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2020年02月27日

農と全人教育9~農業が、産業として成立する基盤

100年、200年というスパンで考えていかなければならない農業。

対して当期利益至上主義である株式会社、そのシステムをモデルに農業が制度設計されていくことの危険性。

 

以下、転載(「農業を株式会社化する」という無理 著:内田 樹)

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■農家が担う不払い労働
農業を営利企業のつもりでやった場合、たぶん失敗する。それは、農業という産業が成立するためには、その前段として膨大な「不払い労働」が存在するからです。それなしでは農業そのものが成り立たない仕事がある。

農業が成り立つためには、山、森林、湖沼、河川、海洋というすべての自然環境が整備されていなければなりません。山が守られ、森が守られ、川が守られ、海が守られて初めて農業が成立する。ある面積の耕地さえあれば単独で農業が成立するというものではありません。耕地をとりまくエコロジカルなシステムがそれ以前に整備されていなければ話にならない。この整備農耕が可能になるためには山を守り、森を守り、川を守るという仕事をしなければなりません。
これまでは不払い労働として農業従事者自身が担ってきた、山に入って草を刈ったり、道路を補修したり、河川を修繕したりという作業は、それ自体は農業ではありません。もちろん営利事業でもない。けれども、誰かがそれをやらないと農業が成立しない。そういう仕事です。それを農家の人たちが日常生活の一部として担ってきた。用事があってちょっと山に入ったときに、下枝を刈り、手の空いたときに水路の補修や道路の補修を村の仕事としてみんなで分担してきた。

 

こういう日常的な不払い労働の蓄積があって初めて経済的な活動としての農業が成立します。でも、もし仮に営利企業が農業に参入してきた場合、彼らは農業が成立するための環境整備のコストを果たして負担するでしょうか。僕は負担しないと思います。
それは、企業経営の基本戦略が「コストの外部化」にあるからです。営利企業の創意工夫はいかにして自分が負担すべきコストを「他に押しつけるか」にかかっています。排気ガスや工業廃水を垂れ流しにするのは「環境保全コストの外部化」です。自治体に道路の整備を求めるのは「流通コストの外部化」です。大学に「即戦力」を要求するのは「人材育成コストの外部化」です。コストを外部化することに成功した企業ほど、大きな収益を上げることができる。ですから、農業が成立するための基盤整備についても、企業は「環境保全は自治体の仕事だ。そういうことに税金を投入すべきだ」と言うはずです。「われわれはこの地域にわざわざやってきて、農業を始めてやろうと言っているのだ。雇用も創出するし、消費活動も活発になり、地域経済に大きな貢献をする。だから、われわれが農業ができるような環境整備をするのは自治体の仕事だ」と言い出すでしょう。これまで地域の農業従事者たちがやってきた仕事を、新しく登場してきた農業従事者は外部化しようとする。必ずそうします。コストを外部化しないで引き受けたら、農業ではほとんど利益が見込めないからです。

 

しかし、「強い農業」論者たちはこの問題を(意識的にか無意識的にか)見落としているように思えます。生産性が高い産業というのは要するに人件費コストの削減に成功した産業ということです。できるだけ人を雇わずに済む産業が「生産性が高い」とほめられる。ですから「強い農業」の場合も、どうやって農業従事者を減らすか、雇用した場合でもどうやって低賃金で働かせて人件費のコストを削減するかが喫緊の課題になります。
自営農をやっていた人たちが土地を手放さないと大規模農業はできません。まず人々が耕作地を放棄することが必要です。しかるのちに、彼らを賃労働者として雇い入れる。彼らにしてみると、それは自作農から小作農に身分が下がったということにほかなりません。もう自分では価値を生み出す資本を所有していないから、売るものは自分の労働力しかない。そういう人たちは「強い農業」からどう受益していると言えるのか。たしかに「強い農業」で利益を得る人間は出てくるかもしれませんけれど、それは利益を得る以上に多くの人たちの雇用を切り崩すことによってしか成り立たないシステムです。

 

農家の人たちは自分たちの「不払い労働」がどういう価値を持っているのか、あまりに日常的なので、その価値に気がついていないのかもしれません。不払い労働というのは、山林の管理や道路水路の補修だけではありません。祭礼や伝統芸能の継承もそうです。集団が存続し続けるためには、求心力がなければいけない。祭礼や伝統芸能はその求心力を備給する装置です。傍から見ると遊んでいるように見えるかもしれないけれど、実際には共同体を成立させるためには必須のものなのです。そういう周辺的なことも全部含めて初めて農業が成立している。だから、祭りの準備をして、寄り合いをしてみんなで飲んでというようなことは、農業共同体を成立させるために不可欠の行事なんです。そのために割かれる時間と手間は実は農業を可能にするために彼らが負担しているコストなんです。
「強い農業」論者は農地を統合して、機械化して、収量を増やして、人件費コストを削減すれば、儲けが出ると電卓を叩いているかもしれませんが、彼らは祭礼や伝統芸能も農業のためには必要だということはたぶん分かっていない。祭礼の準備や伝統芸能のために従業員が早退するとか休むとか言い出したら、「強い農業」の経営者は許さないでしょう。そんな活動にかける時間と手間を経費にカウントするという発想が彼らにはないからです。彼らは別に共同体の結束なんか求めていないからです。要るのは土地や水利権や賃金の安い農業労働者だけで、それが揃えば農業は成立すると思っている。

 

資本主義はその本性として「先のこと」は考えません。ですから、集団が生き延びてゆくために必須の社会的共通資本であっても、企業の当期利益になると思えば、どんどん市場に投じて商品化しようとします。
株式会社を野放しにしておけば、森林の乱伐や大気汚染・水質汚染に歯止めがかからないことは誰でも知っています。そんなことをすれば、地球がいずれ居住不能になるとわかっていても、株式会社にとってはそれよりは当期の利益のほうが優先する。それは株式会社にしてみたら当然なのです。平均寿命5年の生き物なのですから、「そんなことをしたら100年後にはたいへんなことになる」と言われても、死んだ後のことなんか知るかよというわけです。その点では僕たちだって変わりません。「そんな生活習慣をしていると100年後には病気になるぞ」と警告されても、「100年後にはもう死んでるよ」と歯牙にもかけない。株式会社化が危険なのは、その点なのです。その点だけと言ってもいい。当期利益しか考えないということがデフォルトのシステムなのです。
自然資源を守るのは100年、200年というタイムスパンの中では必要なことですけれど、株式会社の5年スパンからすれば、別に自然なんかいくら破壊しても、直接の影響はまだない。だから、農業のように長期にわたって安定的な環境が整備されていないと成立しない産業を株式会社をモデルに制度設計してはならないのです。

投稿者 noublog : 2020年02月27日 List   

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