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2019年06月14日

最も身近で誰もが当事者である「食」から、リアリティを取り戻していく

著者をして「観客民主主義」と揶揄される現代社会。

必要なのは、(共犯者としての自分を棚上げにした)批判ではなく、「私はどうするか」。

最も身近で誰もが当事者となりえる「食」から、リアリティを取り戻していく。

本シリーズも、今回が最後。改めて、「東北食べる通信」創刊の背景に迫ります。

以下、抜粋引用(都市と地方をかきまぜる:光文社新書)

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■退屈から逃れるために
現在の肥大化した消費社会において、お客様は神様だ。生産と消費はコインの裏表の関係なのに、ひとたび問題が発生すると、すべて生産側の問題、責任とされる。消費者は文句を言っているだけで、その問題を解決する側に回ろうとしない。どこまでも他人事である。当事者とは責任を引き受ける人のことをいう。つまりリスクを負う人のことだ。消費社会では誰もがリスクを背負うことをしないので、問題解決は遠のいていく。
それだけではない。当事者であることを避け続ける私たちは、リアリティを失った。生きるということは常に死ぬリスクを抱えているということに他ならない。だからリスクに目を向けないことは、生きることに向き合わないことに等しい。
リスクを直視すれば、それを回避しようと私たちは考え、行動し、時に助け合う。それが生きるということだ。つまり私たちは今、「生きているけれど生きていない」。だからリアリティを感じられない。そして退屈している。

私はここにこそ、反転の兆しを見出している。

退屈から逃れるには、リアリティを回復するしかない。つまり自分を取り巻く環境や社会に関心を持ち、リスクを知り、それを当事者として引き受ける側に回ることだ。そうすることで、私たちは生きるスイッチをオンに切替えることができる。リアリティを回復できる人間が増えれば増えるほど、社会は今より確実によくなる。

■「共犯者としての自分」を自覚する
今思えば「東北食べる通信」を創刊することは、私自身がリアリティを回復することでもあった。
「東北食べる通信」は、東日本大震災がなければ生まれなかった。自然災害はその時代の社会の弱点を突いてくる。被災地で露わになった問題のひとつに、生産者と消費者の分断があった。支援に訪れた多くの都市住民が、震災前から高齢化・過疎化で担い手が減り続け、疲弊する農漁村の姿を目の当たりにした。その事実を自分の日常の暮らしに引き寄せて考え、そうした問題を生み出す側に間接的に加担していた「共犯者としての自分」に気付いた人たちがいた。私もそのひとりだった。
私たちは食べものを食べなければ生きていくことができない。その食べものを私たちの代わりにつくってくれていたのが、被災地の農漁村で暮らす農家や漁師だった。こんな当たり前の事実も、生産と消費が分断され、お互いの顔が見えなくなってしまった社会にあって、私たちは想像することすら難しくなっていた。

しかし被災地を訪れた私たちは、その事実を突きつけられた。自分の命を海に奪われるリスクを背負って漁をしている漁師たちの生き様に刮目した。彼らは自分の命をつなぐために、海で生きる魚たちを命がけで奪いに行く。そのリスクをとることは、他の生きものの命を殺めることに対する責任のように見えた。
リスクや責任を引き受けなければ成り立たない漁業の世界。そこで生きる人々の当事者意識を前に、何のリスクも責任もとらずにその恩恵にだけあずかっていた自分自身に後ろめたさを感じ、彼らの生き方を羨望の眼差しで見つめた。当事者になって生きることの覚悟と素晴らしさ。それが自分たちには決定的に欠けている。問われたのは、日常の消費社会における私たち都市住民の当事者性を欠いた消費のあり方だった。
支援者と被災者は、よく見れば消費者と生産者だった。普段顔を合わせることがなかった両者が、震災を機に被災地で交わったのだ。私はあちこちで目にした。生産者と消費者がつながる一次産業の可能性、魅力、強さを。そして生産者を介して自然のリスクと向き合った消費者が、当事者として覚醒する姿を。これを日常からやればいいのだと思い、「東北食べる通信」を創刊したのだった。

■「私はどうするか」
観客民主主義社会の日本は、一次産業と同様の問題があらゆる分野に巣食っている。食は誰もが毎日やっている最も身近なことであり、ここから入り、食べものの裏側の世界をのぞいて当事者としての自分の役割に気づいた人たちは、他の分野でも物事の裏を考えるようになっている。裏を考えるとは、自分が受益するサービスや財の提供者と自分がどういう関係性にあるのかを考えるということだ。だから食は、社会を変えるヘッドスピンになりうる可能性を秘めていると思う。食は、リアリティ再生装置になりえる。

消費する側から生産する側に回るということは、誰かの手にゆだねるのではなく、当事者になるということに他ならない。なにもみんなが生産者そのものになる必要はないが、自分のできる範囲で生産する側に参加することはできるはずだ。食を例にあげれば、食べる、買う、知る、交流する、訪れる、手伝う、仲間に宣伝する、SNSで情報発信する、定期購入する、リスクシェアする、自分の専門分野の知見を活かしてアドバイスするなど、誰でも自分にできることを見つけられるだろう。

>農協がどう、政治がどう、役所がどう、スーパーがどうではなく、「私はどうするか」。
ここが今の日本には決定的に欠けている。課題解決を他人の手にゆだね、ダメだダメだと批判してみても事態は一向によくなってこなかった。ならば今度は自分が課題解決の当事者として入っていくしかない。そうすれば、必ず今よりよくなる。

投稿者 noublog : 2019年06月14日 List   

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