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2019年06月06日

一億総百姓化社会のススメ~日々の暮らしの中に、『農』の時間を

現代社会に生きる私たち自身が生み出した、「リアリティの喪失」という化け物。

この難敵と対峙するための、一つの方策として、著者は「日々の暮らしの中に、意識的に『農』の時間を」と説きます。

知る、ではなく、発見する。
消費する、ではなく、生産する。
勉強はつまらないが、学ぶことは楽しい。

生きる意欲につながるこれらの気づきが、「農」を通じて得られるということ。

以下、抜粋引用(都市と地方をかきまぜる:光文社新書)

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■一億総百姓化社会
「食べものを育てる」という直接体験には、自らの生存基盤を己の手と汗でつくるという圧倒的リアルティがある。ひとつとして同じものがない自然の世界には、驚き、感動、発見が満ちている。

練馬区の農家での体験農業を、一年間経験した30代の女性はこう言う。
「普段はパソコンばかり触っているので、土いじりに癒されていました。土から小さな芽が出てそれが大きくなって、収穫して自分のお腹におさまることの不思議さ、面白さにも魅了されました。それまでも農業には興味があって本を読んだりしていたのですが、実際に”体験”することには、”知る”ことでは決して得られなかった”発見”があったんです」
本を読んで知ったことと、体を動かして発見したこととの間には、決定的な差がある。知識は受動的に受け取るものなのに対し、発見は主体的につかみとったものだ。発見の方が、圧倒的に喜びが大きいのは当然なのだ。これは勉強と学びの違いに近いと思う。勉強はつまらないが、学ぶことは楽しい。リアリティを感じることができないのは、暮らしの中に発見が少ないからではないだろうか。スマホで得られる知識は「他人」のものなのに対し、体験で得られる発見は「自分」のものだ。

都市の消費社会は、他人から与えられた知識で溢れかえっている。「知ること」は「消費すること」に似ている。どちらも自ら生み出したものではない。受け身なのだ。知ることばかり、消費することばかりの暮らしでは、リアリティを感じられなくなるのも当然のことだ。
一報「発見すること」は、「生産すること」に似ている。ともに自ら生み出す行為である。この発見と生産が結びつく場が、「農」である。つまり自分がいなければ存在しない世界。その世界はリアリティそのものだ。

今日本の農家は、全人口の3%に満たない。つまり97%にも及ぶ消費者が自然から切り離され、都市化し、「農」のない世界を生きている。そして化け物と対峙しようとしているのが、この消費社会だ。私はすべての人に、「農」の世界が必要だと思う。しかしみなが生産者になれるわけではない。ならば97%の人が、「農」の世界を生きる3%の人に接続することだと思う。
直接食べものを買っている生産者のところに観光がてら訪ねて、収穫体験をしてもいい。近場にいる生産者のところに通って、体験農業をしてもいい。忙しくて時間がない人は、せめてマンションのベランダにプランターを置いて種をまいてみたらいい。こうして無理のない範囲で自分の暮らしの中に「農」の時間を意識的に持ってみる。それだけでもだいぶ人間が変わると思う。

一億総百姓化社会。これが実現すれば、みんなが自然という生命のふるさとに「逆参勤交代」をしていくことになる。おそらくあちこちに、「農」を中心に据えるコミュニティが生まれてくることになるだろう。

投稿者 noublog : 2019年06月06日 List   

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