| メイン |

2020年01月09日

農と全人教育2~農業は、資本主義とは相容れない

農業は、資本主義とは相容れない。

この認識は、日本人が失ってきた自然観、仕事観を取り戻すきっかけになる。

 

以下、転載(農本主義が再発見されたワケ 著:宇根 豊)

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

■百姓仕事の不思議さ
田んぼの稲とか、畑の野菜には、それに向き合っていると「嬉しい。仕事がしたい」と自然に思わせる力があります。私たち百姓の仕事というのは、相手の生きもの(作物など)の要請に応えてやっているような気持ちで田畑に通うところがあります。この共同関係によって支えられていると言ってもいいでしょう。天地有情の中での仕事の心地よさというか、嬉しさというものが、知らないうちに自分を支えてくれているわけです。

近年、農業の語り方が仕事の結果としての生産物の価値、それも経済価値に偏りすぎているような気がします。いわゆる「産業論」ばかりが目立ちます。なぜこうなってしまったのか、どうにか別の道は見つからないものだろうか、と考え続けてきました。
これが、昭和初期に生まれた「農本主義」を、私が見直そうとしている大きな理由です。農本主義者の眼力で、もっともすごいところは「農業は資本主義とは相容れない」という発見です。今の日本の農業が抱える問題点の多くが、この相容れなさを原因としているものだと私は考えています。農業が資本主義の尺度である経済価値で評価されるなら、直感で「やってられない」と感じてしまいます。たとえば、企業は赤字部門はすぐに撤退していくでしょう。それは、資本主義経済では当たり前のことです。しかし最初に述べたとおり、百姓の場合は、自分を支えているのが経済とは違うものだから、言ってみれば赤字になってもがんばり続けるのです。

法人経営をしている友人の百姓が、「どうしても人を雇っているから、8時間以上働かせてはいけないので、いろいろと制約が出てしまう」と言います。本来、百姓であれば農繁期はめちゃくちゃ働くものです。その代わり、農閑期にはゆっくり過ごします。なぜ百姓はそういうことができるのかというと、繰り返しになりますが、働くことを支えているものの尺度が、経済的な合理性ではなく、相手と一緒に働く喜びだからです。
逆にそれがないと、「早く5時になって仕事が終わらないかな」ということになるわけです。だから、先の法人をやっている百姓に私は言うわけです。「そういう気持ちだったら、もうやめたほうがいいぞ」と。べつに労働基準法違反をしろとは言わないけど、雇っている青年が、「もう5時か、ああ、あれもしたかったなあ」と思わないのなら、「もうちょっと仕事させてください」くらいの気持ちを持てないのであれば、百姓として一人前に育たないし、あなたの経営も続かないだろう、と言うのです。

■なぜ資本主義に合わないのか
なぜ農業は資本主義に合わないかは、「労働」ではなく百姓仕事の内実を考えていくと分かってきます。まず、百姓仕事は自然の中で行われますし、生きもの相手です。それは「自分(人間)」対「相手(生きもの)」という関係ではありません。生きもの全体、自然全体に自分も含まれるというものです。また、自分といっても自分一人だけではなくて、村の共同体などの広がりを持っています。そういう、人と人、人と自然とが切り離せない世界というのは、そもそも資本主義には扱えないし、近代化になじまないのではないかと考えて、農業の特徴は、おおまかに3つに整理できるな、と気づいたのです。
農業というものはつまり、「生きものが相手」で、「天地自然という共同体が母体」であり、つまり「人間の欲望に合わせて肥大するものではない」ということです。ところがこれまでの農業は、資本主義に合わせるために、近代化を図ってきました。そのために、「生きものを操作対象として見て」、「天地自然の制約を克服し」、「人間だけの都合を優先させて」近代化されてきたのです。それはやはり無理があるというものです。

そして農業と資本主義が合わないというもう一つの理由が、最初にも述べたように、「労働」というものが農業になじまないからです。労働というのは、極めて近代的な概念ですから、短いほうが、楽なほうが、報酬が高いほうがいいと言われています。
生産性の向上を図るとか、コストや労働時間で評価していくという価値観は、百姓仕事の観点では異質なものでした。人間にとっていちばん幸せな状態は、時を忘れて仕事に没頭しているときでしょう。「労働」している、という意識すら消えています。そういうときは、経済のことも、悩みも、時の経つのも、すべて忘れています。そういうひとときが、百姓仕事のいちばん幸せな状態だと思います。ハッと我にかえって、西の空を見ると日が落ちかけている、「ああ、もうちょっと仕事したいのに」というような状態です。こういうときに、労働時間は関係ないでしょう。とにかく、こういう時間が長く続いてほしい、こういう世界に長くとどまっていたい。
他の仕事にも、そういうひとときはあると思います。たとえば物書きであれば、原稿書きに没頭して、面白い原稿が書けそうな場合には、時を忘れて書くでしょう。でも、ハッと我にかえったとき、いつもの自分の部屋だ、仕事場だ、もうこんな時間だと思って、いっぺんに興ざめするのではないでしょうか。
百姓仕事の場合は、仕事への没頭から醒めて見渡す世界は、天地自然の中です。そのときに、自分は天地・自然に没入していたんだ、と感じるわけです。あるいは、天地と一体になっていたんだ、天地自然に抱かれていたんだと。かつての農本主義者は、これがいちばん人間らしい生き方だと言うのです。こういうふうに百姓仕事を「労働」ではなく、天地自然との協働だととらえるのが農本主義者の特徴です。ここから得られるものを、所得なんかよりはるかに深いところで感じているのです。

「生きものが相手」「天地自然という共同体が母体」「人間の欲望に合わせて肥大するものではない」。この3つの特徴は農本主義者の思想の核なのに、引き継がれ、発展させられないまま今日に至っています。

投稿者 noublog : 2020年01月09日 List   

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.new-agriculture.com/blog/2020/01/4307.html/trackback

コメントしてください

*