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2015年01月20日

日本農業、破壊の歴史と再生への道筋2~変容する地主階級

 

前回記事:「日本農業、破壊の歴史と再生への道筋1~明治時代、亀裂が生じ始めた農村共同体」

 

明治時代に導入された地租改正は、農村に地主制を定着させ近代的な土地所有権制度を確立した一方で、小作人の地位を著しく低いものにした。

それまで平穏であった農村共同体に生まれた、「地主」と「小作人」。両者の関係は、その後近代化に突き進む社会情勢に翻弄されながら、徐々に亀裂を深めていく。

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■強大な政治力を手にした地主階級

「日本の農業を破壊したのは誰か」(著:山下一仁)より引用(P24)
地租改正は、東日本などでは旧来の年貢を上回る高額の負担となったため、農村経済に大きな打撃を与えた。特に、地租改正を受けて小作料が引き上げられたことに、小作人は反発した。さらに、明治政府は、”入会地”とされてきた土地や森林を、土地所有権が明らかでない、つまり持ち主不明として、官有地や御料林に組み入れ、住民の自由な利用を禁止してしまった。こうしたことから農村の不満が高まり、各地で地租改正反対一揆が起こった。

1890年に開設された帝国議会は、農村の不満のはけ口としての役割を果たすものだった。選挙権は直接国税15円以上納税の満25歳以上の男性に与えられたが、税収のほとんどが地租であるため、衆議院の選挙権を持つ多くの者は、地租の納税義務者である地主だということになる。つまり、地主に対して、衆議院の選挙権が与えられたのである。貴族院では、華族と並んで、多額納税者として議員資格も与えられた。

こうして地主階級は帝国議会を舞台に強力な政治力を持つようになった。帝国議会初期の「民力休養」論は、産業振興、軍備拡張などの財政膨張政策をとる政府に対し、地租の軽減を求めるものだった。戦前の農林官僚による小作人解放の努力が、帝国議会によって悉くと言ってよいほど葬られたのは、地主階級の政治力によるものである。

強大な力を得た地主階級は、貨幣経済の広がりととともに、その性質を大きく変容させていく。

 

■不在地主の増加で崩れ始めた共同体性

戦前の農村は地主と自作農、小作農で構成される社会だった。初期の地主制では、地主も小作農も、同じ農村で顔を合わせながら生活する関係なので、利益が対立しても抜き差しならない関係には発展しなかった。小作料は高額だったが、不作で小作料が支払えないと判断すると、しばしば地主は小作料を減免した。ニワトリが卵を産めなくなると、元も子もないからである。

地租は物納であった江戸時代の年貢を金納としたため、農村は貨幣経済に組み込まれていった。地租導入直後はインフレにより農村も潤ったが、1881年以降の松方デフレによって米価が低下し、地租が支払えなくなった自作農の多くは、農地を売却し、小作農に転落した。自作農の没落は松方デフレ以降も続き、農地の半分は小作地となっていった。

地主は、1904年の日露戦争以後の地租引き上げ、米価低落により、農業よりも株式などの有価証券に投資するようになった。また、農地を購入した商人や金融業者が新しく地主になるなど、農村で生活しない不在地主が増加し、地主勢力は寄生化していった。

収穫したコメの半分を小作料として地主に納めなければならない小作農が増加するとともに、村落共同体に所属しない地主が増えたのである。地主と小作農の温情的な関係は、次第にギスギスした、心の通わないものとなっていった。また、明治期に品種改良や技術普及によって、農業の生産性向上をリードした地主階級も、不在地主化する仲で、農業生産よりも農地から得られる小作料に関心を持つようになった。このような中で、小作料の減免などを求める小作争議が頻発するようになった。平穏な農村共同体内部での争いの発生である。

 

このように、明治以降亀裂を深めていった農村社会は、戦後の農地改革で一変する。

しかしGHQと時の政治家達が主導したこの改革は、表向きは”小作人解放”であったが、裏には隠された意図があった。

 

 

投稿者 noublog : 2015年01月20日 List   

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