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2015年01月27日

日本農業、破壊の歴史と再生への道筋3~農地改革の欺瞞

前回記事:日本農業、破壊の歴史と再生への道筋2~変容する地主階級

 
地租改正を機に、強大な政治力を発揮した地主階級の台頭を始め、大きく変容してきた農村社会だったが、戦後の農地改革により一変する。

しかし”小作人解放”を大義名分としたこの改革は、決して後の農業振興につながるものではなく、むしろ戦後の農業衰退を決定づける要因となった。

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■農村共同体に浸透した”均質化””平等化”

「日本の農業を破壊したのは誰か」(著:山下一仁)より引用(P27)

農地改革は、252万戸の地主から、農村にいない不在地主の所有農地の全て、在村地主の小作地のうち、1ヘクタールを超える小作地、3ヘクタールを超える在村地主の所有農地、合計すると全農地の35%、小作地の75%に相当する177万ヘクタールを極めて低い価格で国が強制的に買収し、財産税物納農地と合わせて194万ヘクタールの農地を、420万戸の農家に売却したものであった。

小作農に農地の所有権が与えられ、農村の構成員のほとんどが1ヘクタール程度の自作農となった。地主と自作農、小作農で構成された多様性を持った農村は、寄生地主制を経て、構成員である農家が均質で、平等な社会へと変化した。改革というより革命的な変化だった。農村の発展は農家の共通の職業である農業の発展と同義となった。そして、均質な農家から構成される農村は、JA農協によって組織された。日本の協同組合の組織運営は、どの組合員も同じ投票権を持つという”一人一票主義”を基本原理としている。組合員は皆平等であるという考えである。農地改革直後の農村の状況は、農協の組織原理にぴったり合っていた。

 
■政治的権益への執着が農地法制定をもたらした

所有権を与えられた元小作農は保守化し、保守政党を支える基盤となった。終戦直後、小作農の地位向上を求めて、農村に社会主義運動がわき起こった。しかし、これは、農地改革の進展とともに、風船の空気が抜けるように、急速に勢いを失っていった。GHQは当初農林省が提案した農地改革に関心を持たなかった。農地改革の案を説明した農林省担当課長に「反対はしないよ」と言っただけだった。しかし、小作人に農地の所有権を与えることで、農村を保守化し、共産主義からの防波堤にできると気付いてからは、マッカーサーは農地改革の積極的な推進者となった。

GHQは、農地改革の成果をさらに確固たるものとすべく、農林省に農地法の制定を要求した。しかし、戦前から小作人の解放と並んで、”零細な農業構造の改革”を使命としていた農政官僚たちは、農地改革の成果を固定することを目的とした農地法の制定に抵抗した。彼らは、農地改革で小作農を解放した後、零細な農業構造改善のために”農業改革”を行おうとしていたのである。地主階級の代弁者だった与党・自由党も、農政官僚とは逆の立場から、農地法には反対した。

しかし、のちに総理大臣となる池田勇人は、GHQと同様、農村を保守党の支持基盤にできるという農地改革・農地法の政治的効果にいち早く気付いていた。池田は、自由党の内部をとりまとめ、農地法の制定を推進した。農地法は単なる農業関係の法律ではない。戦後という時期において、それは強力な防共政策であり、保守党の政治基盤を築いたものだったのである。

農地法の本質は、農地改革が実現した、農地の耕作者=所有者という形態が最も望ましいというものだ。これを”自作農主義”という。したがって、耕作者は従業員、所有者は株主という株式会社は、制度の本質から認められないものとなった。

 

農地法の制定によって農地改革による零細な農業構造は固定され、規模拡大による農業発展の道が閉ざされた。一方で、農村の保守化が進み、自民党による長期政権が実現される結果となった。

そして、これら保守化した農村を組織し、自民党政権の下で最大の圧力団体となったのが、JA農協である。

次回は、巨大圧力団体「JA農協」が誕生した背景を押さえながら、この組織の実態に迫りたい。

投稿者 noublog : 2015年01月27日 List   

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