、毒に当たる事もあって、多い日には、一日72回も当たる事があったそう
しかし、毒草に当たる度に、お茶の葉を噛んで解毒したと伝えられており、このことからもともとお茶は薬として服用されていたと考えられます
神農帝↓↓
この考えが漢方薬のもとになったそうです
もともとはお茶の葉を噛んで解毒していたのですが、それを煎じて服用し始めたことがお茶の始まりだと考えられます
②【日本への伝来】~昔は特権階級しかお茶が飲めなかった ~
お茶が中国から初めて日本に伝わったのが、遣唐使が往来していた奈良・平安時代です。
最澄、空海、永忠などの留学僧が、唐よりお茶の種子を持ち帰ったのが、わが国のお茶の始まりとされていおり、平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されていますが、これがわが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれています
このころのお茶は主に抹茶でかつ非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました
915年に京で疫病がはやり拡大した時、空也上人が祈祷と共に、梅干を添えたお茶を施したところ、疫病が鎮静し、その功徳にあやかり時の村上天皇も茶を服するようになりました
天皇が飲まれることから「王服茶」「皇服茶」とも呼ばれるようになったと言われています
鎌倉初期(1191年)に栄西禅師が、お茶の効用からお茶の製法などについて著した『喫茶養生記』(1214年)を書き上げましたが、これは、わが国最初の本格的なお茶関連の書といわれており、深酒の癖のある将軍源実朝に本書を献上したと『吾妻鏡(あずまかがみ)』に記してあります
書き出しには、『茶は養生の仙薬なり。延命の妙術なり。』と書かれていることから、この頃もまだ、お茶は薬だと考えられていたことがわかります 😀
当初、日本に伝わったお茶は薬として服用されていたことが分かりましたね
お茶を飲むときに「一服する」という言い回しを使う所以はここにあったのですね
③【煎茶の起源】~隠元禅師が伝えた煎茶~
日本に伝わったお茶は主に抹茶でしたが、中国では明の時代(1400年ごろ)製茶法が発達したことで再び抹茶が廃れ、煎茶の文化が盛んになってきました。
日本では、中国の隠元禅師が江戸前期の1654年に釜炒り茶の製法、喫茶法とともに来日したのが起こりと言われています。
当時伝わったお茶は、釜炒りした茶葉に熱湯を注いでしばらく待つという方法でしたが、この煎茶は現代の様に緑色ではなく、赤黒い色のお茶でした。
この時代は、まだまだ現在の私たちの飲んでいるお茶とは違い上流階級は「お抹茶」を一般庶民は赤黒いお茶を飲んでいる時代です
これまで見てきたようにお茶の伝来は抹茶が上流階級に伝わり、茶器に代表するように高級品として普及していきます。
同時に茶道としても高められ、茶坊主は政治にも関わり始めます
一方の煎茶はこの流れとは別のルートで広まっているようです。
では現在のような緑茶はいつ頃から飲むようになったのでしょう
④【煎茶の普及】~永谷宗円の「発明」で全国の庶民に普及~
江戸時代は将軍や幕府の人たちがお茶を楽しみ、毎年「宇治採茶使」に茶壷を持たせて江戸に運びました。
その一行をお茶壷道中と呼びます。
それが制度になり「将軍様のお茶が通る」といって誰もが路傍に控えてお茶つぼが通るのを待つようになったのは1633年の事でした
江戸時代は庶民もお茶を楽しめるようになった時代で、又お茶の生産が大きく進展した時代でした。
この「お茶つぼ」は日本の童謡「ずいずいずっころばし~」の中にある「茶つぼに追われて~」にも登場します。
この歌はこのお茶壷道中の光景を歌ったものだと考えられます。
ここでも抹茶は以前として特権階級の飲み物でした 🙁
さて、現在日本中で主に飲まれているお茶は「緑茶」ですが、その緑茶を作ったのは江戸時代、宇治田原町に住んでいた永谷宗円です
「赤黒い」煎じ茶を、緑色「当時の山吹色」の煎茶に変えた人物。
それが宇治田原郷湯屋谷の茶農、永谷宗円その人です
江戸時代、高級な緑色の抹茶栽培は宇治の特定の茶師にしか許されていませんでした
宗円は法に触れずに優れたお茶をつくって、在近の農家を豊かにしようと考えたのでしょう
抹茶の製法を煎じ茶に取り入れることによって、茶色のお茶を美しい緑色に変えただけでなく、香りも味も圧倒的に優れた高品質の煎茶をつくり出したのです
これが「青製煎茶」、即ち今に伝わる煎茶の始まりです
ときに元文三年(1738年)、八代将軍吉宗の治世でした。
吉宗の時代は国産を奨励して、各地で産業の発達を見ましたが、初夏に芽吹く新芽のみを丁寧に摘み取り、蒸して改良した焙炉の上で熱を加えながら、手で揉み上げるという製法を、約15年にわたって試行錯誤の研究を積み重ね、現在の煎茶の発明に成功しました
(ちなみにそれまでは、「朝摘み取った新芽を蒸し、いったん冷ます。次に炭火の上の棚に敷いた紙の上に拡げ、乾燥させる。 紙が焦げないように、終夜眠らずに火を調節する」という方法で抹茶が作られていました。)
当時、好景気に沸く江戸の町にこの青製煎茶を持ち込み、日本橋山本家にて販売(現在の山本山の祖と言われています)、爆発的な人気を博します。
宗円はこの製法を独り占めにせず、惜しむことなく湯屋谷の人々に伝授しました 😀
そこから、宇治村、信楽と広がり他の藩にも製法が伝わって行き、日本全国でこの製法によってお茶が作られることとなりました。
そして、明治時代には日本の主な輸出品としてお茶は活躍するのです
今飲んでいるお茶の起源は江戸中期だったのですね~
しかも永谷宗円さんという方が15年ほど研究した結果、完成したそうです
この人は実は現在の永谷園創始者の先祖!こんな時代から活躍していたなんて・・・スゴイ~
そしてこの研究を推奨したのが徳川吉宗のようで、今私たちがお茶を飲めるのも色々な人のお陰なのだとしみじみと実感です
今回はお茶の歴史について見てきました
いかがでしたか
中国から伝わったお茶はとても歴史のあるものですが、現在私たちが飲んでいる緑茶は日本人の工夫志向から生まれた日本独自の生産物といっても過言ではありません
また、昔は特権階級の人しか飲めなかったお茶ですが、体に良い「薬」と認識されていたお茶を、庶民に広げようと尽力した永谷宗円。
そしてその研究を推奨した徳川吉宗。
自分たち(特権階級)だけでなく一般庶民も健康になるようにと思いを巡らせ頑張ってくれた人達のおかげで今私たちは美味しいお茶が飲めているのですね~
江戸時代以前から「健康にいい」とされていたお茶。次回はそのお茶の効用についてお伝えしたいと思います
お楽しみに 😀
参考URL
お茶は薬(解毒剤)として歴史が始まった!?
江戸時代-お上と庶民
永谷宗円物語
投稿者 azusa : 2013年05月21日 TweetList
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