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2012年06月19日
農から始まる地域の再生~新しい生産集合体をどうつくるか?4 自治意識の高い村落共同体にとって、土地所有制度はどうでもよかった!
こんにちは、関谷です。
このシリーズも4回目になりました。
今回は、「土地の有効活用について、私有意識と制度の壁をどう突破するのか?」ということです。このテーマの問題意識について説明します。
こちらからお借りしました。
前々回の投稿では、戦後、GHQの政策によって、日本の市場化 が進められ、農業が衰退の一途をたどってきた事 が説明されていました。
市場の中では農業は儲からない分野であるため、農地解放により、私有化された土地は、農地の商業転用 や、農地を持っているが農業をしていない土地持ち非農家や外で働きながら片手間で農業を続ける兼業農家を多く生み出す結果となりました。
一方で、プロローグにあったように、農業に可能性 を感じ、新たに農業を志す人 が増えているのも事実です。しかしながら、新規の農業参入はハードルが高く、そこで必ず大きな壁 になってくるのが、「農地を確保できない :blush: 」という問題のようです。
農地を持っているけど農地として利用されていない、あるいは働く片手間で農業を行うというのは、農地を有効に利用できているとは言い難い状況 です。
農業を担っていきたい と思っている人がスムーズに農業に参入できるようにしていき、農地を有効に活用していくことは、農業を復興させていくための必須事項 であると思います。
そこで、耕作放棄地や農地の非効率利用が増えているにも関わらず、新規就農者に土地が回っていかないのはなぜなのか? 🙄
農地を持っている土地持ち非農家や兼業農家はなぜ、なかなか農地を手放せないのか?についてメス を入れていきたいと思います。
農地の流動化を阻んでいるのは何なんでしょうか?
すぐに思いつくのが、「ここは自分の土地なんだ」という意識=「私有意識 👿 」と「制度 」の壁です。
そこで、歴史を紐解き、誰がどのように農地を管理してきたのかという変遷を見ていき、 現在に至る私有意識と制度の成立を押さえることで、今後の農地の有効活用の手立てを考えていきたいと思います。
田んぼの所有に関連する歴史
土地の所有の歴史について、以前このブログで扱っていたので、それを引用します。
「律令制~墾田永年私財法~太閤検地~農地改革」より
(引用開始)
・6世紀以前は、各々の豪族が土地と民衆を直接支配していました。
・701年大宝律令が制定されると、班田収授や戸籍などの制度により、豪族の土地・民衆支配は否定され、中央政府による統一的な土地・民衆支配となりました。
・722年、国家収入を増やすため政府において大規模な開墾計画の一環として三世一身法が発布され、期限付きではありますが開墾農地(墾田)の私有が認められました。
しかし、期限が到来するとせっかくの墾田も収公されてしまうため開墾は下火となりました。
・743年に墾田永年私財法を発布し、墾田の永年私有を認めました。これにより、資本を持つ中央貴族・大寺社・地方の富豪は活発に開墾を行い、大規模な土地私有が出現することとなりました。このときの大規模な私有土地が荘園となっていきます。
・それまでは「農地は全て国の物で、農民はその田を使わせてもらう事でそれに応じた税を納める」というものだったのを、「自分で開墾した農地は、自分の土地として自由にしていい」事にしたもので、後に税も払わなくていい事になりました(もっとも、農地を開墾して私有地にするのは貴族・豪族・寺社などで、彼らは実際に耕作する農民から年貢を取り立てるわけなのですが)。
これ以降は、開墾した土地は開墾した人の物という価値観はごくごく自然な考えになっていった物と思われます。
・戦国時代の戦国大名は、地域支配を強めていき、従前の権利関係を解消して支配地域を家臣や寺社へ分け与えてゆき、荘園も、戦国大名に奪われ徐々に減少していきました。
・1580年代以降、秀吉により全国的に太閤検地が施行され、私有土地は剥奪され、1つの土地に1人の耕作者のみ認めることになりました。これで、従来の荘園に見られた重層的な土地所有関係がすべて解消され、奈良時代に始まった荘園はここで終焉を迎えることとなります。
・太閤検地では、村が一括して年貢を納入する村請(むらうけ)が採用され、江戸幕府も村請を継続しました。
・江戸時代、農地や山林の多くは、村落共同体のものであり、村によってその利用権が管理されていました。以上大雑把ではありますが、土地所有の歴史を見てきました。
(引用終わり)
ここまでの土地の所有者は、豪族→国→中央貴族・大寺社・地方の富豪→戦国大名→村と大きく変わっていきましたが、実際に耕作する農民に関して言えば、一貫して、農民には土地の所有権は与えられておらず、所有者から農地を借りて耕作を行う 。そして、出来た収穫物から、いくらか税という形で所有者へ収めるという形で耕作は営まれてきました。
ここで素朴な疑問が。。。
農民は、農地を借りる代わりに税を払う。つまり「搾取され続ける 😥 」ということを表しています。なぜ大きな混乱も無く、ここまでやってきたのでしょうか?
それを考えるヒントとして、るいネット「6/5なんでや劇場(2) 庶民にとって「お上」のことなど、どうでもよかった」から引用します。
(引用開始)
日本は縄文時代まで共同体社会であった。庶民(縄文人)にとって外からやってきた支配者たちの世界は、自分たちには無関係な世界であった。庶民にとっては 自分たちの共同体の共認充足が維持できればそれでよいので、支配階級の世界は捨象してきたと言ってもよい。「お上」という言葉が、自分たちとは無関係で あって、「どうでもよいもの」という庶民の感覚を良く示している。だから日本人は社会や政治を捨象し、観念も捨象してきたのである。
このような庶民の意識をいいことに、朝鮮から来た支配階級はやりたい放題の権力闘争を繰り返してきた。この土台の上に明治以来の試験制度が塗り重ねられると、試験制度の勝者である少数のエリートも、支配階級の価値観に染められ、組み込まれてゆく。
一方で日本の支配階級には、民の生活第一という価値観が底流として存在したのも事実であるが、それは次のような理由からである。
朝鮮から来た支配階級にとって、縄文人は信じられないくらい素直で従順であり、ほとんど戦争をすることなく、支配体制が受け入れられてきた。世界の常識で は当たり前の、力の原理に物を言わせて従わせるということが、縄文体質の世界では全く不要なのである。これは世界的に見ても極めて特異なことである。すると、支配階級の側も力で制圧するのではなく、縄文人たちと仲良くやった方が得→庶民の生活が第一という意識が形成されてゆく。このように「みんなのため」 「民の生活第一」という発想が日本の支配階級の間で形成されたのも、庶民大衆が縄文体質だったからである。
(引用終わり)
上記のような歴史をたどってきたのは、
日本人の特性である「日本人の縄文体質=受け入れ体質 」と「共同体社会 」であったことが関係しているようです。
日本人が縄文体質=受け入れ体質であったため、支配階級は、庶民を力でねじ伏す 必要が無かったこと。
日本人は共同体社会で暮らしていたため、身近な人間関係での充足 が何より大切だったこと。
そのことから、支配階級は、縄文人たちと仲良くやった方が得→庶民の生活第一を意識して統治するようになったと考えられます。
そのことを物語る江戸の暮らしぶりを紹介します。
るいネット「江戸時代の村落共同体のありよう(1)~農民自治の広がり~」より引用します。
(引用開始)
■村の自主性を育んだ「村普請」
「年貢割付状」は村単位に宛てたもので、村全体の納入額と割付の原則を示すだけで、あとの個別の割当・徴収は、すべて村に任せてあった。
年貢は領主が一方的に決めて百姓から有無を言わさず搾取するというものではなく、領主が提示した額を百姓が了承して請け負うという形を取っていた。もし納得できなければ、百姓側は異議申し立てを行うこともできた。
さらに、年貢を徴収する前提として、領主には一定の責務が求められた。大河川の治水工事など農業基盤の整備に努めたり、不作のときには困窮百姓に米や金を 支給して助けたりした。(「お救い」)もちろん、武力を背景に平和を維持することも領主の責務。領主は百姓に「仁政」を施し、「百姓成立」を支えるべき責任を負うという役割分担の上に成り立っていた。
そのため、領主は年貢の賦課・徴収など煩雑な実務の多くを村に任せ、居ながらにして年貢を受け取ることができた。その代わり、村は領主の関知しえない固有の領域を確保することが可能だった。
(引用終わり)
村単位で農地を農民に自治させるという形は、農民の自治意識を育み 、所有者である領主とは信頼関係 で結ばれていたようです。
農民が一方的に搾取されるということではなかったようです。
「農民は税の取立てに困窮し、苦しい生活をしていた」という学校の教科書やテレビドラマで表現されているようなものとは、実態は違うようです。
(まとめ)
江戸時代までの日本の農地における管理体制は、日本人の特性 が大きく関っており、土地の所有者や支配階級は変わるものの、集落の自治や土地の管理は、そこにいる庶民に一定の自治 が認められていたこと。庶民も自集団や農地に対する自治意識が高かったことが伺えます。
土地の所有権は農民に与えられなかったが、土地の自治は農民に任されたことで、土地の私有意識や、所有権を求める声も出なかったと言えそうです。
このように見ていくと、
「先祖代々守ってきた土地だから~」とおっしゃる農家の年配の言葉には、「みんなで守ってきた土地だから、粗末にしたらみんなに申し訳ない 😥 」という想いが込められているように思いました。
明治以降からは、市場経済が浸透するにつれて、土地所有の制度も意識も大きく変わっていきます。
次回をお楽しみに 😀
投稿者 keitaro : 2012年06月19日 TweetList
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