『有機農業をまるっと見る!!』シリーズ2 :欧米で有機農業が盛んな3つの理由 |
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2022年07月07日
『食農ブームはどこに向かう』シリーズ4 昔の農家と今の食農ブーム 何が違う?
さて、シリーズも4回目です。
どうやらこの新しい農業への動き、意識の変化は時代の外圧とともに必然的に変化してきた事が伺えます。それは高度経済成長の歪や市場経済の限界、さらには崩壊から端を発しています。しかし、古くは庶民は皆農業で生計を立て、自給自足で暮らしていました。ほんの150年前の江戸時代まで人々は共同体で農業をして今より遥かに心豊かで満たされた暮らしをしていました。その状況と、現在の食農ブームを比較し、本来の戻るべき自給自足とはなにか、そこに向けて何が足りないか、あるいは新しい自給自足のあり方とは何かを探っていきます。
■江戸時代
農村といえば江戸時代の共同体がまだ残っていた惣村の流れに行き着きます。
この時代の惣村とはどんな感じだったのかを見ていきます。
明らかに集団で農業をし、掟(ルール)も作り、何世代にも渡って皆の土地を守り耕し、自然の摂理の中で生きていました。電気もガスも水道でさえもない時代、太陽と共に起き、太陽とともに寝静まる生活を普通に暮らしていました。また、江戸時代は農業作物の技術追求が一気に進んだ時代でもあり、農業塾や農業本が巷に多く流布し、人々は自ら農業生産力を上げることに傾斜した時代。それは江戸時代から既に市場経済の萌芽が始まっており、より多品種で、安定して生産する事を皆で追求していたことが伺えます。
また、共同体の中で人々は暮らしており、現代より遥かに豊かな教育も人間関係も喜びも苦しみも集団の中に包摂されていました。
2つの記事から紹介します。
故郷はなぜ想うのか~生きる場と社会の仕組みを生み出した惣村~
>そもそも惣村とは何かという部分ですが、非常にわかりやすく言うと「自治の村」です。
それまでは、領主や荘園主が農民を管理して世帯主(あるいは家族)から上がりを徴収するという形でした。農地と居住地は同居しており、逆にそれぞれの住居は離れています。
惣村になるとこの状態ががらりと変わります。村請と言って、徴税の単位が個人から村単位に変わります。また居住地は農地から距離を置き、農民は1箇所にまとまって暮らすようになります。これが現在の農村の原型と言われる所以で、惣村以後の村はいずれも農地と居住地が離れる職住分離型となっているのです。村請となる事で、お上の税の取立てについても村単位で陳情を出すことができるようになり、過剰な徴税に対してブレーキがかかるようになります。
江戸時代が地方自治に支えられた、かなり完成された社会であった事は想像がつきますが、このお触れにあるように、決して固定的ではなく、時々の事象(=外圧や課題)に対してその都度、中央(=幕府)も藩も村も自前で方針を考え対応していた事が優れていた点だと思います。自治とは突き詰めればそれぞれが周りにおきる社会課題を自らの事として考える事なのです。そういう意味では江戸幕府もまた江戸という地域を自治していたのです。
外国人から見た日本と日本人(子供編)
幕末から明治初期に来日した欧米人たちが見た日本人の幸せな生活。モースはこう書いている。
私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。・・・
彼ら(JOG注: 子どもたち)はとてもおとなしく従順であり、喜んで親の手助けをやり、幼い子どもに親切である。私は彼らが遊んでいるのを何時間もじっと見ていたが、彼らが怒った言葉を吐いたり、いやな眼つきをしたり、意地悪いことをしたりするのを見たことがない。
現在と最も異なるのは
1. 職業選択の意識はなく、生涯農業をするという事が普通であった
生きる事=農業で作物を作ること。
2. 子どもは農村で学び、幼少期から農作業を担うことで自然と育ち、農業の技術の伝搬、追求は世代を重ねながら塗り重ねられた。
3. 惣村の中の共同農地で全員で仕事をし、全員で収穫していた。私有の意識はなかった。
皆で皆の成果を出していく、そういう社会だった。
4. 都市は江戸と京都、大阪くらいしかなく、日本全体が地方であり、田舎であり現代とは異なり遥かにのんびり、緩やかな時間を送っていた。
5. 機械化は進んでおらず、全てが人力、肥料も人糞を使っており、労働は多く、1日は農作業に始まり農作業に終わっていた。
■明治以降の農業の特徴
1.明治時代の国の施策により、共同体は解体され、農地は共同体所有から家単位の所有=小農制へと分解され、借地も含めた土地の私有が進んだ。
2.農協の登場により、農家は保護される代わりに農作物はすべて商品として管理され、生産意欲は減少へ向かっていく。頑張っていい農作物を作っても同じ単価で買い取られ、農協が安定して均一化した食料を供給する事で日本全国の食料安定を図る。
3.都市の発生と集中により、また第一次産業の斜陽により農業人口は激減し、農業は家で所有している土地を守るため、あるいは大規模に集約して効率化、ひたすら収量を増やすことで何とか他の仕事並みに利益を上げる工場型農業へと変化していく。
4.機械化が進み、肥料も科学肥料、生産量確保のために安全な食、おいしい食は犠牲にされていった。
5.2000年以降に農業は職業として選択するものとして他の仕事と同じように大卒から農業就職への新しい流れが登場する。
6.2000年以降、現在の学校教育の弊害から農業を新しい教育の場として位置づける考えが始まっており、農作業を通じて自然に触れ、作物を作ることで生まれる命の大切さや人間らしい教育、さらには仲間作りや人間関係力の育成に注目が集まり始めた。
7.2010年、有機農業が改めて見直され、国を筆頭に有機の推進が言われ始める。
■昔の農家と現在の食農ブーム
回帰なのか、新しい潮流なのか?
回帰の部分と新しい流れ、今の食農ブームは2つあるように思う。
(回帰)
都市から田舎へ、この流れは回帰である。
また、週末農業や貸し農園を通じて人つながりを求める、これも共同体への回帰。
有機農業は新しい技術ではあるが、江戸時代は間違いなく有機農業であった。これも回帰。
さらに、農業を通じた教育への可能性も江戸回帰である。
(新たな潮流)
食農ブームは昔の農家のようにがっつり農業をするのではなく、現在の暮らしを維持しつつ、ちょっと農業をかじってみるという動き。
仕事としてではなく楽しみや余暇の一環として農業を始めている。
(可能性と限界)
食農ブームは確かに新しい農への流れの小さな動きかもしれない。
しかし最も異なるのは、集団で集団の農地を耕し生産していたというかつての農家とは異なり、その単位は個人であり家族であるという事。また、農業が生計であり仕事のすべてであった昔とは異なり一部であり、生活手段ではないということ。
可能性は農業を通じて、人々が自然の摂理やゼロから作物生み出す価値や喜びを持ち学びを得て、市場経済や都市化への異常さに気が付き、やがては農業の主体へと移行していく可能性があること。共同体化や集団農業はその先にあるのだろうが、そこまでいかなくても隣人との垣根を少しでも取り払い、緩やかに農業へと可能性を見出している現在の位置は決して一過性のブームのようなものではないと思う。
ただ、これが農業再生に向かうかどうかは別物だ。
江戸の惣村と同じような課題と外圧があり、生きるために農業をしていく、そういう集団が登場し牽引できるかどうかだろう。
そういう意味では食農ブームと同時に牽引していく集団再生が必要なのは確かだと思う。それがどう登場していくか、この食農ブームと別軸で見ておく必要がある。
投稿者 tano : 2022年07月07日 TweetList
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