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2021年01月07日

農と金融8~”百姓スタイル”

【農と金融7~予測できない真っ白な明日を生きる】
に続いて。

「市場」がもたらした副作用を見つめて。

これからの働き方、生き方のヒントを、”百姓スタイル”に見出してみる。

 

以下、転載(「共感資本社会を生きる」2019著:高橋博之×新井和宏)

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■「市場」の副作用
新井)ちょうど規格という話と、効率という話が出ましたが、そこで問わなければならないのは、市場というものがどういう副産物、副作用をもたらしたのかということです。

規格というものに合わないと、存在自体が排除される。規格に合わないことこそ自然界では当たり前なのに、市場では不自然なものを並べはじめるわけじゃないですか。「こんなに同じ形の野菜がそろいつづけるって不自然だ」って考える力を持たなきゃいけないのに、考えさせないようにしている。スーパーマーケットに行っても同じものがそろっている。「切り身が泳ぐ」じゃないけど、それしか見たことがないっていう状態をつくってしまう。
それによって、自分が不自然であるっていうことに気づけない社会が、都会にはもうできあがってしまっている。それって市場がもたらしてしまった副産物、副作用だと思うんですが、どうでしょう。

高橋)市場っていうのは、物不足の時代に衣食住をあまねく提供するときに、それなりに役に立ったところもあると思います。だけど、この物余りの時代にいまだにマーケットが主舞台になってしまっていることに、自然は悲鳴をあげている。
だって、マーケットを相手にするといろんな農薬をまくような農法になってしまうし、それに違和感を持ったとしてもマーケットが安くてきれいな食材を求めてるのだから仕方ないや、となってしまう。結果、自然は疲弊していく。これって、さっきの子どもたちが疲弊していて、「こんな社会で生きたくない」と憤っているのと一緒の話だと思うんですよ。
ものすごく不自然なことをしているので、自然も、自然の一部である人間も壊れつづけているっていうのは、マーケットの罪なところです。

いままでの生産と消費っていうのは、いまのマーケットから生まれてきたんでしょうけど、AIがいろんなものを効率よくつくるこれからの生産を考えると、意外とチャンスだと僕は思っています。つまり、人間とは何かが問われる。

分業分業で効率性だけ追求していると、もっと効率的なものが生まれたら取って代わられるのは当たり前で。要は人間の仕事が簡単に機械に取って代わられるような分業の仕方をしちゃったんですよね。
それを踏まえて、AIにできないことで人間にできることは何だって考えるんです。その点で僕が百姓を面白いと思っているのは、100の仕事をするところ、いろんなことを総合的にやるところで、それはロボットには苦手なこと。
これは百姓以外にも広げられて、ひとりの人間が自分の人間関係だとか地域の中で総合的にいまの自分の立ち位置を決めて、やれることを想像し、創造していくことがミソなんです。
いかに唯一無二をつくれるか。これって、部分最適のロボット的思考ではなかなかできないことだと思うんですよね。生産の意味ですよ。これまでの生産とこれからの生産。【生産者の復権】にもつながることだと思います。

投稿者 noublog : 2021年01月07日 List   

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