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2013年08月16日
シリーズ 茶のチカラ 「時代に翻弄された茶の湯」
茶のチカラブログも第4回となりました!さて、今回はお茶の文化において欠かすことのできない「茶の湯(茶道)」のお話です 茶道といえば、皆さんどんなイメージがありますか 🙄 ?
女性たちが着物を着て、狭い茶室で正座をしながらお抹茶を回しのんで、詩や花を愛でるイメージがありませんか?でも、ただお茶を飲むのに何故そんな大がかりな事をするようになったのでしょう?また、茶道は「おもてなし」や「マナー(作法)」の原点だとも言われています。
ただ飲むだけではなく、作法や形式と共に日本人がお茶を楽しむようになったのはどういった経緯があったのでしょうか?時代を遡って、お茶の文化がどう変わっていったのか追求していきましょう!
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抹茶を点てるスタイルができた「鎌倉時代」
実は、現代にある、抹茶を点てるというスタイルのお茶は、鎌倉時代にできたものなのです
当時、日本は源平合戦の真っただ中、まさに戦乱の世でした。そんな時代に、「我が国の仏教の誤りを正したい!」と中国へ出向き、「禅」の精神と抹茶を持ち帰ってきたのが栄西という若い僧侶でした
その栄西がもたらした茶は、現代の抹茶と非常によく似た、緑茶の粉末をお湯とかき混ぜて飲む習慣でした。中国では、すでに僧侶の間でお茶を日常的に口にする習慣があったのです。
そしてお茶は、栄西が創立した臨済宗の僧侶たちの間で「眠気が覚める!」「体調が優れる!」と評判になり、庶民たちの間にも段々と広まっていったのです
しかし、まだ、私たちが知っている作法や形式を大事にするあの「茶道」のかたちではなく、あくまで眠気覚ましや薬としてお茶が使われています。このお茶が単なる薬から、楽しむためのお茶に変わったのが室町時代です。
茶の湯がはじまった「室町時代」
さらに、戦が激化し、明日をも知れぬ時代を生き抜く武士、婆沙羅大名と呼ばれる流行好きの武士の間で大流行したのです 婆沙羅大名内では、『闘茶』といういわゆる賭け事が流行りました。お茶会を開いて、そこで出されたお茶の産地を当てる勝負です。それまでは薬として飲まれていたお茶が、金銭がらみとは言え、飲むことを楽しむという風に変わった瞬間でした
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一方、茶道のかたちが初めて形成されたのもこの時代でした。
天皇に使える公家の間では、書院造りの部屋で、並び飾られた輸入品の中国絵画や茶道具を鑑賞しながら、茶湯所で点て運ばれた抹茶を飲む「書院茶」のかたちが作られました。
その抹茶を運ぶ足取りや茶道具の扱い方もこの時代に確立されました。
わび茶の祖、村田珠光もこの時代に茶に目覚める!
さて、「茶道」といえばこの人!といえば皆さん「千利休」を思い浮かべるのではないでしょうか 😀
しかし、千利休よりもっと前に「茶道」をはじめた人物がいます。それは、村田珠光という人物です
珠光は11歳の頃に奈良の浄土宗のお寺に入り僧となりますが、お寺の仕事を嫌い、当時流行っていた「闘茶」に没頭しすぎるあまり、20歳でお寺を破門されてしまいました なんとも破天荒な人物ですが、珠光はその後、全国放浪の旅に出て30歳の時に大徳寺の一休宗純と出会います。(大徳寺は栄西が広めた臨済宗派の寺)
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そして、一休のもとで禅のこころを学ぶうちに、仏の教えは経典や僧侶の言葉の中だけにあるのではなく、茶の湯(日常生活)の中にこそ見出すことが出来るという悟りを開いたと言われています。以下、珠光が書いた「心の文」の書(現代語訳版)を引用します。http://tea.hamasaen.com/?eid=176475
“人の心には慢心と自分への執着があるから、自分よりも優れた人に対して反感を持ち、初心者を見下す。
茶の湯の道にとって最も大きな妨げとなるのは、慢心と自分への執着であり、巧者をねたみ、初心者を見下すようなことはあってはならない。優れた人には近づいて、その上手なところに感心する気持ちが大切であるし、初心者にはその修行を助けてやらねばならない。よい道具の味わいを十分に堪能し、心の根底から出発して高い品格をそなえ、そののちにすべてを否定して冷えやせた、枯淡の境地に至ってこそ面白い。唐物などのよい道具を十分に味わい尽くしてから得られる境地である。”
珠光は、それまでの派手で形式を重視した大名が好む「闘茶」ではなく、茶をたしなむ者の心の有様に重きを置いた茶の湯を追求しました 四畳半の質素な茶室の、脱俗した空間ではすべて対等で、身分や主従ではなく、ただ亭主のもてなしの気持ちが重要だと考えたのです。それは、公家の「書院茶」と庶民の間で行われていた簡素な「地下茶の湯」を取り入れ、更に一休から学んだ「禅」の精神を加味して作られたものでした
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そして、のちに大徳寺の布教は堺(大阪)へ広まり、のちに茶の湯を担ってゆく商人「武野紹鴎」や「千利休」と茶の湯を結びつけてゆくのです。
茶の湯が貴族との交渉の場に使われた戦国時代
茶の湯はその後、その弟子の武野紹鷗の手によって発展し、さらに、あの千利休によって完成されるわけですが、そんな茶の湯は、まずは、堺の商人の間で流行し、その後、戦国武将の間で大流行します
「荒くれ者」の印象が強い戦国武将たちですが、何故、茶の湯を好んだのでしょうか 🙄 ?その最大の理由は、まさに「荒くれ者」の印象を打ち消したかったことにあります。武力によって権力を握ったとしても、それを認めるのは朝廷、つまりは貴族たちです。彼らには、武力はありませんが、格式と教養があります。そこで、貴族と対等に渡りあうためにも、武士達は教養を身につけなければならなかったのです。戦国時代において、その教養の象徴が「茶の湯」でした
村田珠光が興した茶の湯の精神が、身分の高い貴族にとっては、身分が下である商人や武将を見下すのではなく、むしろ敬う想いに立ち返らせたのです
そして、茶室という密室空間が、身分や主従の関係を取っ払う、脱俗した空間を創り、商人や武将にとっては、普段では話を聞けないような身分が上の人とでも、対等に交渉出来る場にしていたと考えられます。
わび・さびは何処へ?信長の茶の湯
また、戦国時代の大名達は武功を立てた家臣たちに恩賞として領土を与えていました
それは織田信長も同じ。ですが、信長は島国である日本の限りある土地の代わりになるものを探し始めたのです。それが、当時堺や京の庶人の間で流行しはじめていた茶の湯でした。
信長は配下の武将に対し、茶の湯接待を主催できるか否かの序列を決めたのです。これに外れる者には茶の湯を禁じる許可制を敷く 😈 こうして、人々の茶の湯への関心はいっそう高まり、その影響は町衆にも及びました。いわゆる「御茶湯御政道」です。
また、天下の名物(茶器)ありと聞けば、いわゆる「名物狩り」により半ば強制的に召し上げ、法令(条目)まで発布したそうです。茶の湯がもてはやされた背景には、信長の大きな存在がありました。
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当時はまだ茶道という言葉は認知されておらず、茶は接客手段としてその場を楽しむためのたしなみであり、道具は財力と権力の象徴でした 信長が集めた名物も、中国の磁器や朝鮮半島からもたらされた陶器、絵画が中心だったようです。また、意外なことに、堺商人たちの反信長勢力を切り崩すため、商人を茶会に招き、信長自らが料理などを給仕したとされています
信長は、「茶の湯」を独自の感覚で政治の手段に利用し、名物と目される茶道具を、土地や金銭に代わる新たな価値として創出することに成功したのです。名物をもつ事は、名士として高いステータスを示し、茶道具は一国一城に匹敵する価値を持つものもありました。こうした茶の湯の政治化は信長によって確立されました。
信長亡きあとは、豊臣秀吉が茶の湯を民間にも広げようと大茶会を開催したり、注目を集めるため黄金の茶室や茶器を設けるなど新しい茶のスタイルをすすめようとしました。
そして、村田珠光が目指した「茶の湯」の存在は薄れ、外国の珍しい品々を評価する室町時代初期の派手な茶の湯が繁栄していったのです。
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現代に残る流派は順応性に優れていた!
幕府、諸大名、公卿等の間に茶の湯が盛んになると、町人の間においても茶の湯が流行しました。特に諸大名出入りの御用商人は,商売の取引に茶の湯を利用しました。茶会や茶事の催しが多くなったのは、そのためでもあります。江戸時代の中頃から後になると、中国の儒学が注目され始め、それが幕府に用いられ出すと、幕府の庇護によって勢力があった仏教が衰退していきました。それに従って、仏教的思想があった茶道は儒学の権威に圧迫され,茶人に対する待遇も低くなっていったのです
そこで茶人等は,経済的に豊かな町人を対象として、その勢力を伸ばすことを考えました この時代、大名や将軍に仕えて地位が与えられていた茶人たちですが、このように、いち早く地位を捨てて町人相手に指南を始めた流派は現在も残っていますが、権威のみに頼っていた流派や流名は残っていても、微力にものとなっています。ちなみに、この頃いち早く町人の指南を始めたのは利休の子孫が作った裏千家の家元、玄々斎でした。茶も湯の新しい作法や心得が書かれた指南書なども発行して順調に茶道人口を伸ばしたのです。その時代の流れを読み、順応しながら茶の湯のかたちを変えていったからこそ現代に残る事ができたのですね
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また、裏千家の家元、玄々斎と親交が深かったといわれる幕府の大老「井伊直弼」は、茶の湯に新しい思想を取り入れました。それが、現代の茶道の心得でもよくいわれる「※一期一会」や「※余情残心」でした。直弼は、主客ともに、親切実意を持って交わり、身分や貧富の差がない茶の湯をめざし、茶の湯のみならず、生活文化にまでこの心得を取り入れようとしていたのです
※一期一会…茶会に臨む際は、その機会を一生に一度のものと心得て、主客ともに互いに誠意を尽くせという意味。
※余情残心…茶事が終わってお客さんを見送った後で、その残りの湯で亭主が自分でお茶をたてて飲み、あそこをもう少し工夫すればよかったなとか、もっとよいおもてなしすることができたのにという風に考えること。
茶の湯の衰退した幕末
やがて幕末となり、開国、そして王政復古、明治維新と、日本は慌ただしく変化し、文明開化の時代になると、これまでのような格式色の強い茶の湯の形式は、一般の民衆から興味を持たれなくなり、茶の湯の不況時代が到来しました 😈 その中において裏千家家元の玄々斎は、明治五年にイスとテーブルを使ってお茶を点てる立礼式を考案するなど、新しいお茶の楽しみ方を追求していきました
再び人気を浴びる明治時代の茶の湯
明治時代、日清・日露戦争の頃になると国民の愛国心が深まり、茶の湯の精神も再検討されはじめます。更に第一次世界大戦前後にかけて、日本の経済力が飛躍的に増進し、いわゆる富裕な資本家が続出しました 共に、維新前後には、二束三文に近かった茶道具類の値段は著しく上昇し、再び茶の湯の好況時代が到来したのです そして、最も伝統が古く、かつ比較的順応性に富んでいた千家の茶道が、他の諸流派を圧倒して、その勢力を盛り返し、現代に至っています。
女性が参入した明治以降の茶の湯
しかし明治以後の茶道は、江戸時代のように格式張ったものでなく、民主化されて、その風雅な趣味が一般民衆に親しまれるようになりました。江戸時代には、庶民の教育の場として、寺子屋で茶の湯の女子教育が始まっていたが、1886年には、女子職業学校において、茶道が授業に取り入れました。そして茶道は、上層階級の女性の花嫁修業の一つとして、必ず学ばなければならないものなりました 昭和30年代以降は、 国民所得の増大によって余暇が生まれ、中流家庭の人にも茶道を学ぶ機会が与えられます。カルチャーセンター、 茶道教室といった手段を通じて、一般の人々も茶道を学べる環境ができてきたのです
そして、女性が多く参加する様になると、茶の湯の担い手は次第に女性中心に成っていったのです
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まとめ
それぞれの時代ごとに茶の湯の在り方をみてきましたが、皆さんはどう感じたでしょうか 😀 ?
茶の湯の祖である「村田珠光」はお茶を飲むことをただ楽しみ、相手をもてなす心に重きをおいた茶の湯の精神を築きました。しかし、時代が変わっていくと共に、茶の湯は交渉や駆け引きの場、あるいはステータスの象徴となり、珠光の思うところとは違う道へと進んでいってしましました。
今回、茶の湯を追求してみたところ、村田珠光の想い「相手をもてなす」というところに、本来のお茶の意義があるようです。
もう一度、村田珠光の想いに立ち戻るところに、今後のお茶の活路を見出していく可能性があるのではないでしょうか。
さて、今回は茶の湯をめぐる上流階級の人々のお話が多かったのですが、一方で、庶民の間ではどのような茶の文化が親しまれたのでしょう?次回は、庶民のめぐるお茶文化の話を追求していきます!
お楽しみに☆
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参考文献・HP
茶の湯のこころと美
万屋満載
茶道の歴史
表千家不審庵
こころの文―村田珠光―
一休宗純と茶の湯
「日本史のなかの茶道」 著:谷端昭夫
投稿者 staff : 2013年08月16日 TweetList
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