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2015年01月13日

日本農業、破壊の歴史と再生への道筋1~明治時代、亀裂が生じ始めた農村共同体

近年、農業を取り巻く環境は、企業の農業参入を初め新たな可能性の萌芽が見られるものの、依然として厳しい環境下に置かれている現実に変わりはない。

他方、農業にはたくさんの謎がある。例えば、
「食料自給率向上や食糧安全保障を叫ぶ農政が、なぜコメの減産や水田の減少につながる減反を推進するのか?」
「農業就業者や農家戸数が大幅に減少するのに、なぜ農協の組合員は増加し続けるのか?」
「農業が衰退するのに、なぜ農協は日本第二のメガバンクに成長するなど、繁栄するのか?」

古くは国の基幹産業として、また地域共同体の核として守られてきた農業が、ここまで破壊されてきたのはなぜか。時の農政=”お上”は何をしてきたのか。そしてこれからの農業の可能性はどこにあるのか。

歴史を振り返りながら、考えていきたい。

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■農村共同体の変化
日本の歴史の中で、産業としての基盤のみならず、地域社会形成の基盤として育まれてきた農村共同体。しかし明治時代に入り、その姿が変容し始める。

「日本の農業を破壊したのは誰か」(著:山下一仁)より引用(P22)
農村集落は、農業生産を通じて自然発生的に形成された、小さな自治体だった。イエを中心としたこの自治体は、構成員である住民に対して、集落のオキテ・ルールを定め、それを執行するとともに、住民がそれに従わないときは処罰したり、住民間でトラブルが生じたときは仲裁したりした。また、里山の利用や農業用水の利用(入会権や水利権)を巡っては、集落間で対立が激しく、時には大きな紛争に発展した。この時、集落の長は住民を代表して、他の集落との調整にあたった。

つまり、集落は、住民に一番近いところにあって、一種の立法、行政、裁判、外交の権限を行使する自治体だった。しかし、この自治体機能は、明治以降大きく変化する。

明治政府が成立した際、めぼしい産業といえば農業しかなかった。1900年頃までGDPに占める農業の割合は4割を超えていた。明治の農業は停滞していたのではない。地主、老農や富農と呼ばれる人や政府系の研究機関によって、海外の農業技術に刺激を受けながら、品種改良など農業技術の革新、その普及が積極的に行われた。都市や工業が主で農村や農業が従だという現在の通念とは逆だった。

殖産興業や軍備拡張等の財源は農業が負担した。立ち上がったばかりの明治政府にとって、唯一とも言えるほどの最大の歳入源は、地租、つまり農地に対する課税だった。1873年の地租改正時において、地租は国税収入の9割を超えており、明治10年の1877年においても8割、1892年においても6割を超えていた。明治の半ば頃まで、農業が国家財政を支えていたのである。

地租改正は、単なる税制改正ではなかった。土地所有者を確定するという実体経済に大きな影響を与えるものだった。1872年の地券法に基づく土地所有を確定するための地券の交付から、1873年の地租改正条例の制定を経て、1881年に地租改正事務局が廃止されるまで、10年を要した大事業だった。

江戸時代の農地の所有関係は、土地を全面的に支配する所有権とその下にある賃借権というような近代法的な関係ではなかった。地代徴収権と耕作権という二つの権利が併存し、どちらを所有権者といってもよかった。しかし、地租改正は、地代徴収権者から地租を徴収することとし、これに完全な所有権を与えた。これによって、農村に地主制が定着するとともに、国民経済的には近代的な土地所有権制度が確立した。しかし、耕作権者である小作人の地位は著しく低いものとなった。

 

明治時代、近代化を推し進めるための財源確保を目的に行われた地租改正 は、農村共同体が育んできた地域関係に、亀裂を生じさせるきっかけとなった。

この亀裂は、その後の社会情勢の変化も相まって、ますます大きくなり、産業基盤としてのエネルギーを失う大きな要因となっていく。

投稿者 noublog : 2015年01月13日 List   

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