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2020年01月02日
人と里山1/2
明けましておめでとうございます。本日は、新年ということで、少し長くなりますが、里山についてクローズします。
※里山(さとやま)とは、集落、人里に隣接した結果、人間の影響を受けた生態系が存在する山をいう。
里山では、人が生きていく糧を農業にゆだねます。作物を作るために大地を改良し、水を引き、作物の成長を促進する環境を形成するのです。
では、里山を現在から過去を振り返ると・・・・そこには、人が今後生き延びていくための非常に重要な糸口が隠されています。都合二回に分けて、配信します。
Seneca21st【リンク】 からの転載です。では・・・
転載開始
(1)里山の崩壊と環境保全
いったい「里山」って何なのだろう。
辞書を紐解くと、里山は「人里近くにある生活に結びついた山」すなわち「山」、山里は「山間の集落や家屋」すなわち「里」を意味する。しかし、現在の「里山」の意味は、山、田んぼや畑などの農地、集落など、「山」と「里」を含んだもっと広い範囲のものになっているのではないだろうか。里山という言葉の広義解釈には滋賀県大津市在住、昆虫写真家の今森光彦氏の滋賀県での里山撮影活動の影響が大きい。
よく見る里山の写真集などの映像の中には「棚田」の風景がある。
映像で見る「棚田」の風景は確かに美しい。
しかしそれは、そこで生活している人々にとってはよい印象はない。棚田での農業は非効率的で、手間がかかるし、儲からない。地域の人々は先祖代々からの棚田の農地を維持管理して生活することだけで精一杯で棚田を美しいなどと思う余裕すらないのである。集落の多くの若者は生まれ故郷の棚田のある里山生活を捨て、都会へと働きに出てしまう。また、棚田がある集落へ嫁ぎたいという女性も少ないのも事実である。このような社会的背景を受けて全国の棚田は徐々に耕作放棄地へと変化しつつある。
「棚田」が美しいと感じる人は、残念ながら実際にそこで生活していない都会の人が多く、主人公とそれを取り巻くエキストラの間には大きな考えの隔たりがあるのだ。
しかし、今、エキストラたちが起こした里山ブームが新しい農業改革を起こそうとしている。消費者からより安全、安心な農産物生産が求められ、全国の里山の「棚田」などで子供達や消費者による「田んぼの生きもの調査」が実施されるようになり、農地とその周辺の環境保全の大切さが全国規模で浮き彫りになってきた。すなわち、農地やその周辺の環境保全的維持管理は農業だけの単一の問題ではなく、もっと広い問題として捉えられるようになったのである。
そういう国民の意識変革を受け、政府は平成19年から始まった経営所得安定対策の中の農業施策で「農地・水・環境保全向上対策」という新しい農業環境対策施策の柱を打ち出した。この施策は、従来のような直接的な農業生産に対して支援するのではなく、水路の管理や景観形成、田んぼや水路などその周辺の生物多様性を守るための維持活動や省農薬・省化学肥料栽培を行う環境対策など、地域ぐるみでの間接的な農地保持、農地周辺の環境改善を含め、安全、安心な農作物生産に対して支援を行おうというものである。
時代は大きく変わった!
ここで触れておかなければならいことは、環境への配慮への農業施策を打ち出したパイオニア的地方自治体は滋賀県、琵琶湖を抱える滋賀県、近江の国であるということである。滋賀県は平成13年から環境こだわり農産物認定制度を策定し、平成15年には環境こだわり条例の制定、平成16年からは環境こだわり栽培農家への直接支払い(交付金)制度を設定した。環境こだわり農産物の認定は、国よりも早く省農薬、省化学肥料栽培の他、琵琶湖周辺環境配慮への取り組みも義務づけるという本県の独自措置の農業施策を実施してきた。平成21年度の環境こだわり農産物の栽培面積は12、000ha、全国トップの取り組み面積である。これら環境こだわり農業の推進は琵琶湖を中心とした淡海(おうみ)文化を育んできた滋賀県だからこそ全国のトップバッターとしてなし得た偉業ではないだろうか。
(2)日本の高度経済成長と生活様式の変化
終戦後、とにかく日本人は目先の利益を求めた。 人々は蟻のごとく必死に働いた。
その甲斐あって、日本は1960年代に入り高度経済成長期に突入できた。日本人の生活は短期間でとても豊かになった。食糧も豊富になり、食糧不足で餓死する人もほとんどいなくなった。また、科学技術が進歩して効率化が進み、人々は汗水を流して働く機会や時間は極端に短くなった。ぼくたちの生活様式も大きく変わった!
さらに1985~89年にかけて土地と株の異常高騰が発生し、日本の経済バブルが絶頂期に入る。人々は更なる経営向上のため、目先の利益を重視せざるを得ず、自然環境破壊など考える余裕すらなかったのである。
1990年代に入り、そのバブル経済が崩壊した。
最初のしわ寄せは一握りの企業や資産家だけであったが、景気は回復せず、バブル崩壊が他人ごとであった一般の企業、多くの一般国民にまで徐々に波及していった。さらに不景気が続き、人々はようやくバブル崩壊の意味を、身をもって感じてきた。全国的に企業倒産、リストラが頻繁に起こるようになり、人々は高度経済成長期のころの阿波踊り様の裕福な生活から苦しい生活へ突き落とされた。
そのころ、人々はようやく地球温暖化現象による異変、里山、奥山の取り巻く環境と生き物の変化に気づき始めた。
バブル絶頂期、山林を伐採してそこに農薬漬けで単一の芝が張られているゴルフ場が大自然だと勘違いして会員制のゴルフ場でプレーしていた金持ちのゴルファーたちは、ゴルフ場開発が自然破壊の産物だと少しずつ気が付き始め、少し罪悪感を感じながらプレーするようになった。
また、近年、マツ枯れやナラ枯れ現象にびっくりしたり、サル、シカ、イノシシなどの野生動物が森から里へ頻繁に下りてくるようになり、人々は高度経済成長期の副産物として森が悲鳴を上げていることにようやく気づき始めたのである。
(3)森の生物多様性とホモ・サピエンスの誕生
生物種の多様化に拍車をかけることができたのは、現在からおよそ1億4千万年前、白亜紀初期に被子植物が出現したことから始まる。花弁を持つことが許された被子植物の出現により、植物や動物はそれ自身の種の急速的な多様化が始まった。そして、森では太古から生と死の循環が繰り返され、森と水の秩序がうまく保たれ、豊かな自然を基にして、それぞれの種が支え合って長年かけてかけ森の生物多様性に満ちた生態系が築き上げられてきた。その地球上の生物多様性が実現できたお陰でぼくたちヒト、ホモ・サピエンス、ぼくたち人は20万年前に誕生した。
豊かな森は人々へ真の意味の恩恵を与える。ユーラシア大陸では古代文明が豊かな森で生まれ、それをつなぐ文明の回廊があった。古代文明と豊かな森には密接な関係があるのだ。文明回廊は温帯の広葉樹の森でつながっており、そこには多様な生物が生息し、豊かな森には自然の浄化能力、回復力、治癒力があった。ぼくたち人類は、これら森の恩恵を受けながら森にとけ込んで1種の動物として生息してきた。やがて、人は森にとけ込む以上に個体数を増加させ、今のサル、シカなどの野生動物のように平地に移動し、それからも大規模な森林伐採を続けた。
島国である日本でも人口が激増し、人が利用するための空間として里山を形成した。原始の森では動植物の間には途方もない年月をかけて複雑な多種多様な共生関係が築き上げてきたが、人が自然を開拓して創り上げた人工的自然である里山では、人が管理することによって初めてその地域の生物多様性の共生関係が維持できるのだ。
日本の経済成長期が始まって以後、人の生活様式が変わって里山の雑木林、人工林、農作物などの経済的価値が低下した。次第に人々と里山との関わりが薄れ、人は里山を管理しなくなった。今、全国で昔の里山構造が崩壊しつつある。
次回に続く。
投稿者 noublog : 2020年01月02日 TweetList
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